[斎王からの伝言創作ベース]1斎王
~Wikipediaより~
斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいる。
伊勢神宮の斎王は特に✳1斎宮(さいくう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)と呼ばれた。斎宮の歴史は古く、『日本書紀』によれば崇神朝にその嚆矢(こうし:物事のはじまり)が認められるが、制度的に整ったものが確認できるのは上代の天武朝からで、源平合戦(治承・寿永の乱)で一時的に途絶してからは鎌倉時代を通じて徐々に衰退し、建武新政の崩壊をもって断絶するに至った。斎院は平安時代初期の嵯峨朝に始まり、鎌倉時代に入っても継続していたが、承久の乱後の混乱の中でやはり断絶した。伊勢では幕末に、津藩主藤堂高猷が再興を主張したが、成らなかった。
✳1斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は、古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。
斎宮の起こり
『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑(かさぬいむら)に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫(とよすけいりびめ)の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。また垂仁天皇紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べ、以後斎王は天皇の代替わり毎に置かれて天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として伊勢神宮に奉仕したといい(ただし史料上は必ず置かれたかどうかは不明で、任期などもそれほど明確ではない)、用明天皇朝を契機に一時途絶えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記(ふそうりゃくき)』は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。
✳なお、『扶桑略記』に初めて大来皇女(おおくのひめみこ)が定められたとあること、同皇女の前任と伝える酢香手姫皇女(用明天皇皇女)との間に約50年の空白期間があること、その以前の稚足姫皇女(雄略天皇皇女)、荳角皇女(継体天皇皇女)、磐隈皇女(欽明天皇皇女)、菟道皇女(敏達天皇皇女)、酢香手姫皇女が伊勢に来ていないと考えられることの3点から、酢香手姫以前の斎宮は後世の虚構とする説がある(筑紫申真説)。
また福岡県糟屋郡久山町猪野にある天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)には、仲哀9年(200年)熊襲征伐の途中、「われを祭れば、戦をせずとも財宝の国を得ることができる」という神の託宣があったが、仲哀天皇が疑ったために、その祟りをうけ香椎宮で崩御し、そのことを知った神功皇后が、小山田の村に斎宮を建て、自ら神主となり、天照大神を祀ったという縁起がある。
斎宮の卜定から退下まで
卜定
先代の斎宮が退下すると、未婚の内親王または女王から候補者を選び出し、亀卜(亀の甲を火で焙って出来たひびで判断する卜占)により新たな斎宮を定める(卜定:ぼくじょう)。新斎宮が決定すると、邸に勅使が訪れて斎宮卜定を告げ、伊勢神宮にも奉幣使が遣わされて、斎宮はただちに潔斎(けっさい)に入る。
初斎院
宮城内の便所(便宜の場所)が卜定で定められて大内裏の殿舎(時々により異なる)が斎宮の潔斎所となる。これを初斎院(しょさいいん)と呼ぶが、その場所は雅楽寮、宮内省、主殿寮、左右近衛府などが記録に残る。斎宮は初斎院で1年間斎戒生活を送るとされているが、もっと短期になる場合も多い。
野宮
初斎院での潔斎の後、翌年8月上旬に入るのが野宮(ののみや)である。野宮は京外の清浄な地(平安時代以降は主に嵯峨野)を卜定し、斎宮のために一時的に造営される殿舎で、斎宮一代で取り壊されるならわしだった(野宮神社などがその跡地と言われるが、現在では嵯峨野のどこに野宮が存在したか正確には判っていない)。斎宮は初斎院に引き続き、この野宮で斎戒生活を送りながら翌年9月まで伊勢下向に備えた。なお、野宮は黒木(皮のついたままの木材)で造られ、このため黒木の鳥居が野宮の象徴とされた。『源氏物語』では前東宮と六条御息所の間に生まれた姫宮(後の秋好中宮)が「葵」帖で斎宮となったため、六条御息所がそれに同道することになり、『賢木巻』でこの野宮が光源氏との別れの舞台となり、後に能『野宮』の題材にもなった。
