[下調べ]言霊信仰 7天然痘
テレビを見ていたら、歴史学者の磯田道史さんが、✳1奈良時代天然痘が大流行(735年~737年)し、人口の1/4の100万~150万人が亡くなったと仰ってました。奈良時代に総人口が約450万人だった事に驚きましたが、仏教伝来以前は、日本に天然痘はなかったそうです。✳2祟神天皇時(伝承時代)に疫病が蔓延しているのですが、そこは架空扱いだからやっぱりカウントしないのかと思いました。
それにしても、聖武天皇(在位:724年~749年)の心労はいかばかりだったかと考えてしまいます。✳醍醐天皇(在位:897年~930年)の孫女「隆子女王」は在位3年で疱瘡(天然痘)にかかりお亡くなりになりました。斎宮で亡くなった初めての斎王だったそうです。✳http://genki3.net/?p=95783
斎王は、仏教を禁じ仏教用語を忌み詞として別の言葉に言い換えていました。✳3穢れを避けるためと、天照大御神への配慮、それと女性的な直感からの疫病対策ではないかと秘かに思っています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~Wikipediaより~
✳1天平の疫病大流行は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。ある推計によれば、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとされている。天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となり、国政を担っていた藤原四兄弟も全員が感染によって病死した。天然痘の流行は738年1月までにほぼ終息したが、日本の政治と経済、および宗教に及ぼした影響は大きかった。
背景 日本の中央政府は、8世紀初頭までに中国にならった疫病のモニタリング制度を導入しており、国内で疫病が発生した際には朝廷への報告が常に行われるよう公式令で定めていた。この制度の存在により、735–737年に発生した疫病の際にも詳細な記録が残されることとなった。それらの記録は『続日本紀』他の史料に残されており、流行した疫病が天然痘であったことを伝えている。
発生 天然痘は735年(天平7年)、大宰府管内である九州北部で発生したと記録されている。平安時代末期に書かれた歴史書によれば、735年の流行の感染源となったのは「野蛮人の船」から疫病を移された1人の漁師とされている。一方で、発生地から見て遣新羅使もしくは遣唐使が感染源である可能性が高いとする見方もある。735年8月までに九州北部では天然痘が大流行しており、事態を受けた大宰府は8月23日、管内(九州)の住民に対する当年度の税の一部(調)を免除するよう朝廷に要請し、許可された。翌736年(天平8年)になっても九州での流行は続き、農民の多くが天然痘により死亡、もしくは農地の放棄に追いやられ、収穫量が激減したことで飢饉が引き起こされた。
736年2月、聖武天皇は新たに遣新羅使を任命し、4月には阿倍継麻呂を団長とする使節団が平城京を出発した。使節団は九州北部を経由して新羅に向かったが、一行はその道中で天然痘に感染し、随員の雪宅満は新羅に到達する前に壱岐で病死した。その後、大使の阿倍継麻呂も新羅からの帰国途中に対馬で病死し、残された一行が平城京に帰還すると本州にウイルスが持ち込まれ、737年(天平9年)には天然痘が全国的に大流行することとなった。737年6月には平城京で官人の大多数が罹患したため、朝廷が政務の停止に追い込まれる事態となった。737年7月には、大和国、伊豆国、若狭国、伊賀国、駿河国、長門国の諸地域が相次いで天然痘の大流行を報告した。737年8月には、流行の拡大を受けて税免除の対象が九州だけではなく日本全国の地域に広げられた。737年の流行は庶民だけではなく全ての階級の日本人を襲い、死亡した多くの貴族には藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂という当時の国政を担っていた藤原氏の四兄弟も含まれていた。天然痘の流行は738年(天平10年)の1月までにほぼ終息した。
日本史の研究者ウィリアム・ウェイン・ファリス が、『正倉院文書』に残されている当時の正税帳を利用して算出した推計によれば、735–737年の天然痘による日本の死亡者数は当時の総人口の25–35パーセントに達しており、一部地域ではそれをはるかに上回る死亡率であったという。ファリスの推計に従えば、この時期の日本では100万–150万人が天然痘によって死亡していたことになる。
余波 政権を担っていた藤原四兄弟が相次いで病死した後、彼らの政敵であった橘諸兄が代わって国政を執り仕切るようになった。天然痘の終息から数年後には、農業生産性を高めるため、農民に土地の私有を認める「墾田永年私財法」が施行されたが、これは疫病によるダメージからの回復を目指す社会復興策としての一面が強かった。
当時、災害や疫病などの異変は為政者の資質によって引き起こされると見なす風潮があり、天然痘の流行に個人的な責任を感じた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺および盧舎那仏像(奈良の大仏)の建造を命じたほか、日本各地に国分寺を建立させた。盧舎那仏像を鋳造する費用だけでも、国の財政を破綻させかねないほど巨額であったと言われている。
天平の疫病大流行の後、日本では数世紀にわたって天然痘のエピデミックが繰り返されることとなった。しかし、10世紀を迎える頃には日本人にとって天然痘の流行はエンデミックと化しており、735–737年のような壊滅的な被害が出ることはなくなった。
大衆文化 2017年発表の澤田瞳子の歴史小説『火定(かじょう)』は、737年の天然痘大流行を題材にしたものであり、第158回直木賞の候補作となった。
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https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19538より
✳2最初の疫病は、『日本書紀』(以下『紀』)の崇神(すじん)天皇5年条に登場する。
〈国内に疾疫(えのやまい)多くして、民死亡(まか)れる者有りて、且大半(なかばにす)ぎなむとす(国内に疫病が流行し、死ぬ者が多く、民の半分ほどだった)〉
この一文は、伊勢神宮など主要な3つの神社の起源説話の契機とされる。ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇)と称され、ヤマト王権の実質的初代天皇とされる第10代崇神は、磯城(しき・奈良県桜井市)の瑞籬宮(みずがきのみや)に宮都を定めた。
次の年、崇神は天神地祇(てんじんちぎ)に祈ったが民の離反は止まらない。顧みると、宮中に(天神の)アマテラス(天照大神)と(地方神の)倭大国魂(やまとおおくにたま)神の2神を並べて祀(まつ)っていた。神霊が強く両神が合わないのかと、皇女2人が別々に祀ったがうまくいかない。その後、夢やお告げの通り、太田田根子(たねこ)を探して(三輪山の)大物主神を、長尾市(ながおち)に倭大国魂神を祀らせたところ、崇神7年に疫病は収まり、五穀が実り国内は安定した。つまり、天皇家の祀る太陽神(ここではアマテラス)と、農耕神(=竜蛇神)の地方神は一緒に祀ると災いがあり、各自伝統の家柄の者が奉斎すべきだった、と教示する。アマテラスに関しては、次の垂仁(すいにん)天皇の時代、皇女ヤマトヒメが鎮座地を求めて巡行し、「常世(とこよ)の浪の重波帰(しきなみよ)する国」である伊勢に至り、「社(やしろ)」を立てた、と『紀』は記す。しかし、これは疑わしい。多くの研究者が指摘するように、アマテラスを祀る皇女・斎王(さいおう)の伊勢派遣は5世紀後半の第21代雄略天皇の時に始まり、斎宮(さいぐう)の制度として整ったのは7世紀後半の天武朝から、だからだ。古代日本において天皇の権力がもっとも高まったのが第40代天武天皇の時代。天武は壬申(じんしん)の乱(672年)で皇位を奪取したが、行軍の途上で伊勢のアマテラスを望拝したことが勝利につながった。そこで伊勢神宮を設け、斎王による祭祀制度を確立したのだ。
