Memoria / Takumi Akaishi
昨年の夏頃入手していた赤石拓海氏の「Memoria」アナログ盤アルバムを聴く。
「音楽を部屋に招き入れる」とはどうゆうことだろうか。
もしもLSDを摂取していれば、過去のあらゆる記憶はまだらに飛ぶ。レコードはレコードではなく、未知の物体として訪れる。
美術館のような紙のジャケットから、黒くて丸い円形の板がするりと出てくる。
これは何だろう。しかし手は覚えている、その感触を。
動物が知らず交尾をするように、プレーヤーのセンタースピンドルがレコードのセンターホールに手探りで吸い込まれる。
音を再生する装置は、本来は物理的直線に記憶された振動をなぞるものだ。
それだと長すぎて室内では聞けないから、円形にグルグル巻きにしてある。
直線に戻したら、何メートルくらいだろう。25メートル走のレーンで足りるのだろうか。
円周は半径×3.14で、何周回れば回り終わるか、数えればおおよその長さは計算できるだろう。
昔テレックスと長い電報みたいなのがあって、エンドレスのリボンが延々と機械から吐き出されていた。
それに比べたらレコードの仕組みはなんとスマートなのだろうか。
赤石氏の「音楽」は、最初からその来訪を以て、疑似的な『音楽』の情報投影とは全く違う、時空の訪れを告げる。
この時空は今日、半年ぶりに私の居間を訪れて机上に座り、この部屋の空気を吸っては吐き出しながら、様々な異郷の物語を語り始め、一向に帰る気配もない。
盤は、動物の本能のように片面を「再生」し終わると自然に裏返り、朝から幾度となく舞い翻っては、またスピンドルに着地し、回転する。小休止してはまた歩む、その距離は今日の深夜には1kmにも達するだろう。一日中聴いていた。
情報としてやってくるダイレクトメールのような『擬似音楽』は、自身をジャンル分けし、価格を付与し、使用方法を自ら述べ、他よりお得ですよ、と甲高く叫ぶ。
だがこの「音楽」は赤石氏の腕の中で、世界の果ての物語を誰にともなく語る。巷間に降り積もる『擬似音楽』の壊死した情動には宿りえない、生命的な感情で、ハーディガーディが鳴く。楽器は弾かれるのではなく、楽器こそが忘られた生命を、奇蹟的に奏する。
至高の佳曲は(こやま的私見)B-1の「The Patience Stone]。
2023.1.9. 小山景子
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