群行
初斎院・野宮を経て3年目の9月、野宮を出て禊の後、宮中で群行の儀に臨み、伊勢へ発向する。但し後述「退下」のように歴代の斎宮すべてが群行を行ったわけではない。
斎宮寮と祭祀
伊勢での斎宮の生活の地は、伊勢神宮から約20キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)であった。普段はここで寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に3度、「三時祭」(6月・12月の月次祭と9月の神嘗祭。三節祭とも)に限って神宮へ赴き神事に奉仕した。斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕え、137ヘクタール余りの敷地に碁盤の目状の区画が並ぶ大規模なものだったことが、遺跡の発掘から判明している。特筆すべきは緑(青?)釉陶器の出土であり、色に何か意味があったかも考えられる。なお、斎宮跡は昭和45年(1970年)の発掘調査でその存在が確認され同54年に国の史跡に指定されたが、その後も発掘中である。
✳斎宮歴史博物館 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/
三時祭は外宮では各月の15・16日の、内宮は16・17日の両日に行われるが、斎宮はその2日目に参加し、太玉串を宮司から受取り、瑞垣御門の前の西側に立てる。また、2月祈年祭、11月新嘗祭で多気、度会の両神郡内の115座の神々に幣帛を分配する。
退下
斎宮が任を終えることを、奈良時代から平安時代中期まで(8〜10世紀頃)は退出と称したが、その後は退下(たいげ)または下座と言った。斎宮の退下は通常、天皇の崩御或いは譲位の際とされるが、それ以外にも斎宮の父母や近親の死去による忌喪、潔斎中の密通などの不祥事、また斎宮の薨去による退下もあり、初斎院や野宮での潔斎中に退下した斎宮も多い。なお、伊勢での在任中に薨去した場合は現地に葬られたらしい。伊勢で薨去(こうきょ:皇族・三位以上の人が死亡すること)した斎宮として確実なのは平安時代の隆子女王と惇子内親王の2人で、いずれも斎宮跡近くに墓所と伝わる御陵が残る)。退下の後、前斎宮は数ヶ月の間伊勢で待機し準備が整った後に、奉迎使に伴われて帰京した。
帰京の道程は二通りあり、天皇譲位の時は群行の往路と同じ鈴鹿峠・近江路を辿るが、その他の凶事(天皇崩御、近親者の喪など)の場合には伊賀・大和路(一志、川口、阿保、相楽)を経て帰還するのが通例であった。どちらの行程も最後は船で淀川を下り、難波津で禊の後河陽宮を経て入京した。
また、酢香手姫皇女以前の斎宮は酢香手姫皇女が任を終えて葛城に移ったと記されるのみで、稚足姫皇女を除くと他の斎宮のその後は不明。単なる記載漏れか、当然帰るべき所(例えば宮廷の周囲)があったので省略されたか、それとも、酢香手姫皇女の移転先である「葛城」の記載が他の斎宮の移転先をも代表しているとみるか、様々に推測できる。
退下後の斎宮
退下後の前斎宮のその後はごく数人を除いてあまり知られていない。律令制では本来内親王の婚姻相手は皇族に限られるため、奈良時代までは退下後の前斎宮が嫁いだのは天皇もしくは皇族のみであり、平安時代以降も内親王で臣下に降嫁したのは雅子内親王(藤原師輔室)ただ1人であった(ただし女王ではもう一人、藤原教通室となった嫥子女王がいる)。また藤原道雅と密通した当子内親王は父三条天皇の怒りに触れて仲を裂かれており、結婚は禁忌ではなかったらしいが、多くの前斎宮は生涯独身だったとも思われる。
ちなみに退下後に入内を果たした前斎宮に井上内親王(光仁天皇皇后、後廃位)、酒人内親王(桓武天皇妃)、朝原内親王(平城天皇妃)、徽子女王(村上天皇女御)の4人がいるが、井上・酒人・朝原の3内親王は母娘3代にわたり、斎宮となりかつ入内した(南北朝時代の懽子内親王も光厳上皇妃であるが、天皇退位後の入内である)。
その後院政期には、未婚のままで天皇の准母として非妻后の皇后(尊称皇后)、さらに✳女院となる内親王が現れる。この初例は白河天皇の愛娘媞子内親王(郁芳門院)であり、彼女は斎宮経験者であった。以後これに倣い、斎宮または斎院から准母立后し女院となる例が斎宮及び斎院制度の途絶まで見られた。