世を騒がす次の疫病の記事は、『紀』の仏教伝来当時の起源説話である。6世紀前半、百済(くだら)の聖明王から第29代欽明天皇の下に仏像や経典が贈られた。いわゆる「仏教公伝」だが、外来の神の受容を巡っては、崇仏派(蘇我氏)と排仏派(物部氏や中臣氏)の間で激しい争いが起き、結果として疫病が流行したのだ。天皇自身は受容せず、蘇我稲目に礼拝を任せたところ疫病が発生、多数の民が亡くなった。そこで物部尾輿(おこし)らは天皇の同意を得て、蘇我氏所有の仏像を難波の堀に投げ棄て、建てた伽藍に火をつけて焼失させた。対立は次の世代も続き、蘇我馬子と物部守屋が争った時にも疫病の惨劇が発生した。かくして第31代用明天皇の崩御の年(587年)、馬子は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと共に決起し、物部守屋の一族を滅ぼした。崇仏派の全面的な勝利である。国の宗教である仏教を受け入れた「祟り」とされる疫病は、現在の天然痘だった(崇神朝の疫病にも天然痘説がある)。ともあれ、古代の天皇は何よりもまず神を祀る司祭者であったため、国家にとって最重要事の祭祀対象の改変に際しては、(天皇としての資質を問うような)多数の民を巻き込む悲劇(疫病)が付随した、と思われる。
同格だった神仏の関係が崩れる
ちなみに田村圓澄『仏教伝来と古代日本』(講談社学術文庫、1986年)によれば、蘇我氏が滅ぼされた645年の大化改新(正しくは乙巳(いっし)の変)の理由の一つは、「天皇家が仏法興隆の主導権を、蘇我氏から奪取することだった」と記述する。その後、王権神授説(『金光明経』など)で天皇支持を明確にした仏教は、天武朝以降は鎮護国家の国家仏教として普及した。そして平城京の第45代聖武天皇が大仏造営を発願した時、✳4始祖神(八幡神)を祀る宇佐八幡宮は「天神地祇を率いて成就させる」と託宣した。前掲書によればこの時、それまで同格だった神仏の関係が崩れ、「仏」が「神」より格上の救済者になった、と指摘する。
この説に従うと納得できることがある。
推古・皇極・持統と女性天皇が頻出したために天武・持統朝に伊勢神宮のアマテラスが女性の皇祖神になったと思われるが、なぜ歴代の天皇はただの一人も(明治時代まで)伊勢に参拝しなかったのか、という理由だ。つまり、天皇家が宮中でタカミムスヒ(高御産日)など始祖神8神を祀っている以上、また神仏習合で大半の神社に神宮寺があり、神より格上の仏が天皇家を守護している以上、伊勢に御座(おわ)す例外的皇祖神に天皇自身が参拝する必要はなかったのだ、と推察される。
3つ目の疫病は、その伊勢のアマテラスが約1200年の眠りを経て再び息を吹き返すきっかけとなったコロリ(コレラ)である。インドの風土病だったコレラが19世紀初頭から20世紀初頭にかけて猛威をふるったのは、近代化による国際交流の結果だった。その意味では新型コロナの原初型と言える。
安政5(1858)年、長崎に上陸したコレラは大坂・京都を経て江戸に達した。立川昭二『病気の社会史』(NHKブックス、1971年)によると、江戸のみで死者10万余人を数えたという。続いて文久2(1862)年夏にも流行し、この時は江戸だけで7万3000人の死者が出た。安政のコレラは、その5年前に浦賀に来航したベリー艦隊の一隻ミシシッピー号が改めて持ち込んだもので、安政2年の大地震の被害も重なり、庶民の間に開国への不安や外国人への敵意が生じ、終末観が広まった。
明治天皇が伊勢神宮を参拝
やがて開国、新たに明治時代が始まる。明開化を掲げた新政府は、欧米を模倣する一方、「王政復古」の基盤を神武創業に置くことにしたが、神武時代は不明。そこでモデルになったのが天武・持統朝の古代律令制である。初代神武天皇が大和平定後、鳥見(とみ)山(奈良県桜井市)の皇祖天神(タカミムスヒ?)を祀ったのに倣い、明治2(1869)年明治天皇は史上初めて伊勢神宮に参拝した。神祇官が復興され、伊勢神宮を頂点とした全国の神社の序列化も進んだ(相前後して神仏分離令に伴う全国規模の廃仏毀釈(きしゃく)が進行)。江戸時代の「お伊勢参り」は天皇崇拝とは無縁の物見遊山だった。しかもアマテラスを祀る内宮(皇大神宮)より豊受大神を祀る外宮(豊受大神宮)の方が勢力があり、優位だった。その状況が突然一変したのだ。そして、アマテラス以来の「万世一系の天皇」が統治する「大日本帝国」が誕生したのである。
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✳3穢れ
穢れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。死・疫病・性交などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる。
一般の穢れ観念
穢れまたは不浄に相当する観念は世界的に見られ、質・程度の差こそあれ多くの文化に存在し、宗教学的、文化人類学的に見て重要な概念である。穢れたものは、それに物理的に触れることだけでなく精神的に触れることによっても「穢れ」が「伝染」すると見なされている。手や体を水で洗うことは目に見える汚れを落とすと同時に「穢れを祓う」ことでもあると考えられている。近・現代の自然科学的な説明体系では手や体を水で洗うことは「病原体を洗い流すために洗う」などと説明するが、そうした説明体系・観念体系とは異なった言葉の体系となっている。
穢れ観念は現代でも禊、灌頂や洗礼を始め様々な宗教儀式に名残を留めている。神道の「罪穢れ」のように罪と穢れを同列に扱う考え方も、古代には特殊なものではなかったと考えられている。
穢れているとされる対象としては、死・病気・近親相姦・獣姦・女性・怪我・蠱物(まじもの)、ならびにこれらに関するものが代表的である。
自らの共同体以外の人(他県人・外国人・異民族)やその文化、特定の血筋または身分の人(不可触賎民など)、特定の職業(芸能、金融業、精肉業等)、体の一部(左手を食事に使ってはならない等)なども穢れとされることがある。これらは必ずしも絶対的な穢れというわけではなく、行為などによって異なることが多い(例えば、ある動物に触れるのは構わないが食べてはいけない、など)。
穢れの観念は民間信仰はもとより、多数の有力宗教にも見られる。ユダヤ教では古くから様々な穢れの観念が事細かに規定され、これは食タブーなどに関してイスラム教にも影響を与え、現代でも多くの人々の生活様式に影響を残している。バラモン教の穢れ観念は現代のヒンドゥー教に受け継がれ、また仏教にも影響を残した。
「穢れ」に対立する概念は「清浄」または「神聖」であるが、穢れと神聖はどちらもタブーとして遠ざけられる対象であり、タブーであることだけが強調されて、必ずしも厳密に区別できないこともある。例えばユダヤ教では動物の血は食に関する限り「不浄な生き物」と同様に忌まれるものであるが、これはユダヤ教において「血は命であるから食べてはならない」(申命記)と説明される神聖なものであることに起因するものであり、決して穢れたものであるからではない。
類似語でユダヤ教/キリスト教では罪という言葉で聖書に表されている。
日本
仏教、神道における観念の一つで、不潔・不浄等、理想ではない状態のことである。
「けがる」と「よごる」の違いは、「よごる」が一時的・表面的な汚れであり洗浄等の行為で除去できるのに対し、「けがる」は永続的・内面的汚れであり「清め」等の儀式執行により除去されるとされる汚れである。主観的不潔感。
