誰もいなけりゃ赤信号でも渡っちゃえ 〜クリティカルに生きろ〜
ある日常のこと。目の前の通りには赤信号。信号待ちは、その人のみ。車も対面からこちらへ向かう人もいない。バカ正直に赤が青に変わるのを待つ。2分ほどして、青に変わり安全のために周りを見渡し、手を挙げてわたる。
そんなことをするのは、アイヒマンが「悪の陳腐さ」ならば、その人は「善意の陳腐さ」ですよ。
まず、このタイトルを見て僕を批判するためにnoteを観に来てくれた君たちにはお礼を言いたい。社会的地位の確立のために、己の持つ正義感に駆られ、僕を正そうとしてくれている。そして、僕のnoteの一読者となってくれている。
まず、このタイトルに釣られるのは、現代社会の、特にメディアの餌に食いつく魚だ。釣られた、ということだ。
別にタイトルに釣られた、と思う必要はない。なぜなら、本エッセイはそんな君達にぴったりなエッセイだからだ。いい餌を、食事を出来たということだ。
とか調子乗って言ってしまうと、現代社会というコミュニティから疎外されてしまうので、これはいい意味での煽りであり、かつての自己批判であるということを伝えておく。
煽ってしまって申し訳ない。
さて、本題に入ろう。
赤信号、みんなで渡れば怖くない。
これは間違っている。どこが間違っているのか。信号無視すること?いや違う。みんなで渡ることだ。
誰かがいる、つまり自分以外の人が同じ空間(リアル空間でも、バーチャル空間でも)にいるという状態であれば、そこには社会という概念が生まれる。ミニマムなコミュニティの中に自分がいるということになる。
少し脱線するが、なぜ法律があり、ルールがあるのだろうか?
皆もわかってるはずだ。秩序維持のためだ。
そのコミュニティ内での秩序を維持し、永続的に繁栄させるためだ。そのコミュニティの規模はリアルコミュニティで大きいもので世界・国・地方になり、小さければ自分ともう一人いれば十分なのだ。今挙げたのは、リアルコミュニティの例であるが、それはバーチャルコミュニティでも同じ。
では、そこにコミュニティがなければ、つまり一人だけであれば、秩序維持の必要性が問われるのは、自然な流れだろう。
だから、ボッチ空間で赤信号を渡れ、つまり違法してもいいとは言わない。
常にそのルールの理由を考え、時にはルールにメスを入れる必要がある、ということだ。
もし読んでくれているあなたが、ベルトコンベア的な人材でよければ、代わりのいる人材でよければ、その必要はないかと思われる。だが、そんなのでいいのか?僕らには、そのコミュニティの中での地位を確立したいという欲求があるのだ。承認欲求やもう少し青ければアイデンティティの確立などと言われるだろう。
長々と話したが、要はクリティカルに生きろということだ。
僕の好きな作品の『電波教師』の鑑純一郎はこう言った。
「ルールなんて守ってて、社会で通用すると思うなよ。」
「ルールってのはお前等のためじゃなく、"作ったヤツ"のためにある。そしてソレに支配された"現実"と"未来"は、常にお前達の"敵"だ。」
そう。ルールは時に我々を不適切に縛り、そのルールを作った人たちに適応している。
このセリフの続きは、その目で確かめてほしい。
我々は、電波人間にならなければ、社会の奴隷になってしまう。常に闘え。
多分、若い頃は特に闘って、経験を積み、大人になるという過程で丸くなってしまうのだから。
ここまで読んでくれたみなさん。ありがとうございました。是非、闘いましょう。自らの夢を叶えるために。