✳女院…(にょいん)は、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。「院」はすなわち✳太上天皇、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことである。上皇に倣って院庁を置き、別当・判官代・主典代その他諸司を任じ、殿上を定め、蔵人を補した。
✳太上天皇…(だいじょう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。
斎宮の終焉
平安時代末期になると、1180年 - 1185年 治承・寿永の乱(源平合戦)の混乱で斎宮は一時途絶する。その後復活したが(もう一つの斎王であった賀茂斎院は1221年 承久の乱を境に廃絶)、鎌倉時代後半には卜定さえ途絶えがちとなり、持明院統の歴代天皇においては置かれる事もなく、南北朝時代の幕開けとなる1335年 - 1336年延元の乱により、時の斎宮祥子内親王(後醍醐天皇皇女)が群行せずに野宮から退下したのを最後に途絶した。
斎宮の忌み詞
神に仕える斎宮は穢れを避け、また仏教も禁忌とするため、それらに関連する言葉が忌み詞として禁じられた。『延喜式』の巻第5(斎宮式)の忌詞条に次のとおり記されている。 仏教用語、外七言は穢れの言葉である。
凡そ忌詞、内七言は、仏を「中子(なかご)」と称し、経を「染紙(そめがみ)」と称し、塔を「阿良良伎(あららぎ)」と称し、寺を「瓦葺(かわらふき)」と称し、僧を「髪長(かみなが)」と称し、尼を「女(め)髪長」と称し、斎(いもい)(仏僧の食事)を「片膳(かたじき)」と称せよ。
外七言は、死を「奈保留(なほる。治る)」と称し、病を「夜須美(やすみ。休み)」と称し、哭(泣く)を「塩垂(しおたれ)」と称し、血を「阿世(あせ。汗)」と称し、打(うつ)を「撫(な)づ」と称し、宍(しし。肉)を「菌(くさひら。野菜や茸)」と称し、墓を「壌(つちくれ)」と称せ。又別の忌詞は、堂を「香燃(こりたき)」と称し、優婆塞を「角筈(つのはず)」と称せ。
~Wikipedia・斎宮 伊勢に斎王たちの生きた古代史 榎村寛之著・天皇125代の歴史山本博文 かみゆ歴史編集部編著 参照~
飛鳥時代以前の斎宮(伝承の時代)
⚪第10代 崇神天皇(前97年~前30年在位)皇女
豊鍬入姫(とよすきいりびめ) 命
⚪第11代 垂仁天皇(前29年~70年在位)皇女 倭姫(やまとひめ)命
「天照大御神の御鎮座地を伊勢に得られる」
⚪第12代 景行天皇(71年~130年在位)皇女 五百野(いおの)皇女
⚪第14代 仲哀天皇(192年~200年在位)皇女
伊和志真(いわしま)皇女 ✳実在未確認
⚪第21代 雄略天皇(456年~479年在位)皇女
稚足姫(わかたらしひめ)皇女
(密通の嫌疑を否定し帝の逆鱗に触れることを恐れ、神鏡を持ち出し五十鈴川のほとりに鏡を埋め、自ら命を絶った。)
⚪第26代 継体天皇(507年~531年在位)皇女 荳角(ささげ)皇女
⚪第29代 欽明天皇(539年~571年在位)皇女 磐隈(いわくま)皇女
(異母兄弟・茨城皇子(『古事記』では馬木王)に姦されて解任されました。)
⚪第30代 敏達天皇(572年~585年在位)皇女 菟道(うじ)皇女
⚪第31代 用明天皇(585年~587年在位)皇女
酢香手姫(すかてひめ)皇女
(『日本書紀』用明天皇紀に、「推古天皇の代まで斎宮をつとめ、後に葛城(母の里)に帰り亡くなったとの記述が推古天皇紀にある」との注がある。しかし推古天皇紀にその記述はない。)
斎宮制度成立以降の斎宮
※親王…天皇の嫡出皇子と嫡男系嫡出の皇子系の男子とをいう。
天武天皇の頃からみられ,令制によって確立された。
淳仁朝以後は親王宣下によりこの称号が与えられた。
親王宣下を受ければ,いかなる皇族でも親王になれた。
✳親王で出家したものを入道親王、出家後親王となったものを法親王という。
※内親王…親王宣下を受けた天皇の皇女
※女王…親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女
⚪第40代 天武天皇(673年~686年在位)
・天武天皇皇女 673年-686年 大来(おおく)皇女
⚪第42代 文武天皇(697年~707年在位)
・天武天皇皇女 志貴皇子妃 698年-701年 当基(たき)皇女
・第38代 天智天皇(668年~671年在位)皇女
701年-706 年 泉(いずみ)皇女
・天武天皇皇女 六人部王室 706年-707年(?)田形(たかた)皇女
⚪第43代 元明天皇(707年~715年在位)
・多紀内親王✳実在未確認
・天武天皇曾孫 長屋王娘 円方(まどかた)女王✳実在未確認
・智努(ちぬ)女王✳実在未確認
⚪第44代 元正天皇(715年~724年在位)
・715年-721年 久勢(くせ)女王