併せて「罪穢れ」と総称されることが多いが、罪が人為的に発生するものであるのに対し、穢れは自然に発生するものであるとされる。穢れが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられた。穢れは死・疫病・出産・月経、犯罪等によって穢れた状態の人は祭事に携ることや、宮廷においては朝参、狩猟者・炭焼などでは山に入ることなど、共同体への参加が禁じられた。穢れは禊(みそぎ)や祓(はらえ)によって浄化できる。「罪」は「恙み(ツツガミ)」から、精神的な負傷や憂いを意味する。
戦後の民俗学では、「ケガレ」を「気枯れ」すなわちケがカレた状態とし、祭などのハレの儀式でケを回復する(ケガレをはらう、「気を良める」→清める)という考え方も示されている。
日本神話における穢れ
日本神話では、天つ罪・国つ罪との言葉で穢れの元となる行為が示されている。天つ罪を例にすると、畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔(しきまき)、串刺(くしざし)、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸(くそへ)である。
黄泉の国から復ったイザナギは禊をしている。これは、黄泉の穢れを払う行為であり、その最中に三貴子など何柱もの神々が誕生した。また、祓われた穢れそのものからも神が誕生した。スサノオがアマテラスの屋敷に天斑駒を乱入させた故事において従女の死である「死の穢れ」が初出である(「穢れ」については古事記の黄泉国譚が初。ただし、イザナミが穢れているとの記述はない。穢れたのはあくまでもイザナギである)。
神道と仏教
両者とも穢れに対する意識はあるが、もっとも異なるのは、死そのものに対する考えで、神道では死や血を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない。葬式などは、仏教では寺で行うこともあるが、神道では神域たる神社ではなく各家で行う。これは神聖なものがなんであるかの違いであり、また、清めの塩は穢れを清めているものである。この穢れは死者ではなく、死という事象が穢れていると感じた精神的な物である。したがって死においては亡くなった方だけでなく、その身内も忌中の間は神域に立ち入ることは一般には許されない。一方で、死者を神として祀る神社があったり、また墓である古墳も神域と見なされる。もともと神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、その状態では人は罪を犯してしまいやすい状態にあると考えられており、「心の平静を保てなくするような事象」はその「気枯れ」につながると考えられたために、死が穢れたものとされた、などの説がある。仏教では、死は次へ転生する輪廻という世界の有り様であり、これを否定するような概念は存在しない。その現象から自ら抜け出そうとする。仏教での穢れは、潜在力として蓄積されることを嫌うものであり、こちらは論理的根拠に基づく。神道の場合は明確な教義を持たないという性格のため、その理由には諸説あって明確な統一された理由づけがあるわけではないとされ、また、それらの理由付けは後付けに過ぎないとする立場もある。
他にも日本古来の土着的な穢れ(何を嫌っているか)の概念は、普段の生活に垣間見ることができる。そのひとつに食事の作法があるだろう。また、このような概念は古代のシャーマニズムとして世界中に土着し存在していたと考えられるが、それは世界的な様々な宗教の流布や民族の流れによってうやむやになってしまっているところも多い。
日本人にとって神は超自然的な物であり、畏れられると共に敬われもした(御霊信仰など)。神を斎き祀るとは、恐怖としての神を信仰し御霊とすることで鎮めることにある。天皇は皇祖神である天照大神の血を引いているとされ、神々と同じく尊い方であるとされた。それら神々を祀る神社は、神を磐座や禁足地より降臨させ祭り事を執り行う臨時のものであったが、次第に禁足地に対して拝殿が、そして神そのものが常駐するという本殿が造営されるようになった。これらの神と穢れは相成り得ないものであり、神社での手水舎は、外界での穢れを祓うために設置されている。
日本での仏教は神道との習合がいたるところで存在し、両者での考えが入り乱れていることもある(寺院における鳥居、建築様式など)。穢れも同様である。更に古代日本においては罪と穢れの区別も曖昧で、政治的な罪を起こした者を「穢れ」と表現して京から追放したり、強制的に改名させて姓などを奪う(天皇に仕える資格を剥奪する)事で天皇の身の清浄性を維持する事が行われている。
穢れ観念の起源
穢れという観念が日本に流入したのは、奈良時代後期または平安時代だと言われる。死、出産、血液などが穢れているとする観念は元々ヒンドゥー教のもので、同じくインドで生まれた仏教にもこの思想が流入した(初期仏教、スッタニパータ)。特に、平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。また、平安時代後期以後、国家鎮護や天皇・貴族のために加持祈祷を行う上位の高僧(学侶)には皇族や貴族出身者など上流階級出身者の子弟が増加し、彼らは神祇祭祀の主催者である天皇に仕えるために身の清さを維持する必要が生じたため、葬儀など穢れに接する可能性の高い行事へは参加をせず、堂衆と称された下級僧侶や遁世僧と呼ばれる聖が行うようになり、僧侶間の階層分化を進める一因となった。一方で、日本における穢れの思想は神道の思想や律令法で導入された服喪の概念とも絡み合って制度化されるなど、複雑な発展を遂げていった。藤原実資は日本の穢れは天竺(インド)・大唐(中国)にはないものであると解しており(『小右記』万寿4年8月25日条)、藤原頼長も穢れの規定は(中国からの移入である)律令にはなく、(日本で独自に制定した)格式に載せられていることを指摘している(『宇槐雑抄』仁平2年4月18日条)。
賎視から不浄視へ
これ以前の日本にも、邪馬台国の奴婢制や奈良時代の五色の賎など、身分差別は存在したが、それは賎視(身分が低いと見なすこと)であった。これに対し、穢れ観流入後の被差別民に対する差別は、不浄視(穢れと見なすこと)へと変化した。江戸時代の最も代表的な賎民の生業が穢多(穢れが多いと言う意味)と呼称されたのは、その象徴である。
神道の穢れは禊ぎ祓い等により解除する事が出来るが、仏教の穢れ観は、※仏陀の女性蔑視と同様、生来のものとして固定されてしまうものであった。
※仏陀の女性蔑視???どこからきているのだろうか?謎です
神道との関連
上記のように、穢れは元々仏教により日本にもたらされた観念であるが、次第に天皇を神聖視する神道の考えと結びつき、被差別民は神聖な天皇の対極に位置する穢れた民と見なされるようになったという説がある。だが、朝鮮半島においても、牛馬の解体・皮革産業に従事する被差別民「白丁」が存在し、中世ドイツでも焚書を牛馬の解体場で行うなどの例があり、この種の差別を神道と直結する説には反対意見もある。また、学者の網野善彦などの研究により、被差別民と天皇との密接な結びつきが明らかとなっている。天皇を「清め」(不浄なものの浄化)の職能の最高者とみる説もある。高取正男は仏教の不浄観によって「ケガレ」の観念が変容したと見ている(『神道の成立』)。
また、祓いとの関連においては、祓いは本来穢れを除去するものではなく、穢れをもたらした者などが神に対する謝罪などの意味で財物を捧げる行為(天津罪・国津罪などに対する財産刑)を指し、中世日本の神社においては穢れを理由として祓いそのものが一定期間中止・延期された事例の存在が指摘されている。
現代
福島第一原子力発電所事故に伴う福島県などからの避難民や物資に対する感情的差別の問題について、穢れの考え方が根底にあるという指摘がなされている。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
✳4始祖神(八幡神) 八幡神は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、神社内に神宮寺が作られた。