⚪第45代 聖武天皇(724年~749年在位)
・聖武天皇皇女 光仁天皇皇后
721年-744年(?) 井上(いのえ)内親王
・高丘親王娘? 744年(?)-749年 県(あがた)女王
⚪第46代 孝謙天皇(749年~758年在位)
・天武天皇曾孫 三原王娘 749年-752年(?) 小宅(おやけ)女王
※ 『斎宮記』には孝謙皇女小家内親王とあるが、孝謙天皇は独身の女帝なので誤りか。
⚪第47代 淳仁天皇(758年~764年在位)
・淳仁天皇皇女 磯部王室
758年-764年(?) 安倍/山於(やまべ)内親王
⚪第49代 光仁天皇(770年~781年在位)
・光仁天皇皇女 桓武天皇妃
772年-775年(?) 酒人(さかひと)内親王
・光仁天皇皇孫 神王娘 775年(?)-781年(?) 浄庭(きよにわ)女王
⚪第50代 桓武天皇(781年~806年在位)
・桓武天皇皇女 平城天皇妃
782年-796年 朝原(あさはら)内親王
・桓武天皇皇女 797年-806年布勢(ふせ)内親王
⚪第51代 平城天皇(806年~809年在位)
・平城天皇皇女 806年-809年 大原内親王
⚪第52代 嵯峨天皇(809年~823年在位)
・嵯峨天皇皇女 809年-823年 仁子(よしこ)内親王
⚪第53代 淳和天皇(823年~833年在位)
・淳和天皇皇女 823年-827年 氏子内親王
・桓武天皇皇孫 仲野親王娘 828年-833年 宜子(よしこ)女王
⚪第54代 仁明天皇(833年~850年在位)
・仁明天皇皇女 833年-850年 久子内親王
⚪第55代 文徳天皇(850年~858年在位)
・文徳天皇女 850年-858年 晏子(やすこ)内親王
⚪第56代 清和天皇(858年~876年在位)
・文徳天皇皇女 859年-876年 恬子(やすこ)内親王
⚪第57代 陽成天皇(876年~884年在位)
・清和天皇皇女 877年-880年 識子(さとこ)内親王
・文徳天皇皇女(群行せず)882年-884年 掲子(ながこ)内親王
⚪第58代 光孝天皇(884年~887年在位)
・光孝天皇皇女 884年-887年 繁子(しげこ)内親王
⚪第59代 宇多天皇(887年~897年在位)
・仁明天皇皇孫 本康親王娘 889年-897年 元子女王
⚪第60代 醍醐天皇(897年~930年在位)
・宇多天皇皇女 897年-930年 柔子(やすこ)内親王
⚪第61代 朱雀天皇(930年~946年在位)
・ 醍醐天皇皇女 藤原師輔室 931年-936年 雅子内親王
・醍醐天皇皇女(群行せず)936年-936年 斉子(きよこ)内親王
・醍醐天皇皇孫 重明親王娘 村上天皇女御
936年-945年 徽子(よしこ)女王(斎宮女御)
⚪第62代 村上天皇(946年~967年在位)
・醍醐天皇皇女(群行せず)946年-946年 英子(はなこ)内親王
・醍醐天皇皇孫 重明親王娘 947年-954年 悦子(よしこ)女王
・村上天皇皇女 955年-967年 楽子(やすこ)内親王
⚪第63代 冷泉天皇(967年~969年在位)
・村上天皇皇女(群行せず)968年-969年 輔子(すけこ)内親王
⚪第64代 円融天皇(969年~984年在位)
・醍醐天皇皇孫 章明親王娘 969年-974年 隆子女王
・村上天皇皇女 975年-984年 規子(のりこ)内親王
⚪第65代 花山天皇(984年~986年在位)
・醍醐天皇皇孫 章明親王娘(群行せず)
984年-986年 済子(なりこ)女王
⚪第66代 一条天皇(986年~1011年在位)
・村上天皇皇孫 為平親王娘
986年-1010年 恭子(たかこ)女王
⚪第67代 三条天皇(1011年~1016年在位)
・三条天皇皇女 1012年-1016年 当子(まさこ)内親王
⚪第68代 後一条天皇(1016年~1036年在位)
・村上天皇皇孫 具平親王娘 藤原教通室
1016年-1036年 嫥子(よしこ)女王
⚪第69代 後朱雀天皇(1036年~1045年在位)
・後朱雀天皇皇女 1036年-1045年 良子(ながこ)内親王
⚪第70代 後冷泉天皇(1045年~1068年在位)
・三条天皇皇孫 敦明親王娘
1046年-1051年 嘉子(よしこ)内親王
・三条天皇皇孫 敦平親王娘
1051年-1068年 敬子(たかこ)女王
⚪第71代 後三条天皇(1068年~1072年在位)
・後三条天皇皇女 1069年-1072年 俊子(としこ)内親王
⚪第72代 白河天皇(1072年~1086年在位)
・三条天皇曾孫 敦賢親王娘 1073-1077 淳子(あつこ)女王
・白河天皇皇女 1078年-1084年 媞子(やすこ)内親王
(郁芳門院)