概要 現在の神道では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。また、八幡三神のうち、比売神や、神功皇后に代えて仲哀天皇や、武内宿禰、玉依姫命を祀っている神社も多くあり、安産祈願の神という側面(宇美八幡宮など)もある。
比売神 アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている。宗像三女神は宗像氏ら海人集団の祭る神であった。それが神功皇后の三韓征伐の成功により、宗像氏らの崇拝する宗像三女神は神として崇拝を受けたと考えられる。また、八幡神の顕われる以前の古い神、地主神であるともされている。比売神は八幡神の妃神、伯母神、あるいは母神としての玉依姫命(たまよりひめのみこと)や、応神天皇の皇后である仲津姫命とする説がある。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。比売神はヒミコでありアマテラスであるという異説やシラヤマヒメという異説も登場している。
神功皇后 応神天皇は母の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称されたことから、皇后への信仰は母子神信仰に基づくと解釈されることもある。三韓征伐に協力した胸形氏らの崇拝する宗像三女神や住吉三神や天照大神など数多くの神を各地で祭った。神功皇后は三韓征伐の後に立ち寄った対馬に広幡乃八幡大神(息子の応神天皇)の名の由来である大きな軍旗である八つの旗を立てて神に奉じたと伝えられている。
皇祖神 八幡神は応神天皇の神霊とされたことから皇祖神としても位置づけられ、『承久記』には「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と記されており、天照皇大神に次ぐ皇室の守護神とされていた。誉田八幡宮の創建と応神天皇とのつながりが古くから結び付けられ、皇室も宇佐神宮(宇佐八幡宮)や石清水八幡宮を伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬した。
神仏習合 東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749年)、宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたと記録にあり、早くから仏教と習合していたことがわかる。天応元年(781年)朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号を贈った。これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。後に、✳本地垂迹(ほんじすいじゃく:神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考え)においては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。一方、日蓮は阿弥陀如来説を否定し八幡大菩薩の本地を釈迦牟尼仏としている。
平安時代以降、清和源氏、桓武平氏等の武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、本地垂迹思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」という。
歴史 八幡神を応神天皇とした記述は『古事記』・『日本書紀』・『続日本紀』にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。『東大寺要録』や『住吉大社神代記』に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い。なお、後述のように平安時代の初期には聖武天皇の霊が没後に八幡神と結合したと信じられ、同天皇が生前に深く信仰した仏教の守護神とするために八幡大菩薩の号が生まれたとする説もある。
「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』であり、その記述は天平9年(737年)の部分にみられる。読み方は天平勝宝元年(749年)の部分にある宣命の「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉鬘の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。
八幡神は北九州の豪族宇佐国造宇佐氏の氏神として宇佐神宮に祀られていたが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる。
748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。
隼人出兵 養老4年(720年)、隼人の乱が勃発し、朝廷はこれを鎮圧しようとして宇佐八幡に神託を仰いだ。すると八幡神は、「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と自ら征討に赴いたという。なお、この際多数の隼人を殺したことから放生会を催すようになったという。
東大寺大仏建立 天平勝宝元年(749年)聖武天皇が国家のシンボルとして奈良の大仏を建設するとき、宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、これを助けた。ところが、それから5年後の天平勝宝6年(754年)になってこの時に八幡神の✳憑坐(より まし :神霊がよりつく人間。特に、祈禱師が神霊を乗り移らせたり、託宣をのべさせたりするために伴う童子や婦女。人形が使用されることもある。ものつき)を務めた大神社女が僧綱の長であった行信らと呪詛を行った疑いで配流され、これを恥じた宇佐八幡神が一時、伊予国の宇和峰に遷座したと伝えられている。
宇佐八幡宮神託事件 神護景雲3年(769年)、天皇の位を狙っていた道鏡は、称徳天皇によって道鏡を次の皇位継承者に指名させようとして、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったと宣言した。しかし、朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、神意を確認したところ、「無道の者掃除(そうじょ)すべし」との託宣が下り、和気清麻呂は宇佐八幡の託宣を受けて道鏡の目的は達成されなかった(宇佐八幡宮神託事件)。
ただし、この事件については称徳天皇が自らの意思で道鏡を後継者にするために起こした事件(道鏡に皇位簒奪の意思を認めない)とする解釈もあ。
八幡大菩薩の誕生 前述の大神社女の事件と宇佐八幡宮神託事件は全く別の事件ではなく、当時の仏教政策を巡って朝廷内には民衆への布教を重視する路線と国家の鎮護を優先する路線の対立があり、聖武天皇や孝謙天皇(称徳天皇)、そして宇佐八幡宮の宮司も前者の側に立って仏教の守護神として八幡宮を位置づけていった結果、八幡神自体が政治的な抗争に巻き込まれてしまったとする見方がある。
その中で称徳天皇が死去してその異母妹である井上内親王を夫とする光仁天皇が即位するが、間もなく井上内親王は廃位されて謎の死を遂げたために聖武天皇の血統は絶えた。その後、別の妃の子である山部親王(後の桓武天皇)が皇太子となるが天災が相次いだ。朝廷では称徳天皇や井上内親王、そして彼女達の父である聖武天皇の祟りと恐れた。そんな中で、宝亀8年5月19日(聖武天皇の葬儀から29周年にあたる日)に八幡神が「出家」し(『八幡宇佐宮御託宣集』および『石清水八幡宮并極楽寺縁起之事』奥書)、天応元年(781年)に「八幡大菩薩」の号が贈られた。これは、当時の朝廷が聖武天皇が没後に八幡神と結合したと考え、八幡神に菩薩号を与えて聖武天皇が深く信仰した仏教の守護神とすることでその祟りを防ごうとしたと考えられる。
武家の守護神 清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰された。『吾妻鏡』「文治五年の条」には、源頼朝が9月21日に胆沢の鎮守府にある鎮守府八幡宮への参詣の様子が記されており、この八幡宮が坂上田村麻呂によって蝦夷征討の際に勧進され、弓箭や鞭などが納められ今も宝蔵にあるなど由来を記している。八幡神を崇敬していた鎌倉方が、平安京の南西に岩清水八幡宮が勧進されるより以前に、田村麻呂によって陸奥に八幡神が勧進されていたことに驚いて『吾妻鏡』に記述した。
清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った。
平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった。
承平天慶の乱 天慶2年(939年)の藤原純友・平将門の乱(承平天慶の乱)では調伏が石清水八幡宮で祈願され、平定後に国家鎮護の神としての崇敬が高まった。そのため、石清水八幡宮への天皇・上皇の行幸・御幸は、円融天皇以来240回にも及んだ。
鎌倉時代以降 治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗が用いられた。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。
沖縄県の琉球国では、第一尚氏王統の尚徳王が、喜界島の征服に当って八幡大菩薩の神威に頼ったことが知られ、「八幡按司」の称号がある。その後継の第二尚氏王統でも、八幡神由来の巴紋が尚氏の家紋として使用された。
桃山時代 豊臣秀吉は死後に自己を「新八幡」として祀り、奈良東大寺大仏殿である手向山八幡宮に倣い、国家鎮護のために建設した京都東山方広寺の鎮守として八幡宮を建設することを遺言したという。秀吉の死後、「新八幡」ではなく後陽成天皇の神号下賜により「豊国大明神」として豊国神社に祀られた。
明治以降 明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐八幡宮や石清水八幡宮の放生会は、それぞれ仲秋祭、石清水祭へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭、平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。明治元年(1868年)神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐八幡宮や石清水八幡宮の放生会は、それぞれ仲秋祭、石清水祭へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭、平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。
しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、第二次世界大戦末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられたり、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を名乗った部隊もあった。また、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。1944年に製作された、航空機搭乗員を描いた映画「雷撃隊出動」の中でも、出撃の際に八幡大菩薩の旗を振るシーンが見られる。
平成4年(1992年)、東寺(教王護国寺)(京都市南区)は、明治元年(1868年)に焼亡していた境内摂社の鎮守八幡宮を124年ぶりに再建、本尊は「空海が自ら彫ったと伝えられ」る「僧形八幡神」である。
石清水八幡宮宮司、全国八幡宮連合総本部長、神社本庁の総長(=代表役員)である田中恆清は神仏習合の復活に積極的にとりくみ、平成17年(2006年)には、発起人の1人として「明治維新以前の神仏同座、神仏和合の精神の復活を目指」す「神仏霊場会」の立ち上げに関与、後には同会の「会長」に就任、会長として「神仏和合」が「わが国本来の信仰の姿」だと語っている。
現在、いくつかの八幡宮では、希望する参拝者に「八幡大菩薩」の墨書きのご朱印を授与している。
全国の八幡宮・八幡神社 八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。
総本社 八幡神社の総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)である。元々は宇佐地方一円にいた宇佐氏(宇佐国造)の氏神・祖神であったと考えられる。農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している。欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられる。
宇佐八幡宮の社伝『八幡宇佐宮御託宣集』などでは、欽明天皇32年(571年)1月1日に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応神天皇の国風諡号)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応神天皇であるということになっている。
また今の福岡県の飯塚市大分(だいぶ、嘉穂郡旧筑穂町)にある大分宮(大分八幡宮)は宇佐神宮の本宮であり筥崎宮の元宮であると宇佐八幡宮の由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」に書かれてもいる。
宇佐八幡をはじめとした八幡宮は、巴紋を神紋としている。
三大八幡 俗に三大八幡と呼ばれる神社は、以下の4社のうち「宇佐・石清水」に「筥崎・鶴岡」のいずれかを合わせた3社とされている。
宇佐神宮(大分県宇佐市) - 官幣大社、名神大社、勅祭社
石清水八幡宮(京都府八幡市) - 官幣大社、二十二社、勅祭社
筥崎宮(福岡県福岡市東区) - 官幣大社、名神大社
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市) - 国幣中社(鎌倉源氏の氏社である)
幕末から明治期の資料では、1868年(慶応4年)4月24日付け太政官達に示す八幡宮の例示3社は「宇佐・石清水・筥崎」としているほか、社格でもその3社が官幣大社で並んでいる(鶴岡は国幣中社)。一方、近年発行された書籍中で「宇佐・石清水・鶴岡」が八幡神社の代表例とされることがある。
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天然痘(smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に生存しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は人類史上初めてにして、唯一根絶に成功した人類に有害な感染症である。
天然痘ウイルス (Variola virus) は、ポックスウイルス科オルソポックスウイルス属に属するDNAウイルスである。直径200ナノメートルほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。天然痘の原型となるウイルスはラクダから人類へと入り、そこで変化を起こして天然痘ウイルスが成立した可能性が高いと考えられている。ヒトのみに感染、発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成される。これは天然痘ウイルス本体と考えられる。また、牛痘やサル痘、ラクダ痘といった近縁種の病気が存在する。サル痘はしばしば重篤化して人の命を奪うことがあるが、牛痘やラクダ痘などほかの近縁種の病気は人類に感染しても軽い発熱や水疱が出る程度で、非常に軽い症状で済むうえ、できた免疫は天然痘と共通する。この性質を利用して、牛痘をあらかじめ人類に接種する種痘法が確立され、天然痘の撲滅が達成されることとなった。