⚪第73代 堀河天皇(1086年~1107年在位)
・白河天皇皇女 1087年-1107年 善子(よしこ)内親王
⚪第74代 鳥羽天皇(1107年~1123年在位)
・白河天皇皇女 1108年-1123年 恂子(あいこ)内親王
⚪第75代 祟徳天皇(1123年~1141年在位)
・後三条天皇皇孫 輔仁親王娘
1123年-1141年 守子(もりこ)女王
⚪第76代 近衛天皇(1141年~1155年在位)
・鳥羽天皇皇女 1142年-1150年 妍子(よしこ)内親王
・堀河天皇皇女 1151年-1155年 喜子(よしこ)内親王
⚪第77代 後白河天皇(1155年~1158年在位)
・後白河天皇(1155年~1158年在位)皇女(群行せず)
1156年-1158年亮子(あきこ)内親王(殷富門院)
⚪第78代 二条天皇(1158年~1165年在位)
・後白河天皇皇女 1158年-1165年 好子(よしこ)内親王
⚪第79代 六条天皇(1165年~1168年在位)
・後白河天皇皇女(群行せず)
1165年-1168年 休子(のぶこ)内親王
⚪第80代 高倉天皇(1168年~1180年在位)
・後白河天皇皇女 1168年-1172年 惇子(あつこ)内親王
・高倉天皇皇女(群行せず)
1177年-1179年 功子(いさこ)内親王
⚪第82代 後鳥羽天皇(1183年~1198年在位)
・高倉天皇皇女 1185年-1198年 潔子(きよこ)内親王
⚪第83代 土御門天皇(1198年~1210年在位)
・後鳥羽天皇皇女 1199年-1210年 粛子(すみこ)内親王
⚪第84代 順徳天皇(1210年~1221年在位)
・後鳥羽天皇皇女 1215年-1221年 凞子(ひろこ)内親王
⚪第86代 後堀河天皇(1221年~1232年在位)
・高倉天皇皇孫 守貞親王娘
1226年-1232年 利子(としこ)内親王(式乾門院)
⚪第87代 四条天皇(1232年~1242年在位)
・後堀河天皇皇女 1237年-1242年 昱子(てるこ)内親王
⚪第88代 後嵯峨天皇(1242年~1246年在位)
・土御門天皇皇女(群行せず)
1244年-1246年 曦子(あきこ)内親王(仙華門院)
⚪第90代 亀山天皇(1259年~1274年在位)
・後嵯峨天皇皇女 1262年-1272年 愷子(やすこ)内親王
⚪第94代 後二条天皇(1301年~1308年在位)
・第91代 後宇多天皇(1274年~1287年在位)皇女
(群行せず)1306年-1308年 弉子(まさこ)内親王(達智門院)
⚪第96代 後醍醐天皇(1318年~1339年在位)
・後醍醐天皇皇女 光厳天皇中宮(群行せず)
1330年-1331年 懽子(よしこ)内親王(宣政門院)
・後醍醐天皇皇女(群行せず)
1333年-1334年(?) 祥子(さちこ)内親王
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⚪大来(おおく)皇女 (斎王最初の人)
母親 大田皇女
(天智天皇と蘇我倉山田石川麿の娘 遠知娘の間に生まれた皇女)
父親 天武天皇
叔母 持統天皇
弟 大津皇子
(大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。
686年9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。)
⚪井上(いのえ)内親王(御霊信仰)
父親 聖武天皇
母親 夫人✳県犬養(あがたいぬかい)広刀自
✳県犬養…✳神魂命の後裔と称する神別氏族で、姓は連であったが、672年の壬申の乱に一族の大半が大海人皇子の舎人として功を立てため、684年「八色の姓」の制定にともなって宿禰姓を改賜された。一族の三千代は天武、持統、文武、元明、元正の五朝に出仕し、元明天皇から橘氏を賜った。彼女は夫である藤原不比等を助けるかたわら同族の繁栄をはかり、県犬養広刀自を聖武天皇の夫人とした。その子橘諸兄の時代には石次がこの氏ではただひとりの参議に就任したが、諸兄が権力を失うと県犬養氏もやがて衰退していった。
✳神魂命…カミムスビノミコトは、日本神話に登場する神。別天津神・造化三神のうちの1柱。
夫 光仁天皇
子供 酒人内新王・他戸(おさべ)親王
721年9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の727年、伊勢に下向する。744年1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下したとされる。
帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。754年、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、761年、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関しては前近代の女性としてはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「772年十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を751年、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかし45歳という当時としては極めてまれな高齢出産があった可能性も排除できない。
光仁天皇が770年10月1日に即位すると、それにともない、同年11月6日に立后され、771年1月23日には他戸親王が立太子された。
772年3月2日、光仁天皇を呪詛(じゅそ:呪う)したとして皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃されることになった。翌年773年1月2日には、山部親王(後の桓武天皇)が立太子された。
773年10月19日、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王と共に庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、775年4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説や自殺説も根強い。
二人が亡くなった4ヶ月後、伊勢、尾張(愛知県・東海道)、美濃(岐阜県南部)に暴風雨があり斎宮に修理使が派遣される。777年井上の墓を改葬。800年には皇后に復位。平安初期に盛んになる皇太子早良親王をはじめとした政治的敗者の怨霊を鎮め王権を守護させようとした「御霊信仰」の対象となったと考えられる。
⚪朝原(あさはら)内親王(三代斎王で天皇と決別した人)
母親 酒人(さかひと)内親王
父親 桓武天皇
夫 平城天皇
子供 なし
782年8月1日、4歳で斎王に卜定、785年4月23日に造斎宮長官が、7月21日に斎宮寮頭・賀茂人麻呂が任命され、8月24日に旧都の平城京で発遣の儀式を執行、9月7日、賀茂人麻呂や斎宮内侍従五位下・藤原栄子、その他乳母・女官たちに付き添われて伊勢へ下向、9月15日に斎宮に到着した。なお、内親王のこの下向は、発遣の儀に桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸したり、大和国国境まで天皇と百官が見送るという異例のものであった。
796年2月15日、斎宮で斎王解任のための奉幣使が立てられ、3月15日には平安京から内親王の帰京を求める奉迎使左少弁兼左兵衛佐・橘入居が差遣され、これにより身内の不幸がなかったにもかかわらず18歳で退下、帰京している。帰京後の7月9日、桓武天皇の皇女たちの中では最初に三品に叙せられた。12月14日には桓武天皇が京中巡幸の途中、内親王邸を訪ねて、従五位以上の人々に物を賜った。この後、異母兄の安殿親王(後の平城天皇)に嫁いでいる。
798年9月19日、越後国の田地250町を与えられた。806年3月17日に桓武天皇が崩御、5月に平城天皇が即位すると、それにともない妃となる。その後、平城天皇が809年4月に弟・嵯峨天皇に譲位、810年にはいわゆる「薬子の変」が起きたが、内親王は平城上皇とは行動をともにせず、812年の5月、異母姉妹の大宅内親王と揃って妃の位を辞している(離婚)。
817年4月6日に病に臥し、嵯峨天皇が遣わした6人の僧たちが病気平癒を祈ったが、4月25日、39歳で薨去した。その遺言は、春に父・桓武天皇のために大般若経を、秋に母の酒人内親王のために金剛般若経を唱えさせるために、自らの所領地を東大寺に施入するという内容であったため、それに従い818年3月27日に母酒人内親王から東大寺へ、大般若経と金剛般若経等が奉納され、美濃国厚見庄・越前国横江庄・越後国土井庄の墾田などが施入された。
⚪徽子(よしこ)女王(和歌、管弦、書、琴、一流教養人)
父親 醍醐天皇の皇子 重明親王(聡明)
母親 藤原忠平娘・寛子
夫(女御:妃) 村上天皇
子供 規子内親王 皇子(早世)