天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである。
・飛沫感染や接触感染により感染し、7 - 16日の潜伏期間を経て発症する。
・40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状がある。
・発熱後3 - 4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
・7 - 9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
・2 - 3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
・治癒後は免疫抗体ができるため、二度とかかることはないとされるが、再感染例や再発症例の報告も稀少ではあるが存在する。
・天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたが落下したものでも1年以上も感染させる力を持続する。
・天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させることはある。
「種痘」というワクチン接種による予防が極めて有効。感染後でも3日以内であればワクチン接種は、発症あるいは重症化の予防に有効であるとされている。また化学療法を中心とする対症治療が確立されている。
歴史
前史
天然痘の正確な起源は不明であるが、最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であり、また天然痘で死亡したと確認されている最古の例は紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世である。彼のミイラには天然痘の痘痕が認められた。
イスラム
イスラームの聖典『クルアーン』の「象の章」では、西暦570年頃にエチオピア軍がマッカを襲撃する様子が記述されている。エチオピア軍はマッカの守備隊より軍事力で勝っていたが、アッラーフが鳥の群れ(アバビール)を遣わし、エチオピア兵の頭上に石を落とすと当たった者には疱瘡ができて疫病が蔓延し、撤退したという記述がある。これはエチオピア軍の間で天然痘が蔓延したことが神の奇跡として描かれているという説がある。
アル・ラーズィーが著書『天然痘と麻疹の書』 において麻疹と天然痘の違いについて言明した。
ヨーロッパ
古代ギリシアにおける紀元前430年の「アテナイの疫病」は「アテナイのペスト」とも呼ばれたが、記録に残された症状から天然痘であったと考えられる(他に、麻疹、発疹チフス、あるいはこれらの同時流行とする説もある)。165年から15年間にわたりローマ帝国を襲った「アントニヌスの疫病(アントニヌスのペスト)」も天然痘とされ、少なくとも350万人が死亡した。その後、12世紀に十字軍の遠征によって持ち込まれて以来、流行を繰り返しながら次第に定着し、ほとんどの人が罹患するようになる。ルネサンス期以降に肖像画が盛んに描かれるようになったが、天然痘の瘢痕を描かないのは暗黙の了解事項であった。
アメリカ
コロンブスの上陸以降、白人の植民とともに天然痘もアメリカ州に侵入し、免疫のなかったアメリカ州の先住民族に激甚な被害をもたらした。白人だけでなく、奴隷としてアフリカ大陸から移入された黒人も感染源となった。
旧大陸では久しく流行状態が続いており、住民にある程度抵抗力ができて、症状や死亡率は軽減していたが、牛馬の家畜を持たなかったアメリカ・インディアンは天然痘の免疫を持たなかったため全く抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。他にも麻疹や流行性耳下腺炎(おたふく風邪)などがヨーロッパからアメリカに入ったが、ことに天然痘の被害は最大のものであり、白人の北アメリカ大陸征服を助ける結果となった。新大陸の二大帝国であったアステカとインカ帝国の滅亡の大きな原因の一つは天然痘であった。アステカに天然痘が持ち込まれたのは1520年頃、エルナン・コルテスの侵攻軍によってであると考えられているが、天然痘は瞬く間に大流行を起こし、モクテスマ2世に代わって即位した新王クィトラワクを病死させるなどしてアステカの滅亡の原因の一つとなった。さらにスペインの占領後も天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労働、麻疹やチフスなど他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対し、16世紀末の人口はおよそ100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊滅的な打撃を受けた。また、インカ帝国においては侵攻を受ける前に、既にスペイン人の到達していたカリブ海沿岸地域から天然痘が侵入し、現在のコロンビア南部において1527年頃に大流行を起こした。この大流行によって当時のインカ皇帝であるワイナ・カパックと皇太子であるニナン・クヨチがともに死去し、空位となった王位をめぐってワスカルとアタワルパの二人の王子が帝国を二分する内戦を起こした。この内戦はアタワルパの勝利に終わったものの、インカの国力は疲弊し、スペインのフランシスコ・ピサロによる征服を許す結果となった。さらにインカ帝国においても征服後は同様に天然痘をはじめとする疫病が大流行し、先住民人口の激減を招いた。
北アメリカでは白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例もあると言われている。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争では、イギリス軍が天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようとしたとされ、19世紀に入ってもなおこの民族浄化の手法は続けられた。モンタナ州のブラックフット族などは、部族の公式ウェブサイトでこの歴史を伝えている。ただし、肝心の英国側にはそのような作戦を行った証拠となる記録は無い。
中国・朝鮮半島
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
日本
日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。
735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。この時の天然痘について『続古事談』などの記述から、当時新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されている。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である。「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった。
16世紀に布教のため来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる。
ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。上田秋成は両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。天皇さえも例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る。
源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残した。
疱瘡神
天然痘を擬神化した疱瘡神は悪神の一つとして恐れられ、日本各地には疱瘡神除けの神事や行事が今も数多く残っている。疱瘡神は犬や猿、赤色を苦手とすると考えられたため、赤いものや犬の張子、猿の面などをお守りとして備える地域も存在した。福島県会津地方の郷土玩具「赤べこ」や岐阜県飛騨地方の「さるぼぼ」など、子供向けの郷土玩具に赤いものが多いのは天然痘除けを目的としていることが多い。吉村昭の時代小説『破船』には、天然痘患者が赤い衣装を身にまとう描写がある。岐阜市にある延算寺(岩井山かさ神)や神奈川県の上行寺、日本各地に存在する瘡守稲荷神社などのように、疱瘡除けに霊験があると考えられた神社仏閣は各地に点在しており、現代でも信仰を集めている。
江戸時代にあっては疱瘡神として源為朝の肖像が描かれ、「疱瘡絵」(赤絵)と呼ばれた。これは、八丈島に疱瘡(天然痘)が流行しなかったのは、この島に流された為朝が疱瘡神を押さえ込む力があったためと信じられていたためであった。
北海道
北海道には江戸時代、本州からの船乗りや商人たちの往来にともない、肺結核、梅毒などとともに伝播した。伝染病に対する抵抗力の無かったアイヌは次々にこれらの病に感染したが、そのなかでも特に恐れられたのが天然痘だった。アイヌは、水玉模様の着物を着た疱瘡神「パヨカカムイ(パコロカムイ)」が村々を廻ることにより天然痘が振りまかれると信じ、患者の発生が伝えられるや、村の入り口に臭いの強いギョウジャニンニクやとげのあるタラノキの枝を魔除けとしてかかげて病魔の退散を願った。そして自身は顔に煤を塗って変装し、数里も離れた神聖とされる山に逃げ込んで感染の終息を待ち続けた。江戸期を通じて天然痘の流行が繰り返され、アイヌ人口が減少する一因となった。ミントゥチはこれらに関連する伝承とされる。幕末の1857年にアイヌを対象に大規模な種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかかった。
制圧の記録
種痘
天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に古くから知られ、紀元前1000年頃には、インドで人痘法が実践され、天然痘患者の膿を健康人に接種し、軽度の発症を起こさせて免疫を得る方法が行なわれていた。この場合、膿を乾燥させてある程度弱毒化させたのちに行われることが普通であった。この人痘法は18世紀前半にイギリス、次いでアメリカ合衆国にももたらされ、天然痘の予防に大いに役だった。しかし、軽度とはいえ実際に天然痘に感染させるため、時には治らずに命を落とす例もあった。統計では、予防接種を受けた者の内、2パーセントほどが死亡しており、安全性に問題があった。
18世紀半ば以降、ウシの病気である牛痘(人間も罹患するが、瘢痕も残らず軽度で済む)にかかった者は天然痘に罹患しないことがわかってきた。その事実に注目し、研究したエドワード・ジェンナー が1796年、8歳の少年に牛痘の膿を接種させた後に天然痘の膿を接種させ、発病しないことを突き止めた。(なお、ジェンナーが「我が子に接種」して効果を実証したとする逸話があるが、実際にはジェンナーの使用人の子に接種した。)これによって人類初のワクチンである天然痘ワクチンが開発され、この牛痘接種(種痘)によって天然痘を予防する道が開かれた。この方法をジェンナーは論文にして王立協会に送付したものの無視されたため、1798年に『牛痘の原因と効果についての研究』を刊行し、種痘法を広く公表した。医学界の一部からの反対は根強く残ったものの、牛痘の接種はそれまでの天然痘の直接接種に比べはるかに安全性が高いうえ効果も劣るものではなかったため、この方法はイギリスのみならずヨーロッパに瞬く間に広まり、以後この方法が主流となった。その後1930年代以降の研究で種痘に用いられているウイルスはワクチニアウイルスというウイルスであり天然痘ウイルスとも牛痘ウイルスとも違うことが判明しワクチニアウイルスの由来は一体何か様々な研究がなされてきた。この中で牛痘ウイルスが継代されていく間に変異しワクチニアウイルスとなったと考えられていた時期もあったが、2013年モンゴルで採取された馬痘ウイルスのゲノム解析をした結果、種痘に用いられているワクチニアウイルスと馬痘ウイルスが99.7%同一のゲノムであることが判明しワクチニアウイルスとは馬痘ウイルスもしくはその近縁のウイルスである事がわかった。つまりジェンナーの種痘は牛痘ウイルスではなく馬痘ウイルスがたまたま牛に感染したものを種痘として利用したものであり種痘には一度も牛痘ウイルスは使用されていなかったことになる。
この伝播は急速なもので、ジェンナーの論文は発行翌年の1799年にはウィーンでラテン語に、ハノーファーでドイツ語に翻訳され、翌1800年にはフランス語とイタリア語、1801年にはオランダ語とスペイン語、1803年にはポルトガル語に翻訳された。痘苗もほぼ同時に各国に到達し、1800年にはフランスやドイツ諸邦、スペイン、そしてアメリカで、1801年にはロシア、オランダ、デンマーク、スウェーデンで種痘が開始された。アメリカ合衆国で最初に接種を受けた人物のなかに第3代大統領のトマス・ジェファソンがいる。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。さらにスペインは1802年に遠隔地のスペイン領に痘苗をもたらす航海計画を実施し、これによってラテンアメリカやフィリピンなど多くの地域に痘苗がもたらされた。安全性が高く確実な予防方法が確立したことで、それ以降は天然痘の流行は徐々に消失していった。また、この種痘の開発はワクチンおよび予防接種という疫病への強力な対抗手段を人類にもたらすきっかけとなった。
普及した種痘であったが、この時期の痘苗は人間の腕から腕へと接種する方式であり、痘苗が絶える危険性や、接種の際に別の伝染病に感染する危険性もあるものだった。これを避けるために、1840年にはナポリで子牛によって痘苗を生産する方式が開発され、1864年にフランスに伝えられたのをきっかけに世界各国へと広まっていったことで、種痘の安全性は大幅に改善された。
日本の医学会では有名な話として日本人医師による種痘成功の記録がある。現在の福岡県にあった秋月藩の藩医である緒方春朔が、ジェンナーの牛痘法成功に遡ること6年前の寛政4年(1792年)に秋月の庄屋・天野甚左衛門の子供たちに人痘種痘法を施し成功させている。福岡県の甘木朝倉医師会病院にはその功績を讃え、緒方春朔と天野甚左衛門、そして子供たちが描かれた種痘シーンの石碑が置かれている。
日本で初めて牛痘法が行われるのは文化7年(1810年)のことで、ロシアに拉致されていた中川五郎治が帰国後に田中正右偉門の娘イクに施したのが最初である。しかし、中川五郎治は牛痘法を秘密にしたために広く普及することはなく、3年後の文化10年(1813年)にロシアから帰還した久蔵が種痘苗を持ち帰り、広島藩主浅野斉賢にその効果を進言しているが、全く信じてもらえなかった。その後、1823年に出島にやってきたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが牛痘法の知識を伝えたものの、種痘苗が手に入らず知識の伝達にとどまった。
その後、日本で本格的に牛痘法が普及するのは嘉永2年(1849年)に佐賀藩の依頼によって出島のドイツ人医師であるオットー・ゴットリープ・モーニッケがワクチンを輸入し、佐賀藩医の楢林宗建の息子に接種してからである。それまでも何度か種痘苗の輸入は試みられていたが、ヨーロッパから直接輸入を試みていたために輸送途中で種痘苗が効力を失ってしまっていた。しかしモーニッケは既に種痘が普及していて日本からほど近いオランダ領インドネシアのバタヴィアから種痘苗を輸入したため、移入に成功した。いったん種痘苗が移入されると、蘭学医の間で種痘苗が融通され、種痘は瞬く間に広がっていった。大阪・適塾の緒方洪庵は、治療費を取らず牛痘法の実験台になることを患者に頼み、私財を投じて牛痘法の普及活動を行った。1857年にはアイヌの間の天然痘流行を阻止するため、箱館奉行の村垣範正が幕府に種痘の出来る医師の派遣を要請し、桑田立斎らが派遣されて大規模種痘が行われた。1858年には江戸において、伊東玄朴・戸塚静海・大槻俊斎らの手によって神田お玉が池に種痘所が設立された。1876年(明治9年)には天然痘予防規則が施行され、幼児への種痘が義務付けられた。