936年9月12日、5月に急逝した斎宮・斉子内親王(醍醐天皇皇女)の後を受けて、8歳で伊勢斎宮に卜定される。937年7月13日、雅楽寮へ初斎院入り、同年9月27日、野宮へ遷る。938年9月15日、10歳で伊勢へ群行。この時の群行の儀は朱雀天皇が物忌中のため、外祖父の摂政・藤原忠平が執り行い、また群行には長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)として伯父の中納言・藤原師輔が同行した。945年1月18日、母の死により17歳で退下、同年秋帰京。
948年12月30日、叔父・村上天皇に請われて20歳で入内。949年4月7日、女御の宣旨を受ける。局を承香殿としたことから「承香殿女御」、また父・重明親王の肩書から「式部卿の女御」などと称されたが、前斎宮であった故の「斎宮女御」の通称が最もよく知られている。皇子女は規子内親王(第4皇女)と皇子1人(早世)。
中宮・藤原安子、宣耀殿女御藤原芳子など美女才媛の多い後宮にあって徽子女王の父譲りの和歌と琴の天分は名高く、ことに七弦琴の名手であったといわれる。詠歌にも琴にまつわる秀歌が多く、また『大鏡』171段にも天皇と徽子女王の琴をめぐる逸話が語られており、『夜鶴庭訓抄』は斎宮女御が右手を琴を引く手として大切にし、普段は左の手を使ったと伝えている。その他、956年に「斎宮女御徽子女王歌合」を、959年に「斎宮女御徽子女王前栽合」を主催するなど、文雅豊かな村上天皇の時代に華を添えた。
967年に村上天皇が崩御、その後は一人娘の規子内親王と共に里第(内裏外の邸宅)で暮らす。975年、規子内親王が27歳で円融天皇の斎宮に選ばれると、976年の初斎院入りに徽子女王も同行、同年冬の野宮歌合では有名な「松風入夜琴」の歌を詠む。そして977年、円融天皇の制止を振り切って斎宮と共に伊勢へ下向し、前例のないこととして人々を驚かせた。(この時の逸話は後に『源氏物語』で六条御息所・秋好中宮親子のもとになったと言われる)
984年、円融天皇の譲位で規子内親王が斎宮を退下すると、985年共に帰京するが、この頃既に徽子女王は病身であったらしく、同年薨じた。従四位上、享年57。
⚪嫥子(よしこ/せんし)女王(託宣の人)
父親 村上天皇第7皇子 ※具平親王の三女
※具平親王(ともひら しんのう)は、第62代村上天皇の第七皇子、母は女御荘子(たかこ)女王(醍醐天皇の第三皇子代明親王の次女)。官位は二品・中務卿。✳後中書王(のちの ちゅうしょ おう)、千種殿(ちぐさ どの)、六条宮(ろくじょうの みや)の通称がある。✳紫式部の憧れの存在で、光源氏のモデル、一部かも?
母親 ※為平親王の次女
※為平親王(ためひらしんのう)は平安時代の皇族で村上天皇の第四皇子。母は中宮藤原安子(右大臣藤原師輔の娘)。同母兄弟に冷泉天皇、円融天皇。妻は源高明の娘。官位は一品式部卿まで昇った。染殿式部卿と称された。
夫(継室) 藤原教通
※藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の五男。官位は従一位・関白、太政大臣、贈正一位。
子供 なし
1016年2月19日、後一条天皇の即位に伴い、斎宮に卜定される。1018年伊勢に群行。1025年、勅使を迎えて裳着が行われた。1031年、酒乱に乗じて伊勢神宮の荒魂と称して託宣を下し、斎宮権頭藤原相通夫妻の不正、また朝廷の斎宮祭祀軽視を非難する(斎王託宣事件)。1036年4月17日、後一条天皇の崩御により退下。
1051年、3年前に禔子内親王(三条天皇皇女)を亡くした藤原教通の継室となった。教通との間に子はなかった。1081年、77歳で薨去。
斎王託宣事件
長元4年6月17日、月次祭に奉仕中に神がかりの状態となり、神宮祭主大中臣輔親に託宣を下した。斎宮権頭藤原相通とその妻藤原小忌古曾の不正を糾弾し、また斎宮の冷遇は天皇の失政であると朝廷を非難した。(後述の『後拾遺集』の歌の詞書によると、託宣の際に何度も酒杯をあおったとあり、酒乱状態であったようである) 朝廷で対応が話し合われ、藤原実資は『小右記』に「斎王が託宣を告げるなどということは、前代未聞」と記している。藤原相通夫妻はそれぞれ流罪となった。
託宣の際に大中臣輔親と交わした和歌が『後拾遺集』に載せられている。
「さかづきにさやけき影のみえぬれば ちりのおそりはあらじとをしれ」 (盃に冴えた月の光が映って見えた。不逞の輩の罪は、神の目にくっきりとお見通しだ。だから、塵ほどの心配も必要ないことを知れ。)
輔親の返歌「おほぢちゝむまごすけちかみよまでに いたゞきまつるすべらおほんがみ」 (祖父の頼基、父の能宣、孫のわたくし輔親と、三代までもお仕え申し上げる皇祖神さま。御託宣は謹んで承りました。)
⚪良子(ながこ)内親王(多く記録された人)
父親 後朱雀天皇
母親 第67代三条天皇の第3皇女 皇后禎子(ていし)内親王
後朱雀天皇即位に伴い、1036年11月28日、8歳で斎宮に卜定(妹娟子内親王も同日に斎院卜定)。1037年4月3日、大膳職へ初斎院入り。同年9月17日野宮へ入り、1038年9月11日に伊勢へ下向(長奉送使は権中納言・藤原資平)。1045年1月16日、後朱雀天皇譲位により17歳で退下。同年4月28日に帰京の後は、母・禎子内親王の下で弟妹らと暮らしたと思われる。1077年、疱瘡のため49歳で死去した。
良子内親王の伊勢下向(群行)に際しては、同行した藤原資房(藤原資平の子)がその日記『春記』に詳細な記録を残しており、現在のところ群行に関する唯一の同時代史料として注目されている。また1040年5月6日に催された貝合わせ(「斎宮良子内親王貝合」)は、作者不明の『斎宮貝合日記』により雅やかな儀式の詳細が記されており、これも最古の貝合記録として貴重である。
⚪媞子(やすこ)内親王(華やかに散った人 非配偶の后)
父親 第72代白河天皇 第一皇女
母親 中宮藤原賢子※太政大臣・藤原師実の養女。実父は右大臣・源顕房、母は源隆俊の女・隆子。
准母 同母弟堀河天皇の✳准母、中宮(尊称皇后)
✳准母(じゅんぼ)…天皇の生母ではない女性が母に擬されること。 また、母に擬された女性の称号。
1078年8月2日、3歳で斎宮に卜定、9月1日大膳職へ初斎院入り。1079年9月8日、野宮へ移る。1080年9月15日、伊勢に下向。1084年9月22日、母后賢子崩御により在任6年で退下、同年12月4日帰京。1086年父白河天皇退位、弟堀河天皇即位。1087年7月、白河院と対面、同年12月16日、堀河天皇准母として入内。1091年1月22日、中宮と同じ資格の后に冊立(さくりつ:勅命によって皇后・皇太子などを立てること)。1093年1月19日、✳女院となり、郁芳門院(いくほうもんいん)と称する。1096年8月7日、病で崩御。享年21。
✳女院…(にょいん)は、三后(太皇太后・皇太后・皇后)や、それに準ずる身位(准后、内親王など)の女性に宣下された称号を指し、平安時代中期から明治維新まで続いた制度である。
最愛の中宮賢子との間に生まれ、母に似て美しかったという媞子内親王を、白河天皇は殊のほか鍾愛した。内親王が斎宮に卜定された際にも野宮まで行幸し(天皇の野宮行幸はこの白河天皇の例のみである)、斎宮退下の後には堀河天皇准母として后(中宮)に立てた。これは醍醐天皇養母として皇太夫人になった女御藤原温子の例に倣うとしているものの、天皇の同母姉で非配偶の后(尊称皇后)は前代未聞であり、廷臣たちの反感を買ったという。ともあれ、これがその後院政期にしばしば見られる准母立后の始まりとなり、媞子内親王はさらに女院号までも宣下されて郁芳門院となった。
『中右記』によれば、白河院の第一最愛の内親王で「身体美麗、風容甚盛、性もとより寛仁、接心好施」、即ち容姿麗しく優美であり、施しを好む寛容な心優しい女性であったという。また✳田楽を大変好み、しばしば御所で見物を楽しんだ。白河院は御幸の際には必ず内親王と同車し、病がちな内親王のためにしばしば寺社に参篭して、その息災を祈り絶えず祈祷させた。しかし内親王は21歳の若さで早世、最愛の皇女を亡くした白河院は悲嘆のあまり2日後に出家した。その後院と内親王の御所であった六条殿に御堂が建立され、院はそこへ昔日と変わらぬままに女房達を仕えさせたという(『今鏡』)。なお、内親王の御所に仕えた女房に歌人の郁芳門院安芸がいる。
✳田楽….平安朝から行われた、舞踊の一種。もと、田植の時に行ったが、遊芸化して鎌倉・室町時代に盛んであった。
陵墓は母賢子と同じ、上醍醐陵(京都府京都市伏見区醍醐醍醐山醍醐寺内)。
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斎王達は、律令制度強化のため天照大御神に使え、天皇家と大和の安泰を祈るとともに、無償の愛である太陽の周波数に近づく能力を持った巫女だったと私は考えています。純粋で光に近い周波数を持つ存在。女性の持つ本来の能力を見出だした体制で、全体を至福なる死の道に近づけていったのではないかと思えます。
南北朝時代に入り、斎王は途絶(とぜつ:ふさがって絶えること。とだえること)してしまいましたが、斎王が存在していた660年間は、大きな争いはなく比較的に人々は穏やかだったそうです。祟神天皇からの伝承時代より、流行り病や飢饉、地震、津波がありましたが何か目に見えない光に導かれて死を迎えられるというそこはかとない安心した根拠が伊勢斎王という存在によって支えられ信仰されて、死の際には多くが救われていったのではないかと思います。哲学、宗教、文化的な役割を担っていて、仏教との兼ね合いもありますが、斎王は日本独自の概念だと思っています。