天然痘の撲滅
種痘の実施は徐々に世界中に広まっていき、20世紀中盤には先進国においては天然痘を根絶した地域が現れ始め、日本においても1955年に天然痘は根絶された。また、天然痘は感染した場合肉眼で判別可能な症状が現れるため特定しやすく、発病および感染はヒトのみに限られ、さらに優れたワクチンが存在するといった、根絶を可能とする諸条件が揃った病気であった。こうしたことから1958年に世界保健機関 (WHO) 総会でソ連の生物学者ヴィクトル・ジダーノフの提案によって全会一致で「世界天然痘根絶決議」が可決され、根絶計画が始まった。当初は世界全住民への種痘が方策として考えられていたが、医療組織や行政が整っていない発展途上国や人口密集地においてはこれは困難であり、南アメリカ、南アジアおよびアフリカにおいては流行が続いていた。中でも最も天然痘患者が多かったインドでは、根絶が困難とされた。こうしたことから1967年にWHOは方針を転換し、皆種痘に代わって、まず天然痘患者を発見したものに賞金を与え、患者の発見に全力を挙げることとした。天然痘患者が発見されると、その発病1か月前から患者に接触した人々全てを対象として集中的に種痘を行い、ウイルスの伝播・拡散を防いで孤立させる事で天然痘の感染拡大を防ぐ方針をとった。この作戦の期限は10年間とされ、1977年までには天然痘を根絶することが目標とされた。1967年の時点で、世界には天然痘の患者が1000万から1500万人いると推定されていたが、この封じ込め作戦が功を奏してインドで天然痘患者が激減していった。
この方針は他地域でも用いられ、1970年には西アフリカ全域から根絶され、翌1971年に中央アフリカと南米から根絶された。1975年、バングラデシュの3歳女児の患者がアジアで最後の記録となり、アフリカのエチオピアとソマリアが流行地域として残った。
1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発するに至った。現在自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないとされている。天然痘は、人間に感染する感染症で人類が根絶できた唯一の例である(人間以外を含む感染症全般ではウシなどに感染する牛疫が2011年に撲滅宣言されている。)。
1978年にイギリスのバーミンガム大学メディカル・センターにおいて、微生物学研究室からウイルスが漏洩し、研究室の上階で働いていたジャネット・パーカーが天然痘を罹患して1か月後に死亡した。彼女は天然痘により死亡した世界最後の患者である(「バーミンガム事件」と言われる。漏洩させてしまった研究者は、責任を感じて自ら命を絶った)。
1984年にWHOでなされた合意に基づいて、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) とロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター (VECTOR) のレベル4施設以外の研究所が保有していた株は全て廃棄された。この2施設における天然痘株についても破壊することがWHOの会議で一旦決定されたが、実際の作業は数度に渡り延期され、2001年にアメリカが株の廃棄に反対する姿勢を明確にしたことで中止となった。 しかし近年レベル4施設の設備を備えない不適切な場所においても生きた天然痘ウイルスが発見されており、その管理・取り扱いが非常にずさんであることが発覚している。
千葉県血清研究所が開発して1975年に日本国内で製造承認を受けた天然痘ワクチン「LC16m8」株は、1980年のWHOの撲滅宣言後に冷凍保存された。2001年のアメリカ同時多発テロ事件後に備蓄が始まり、自衛隊に投与されている。
WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種が廃止されたが、アメリカでは2011年時点でワクチンを備蓄し続け、またその製造が可能な状態を維持し続けている。
日本国内における発生は1955年の患者を最後に確認されていない。国外で感染した患者は1970年代に数例報告されている。
1991年に天然痘ウイルス・ラヒマ株のDNA塩基配列の解析が完了した。天然痘はかつての伝染病予防法では法定伝染病に指定されていた。2012年現在、感染症法で一類感染症(全数報告対象)に指定されている。
問題
テロの危険
根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5 - 10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどいない。そのため、生物兵器として使用された場合に、大きな被害を出す危険が指摘されており、感染力の強さからも短時間での感染の拡大が懸念されている。
天然痘撲滅宣言後にも、ソ連は天然痘ウイルスを生物兵器として極秘に量産、備蓄しており、ソ連崩壊後にウイルス株や生物兵器技術が流出した可能性が指摘されている。『ワシントン・ポスト』(2002年11月5日号)は、CIAが天然痘ウイルスのサンプルを隠し持っていると思われる国として、イラク(注:記事はイラク戦争前のもの)、北朝鮮、ロシア、フランスを挙げている(ただし、イラクとフランスについては可能性はとても高いというわけではないとしている)。 韓国国防省は北朝鮮が天然痘ウイルスを保持していると分析し、在韓米軍兵士も2004年から天然痘のワクチン接種を受けている。アメリカはテロ対策のため天然痘ワクチンの備蓄を強化し、2001年に1200万人分だった備蓄量を、2010年までに全国民をカバーする3億人分まで増やした。
WHO専門家会議は2015年に、天然痘ウイルスの人工合成は技術的に可能になったと結論し、天然痘が再び発生するリスクがなくなることはないと報告している。2018年にはカナダのグループが、メール注文したDNA断片を用いて、天然痘ウイルスに近縁の馬痘ウイルスの人工合成に成功している。同年にアメリカ食品医薬品局(FDA)は、初の天然痘治療薬を認可した。動物実験で有効性が証明され、健康な人に服用してもらう試験で安全性が確認されたため、テロから国民を守るために認可したとFDAは説明している。
天然痘ウイルスは感染症法により特定一種病原体(国民の生命及び健康に「極めて重大な」影響を与えるおそれがある病原体)に指定されており、所持、輸入、譲渡し及び譲受けは一部の例外を除いて禁じられる。運搬には都道府県公安委員会への届出が必要である。所持者には帳簿を備える記帳義務が課せられる。
天然痘ウイルスは世界保健機関(WHO)のリスクグループ4の病原体に指定されており、実験室・研究施設で取り扱う際のバイオセーフティーレベルは最高度の4が要求される。
米国CDCでは生物兵器として利用される可能性が高い病原体として、天然痘ウイルスを最も危険度、優先度の高いカテゴリーAに分類している。なお、カテゴリーAには天然痘ウイルスの他、エボラウイルスなどの出血熱ウイルス、ペスト菌、炭疽菌、ボツリヌス菌、野兎病菌も指定されている。
類似ウイルス
天然痘そのものは根絶宣言が出されたが、サル痘などの類似したウイルスの危険性を指摘する研究者がいる。研究によれば、複数の身近な生物が類似ウイルスの宿主になりうることが示されており、それらが変異すると人類にとって脅威になるかもしれないと警告している。1950年にオーストラリアで野ウサギを駆逐したウイルスは天然痘の親類であった。