響く音に跳ねる夢

   ルードヴィヒ大千穐楽が終わってはや数週間。映画上映も決まってまだまだ歓喜の日々は終わらなさそうですが、自分の記憶が消えていく前に書き留めておきたいことを文字にしてます。


  けれど素晴らしい感想や詳細なレポなどはすでにTwitterやブログに溢れているし、私が書けることなんてほぼないような気がするんですが。それでもこうして文字を打ってるのは、マリーのことが頭から離れないせいです。


   マリー・シュラザー。
   男女の愛情ではない、ルードヴィヒにとっての〈不滅の恋人〉。



   人物紹介やあらすじを読んでいた時は、謎めいた蠱惑的な女性をイメージしていました。芸術家にとってインスピレーションの源泉になるような運命の女(ファムファタル)。謎めいていて微笑みだけで人を惑わしてしまうような、そんな目が離せなくなってしまう女性。


   けれど舞台の上に登場したマリーは百八十度違っていました。草原を吹き抜ける春の風のような、暑い夏の日に一瞬だけ降る通り雨のような、自分の中にある情熱と夢を抑えきれず、思わず駆け出してしまう女性でした。


   その突き進もうとする姿勢は時代にはそぐわなくて、マリーが自分らしく生きていくことは難しいことだった。それでも彼女が歩みを止めなかったのは、心の中にいつもルードヴィヒが生み出した音楽が鳴り響いていたからなのかなと思います。



   子供の頃。男とか女とか関係なく、誰もが自由に未来への夢を思い描ける幸福な時代。マリーにとっての夢は建築家になるというものだった。生きづらさも困難さもまだ知らない、きらきらとした純粋そのものの夢。その時に聞こえてきたルードヴィヒの音楽は、マリーの夢をさらに輝かせて大空へ跳ねていくような彩りを与えてくれた。


   幸福な子供の頃の記憶と抱いた純粋な夢は、ルードヴィヒの音楽とセットになってマリーの中にインプットされた。だからこそマリーの中でルードヴィヒの音楽は、他のどんな音よりも特別なものとなって聞こえたじゃないかなと思いました。


   以前にルードヴィヒにとってマリーはどういう存在なのか。こんな風に考えていたけれど、逆にマリーにとってルードヴィヒはどんな存在だったのか。彼の音楽のように美しく光り輝いていたかといえばそうではなくて。どちらかといえば厳しい現実同様に、マリーにとってルードヴィヒ は優しい人ではなかった。ウォルターの師匠にはなってくれず、彼女に対して女尊男卑な差別的意見も容赦なくぶつける。



   それでもマリーにとってルードヴィヒが特別な存在であり続けたのは、彼女が夢を諦めずに誰も歩いたことのない道を切り開こうとしたいから。挫けそうになっても、止まりそうになっても、ルードヴィヒの音楽が鳴り響けば、子供の頃に抱いていた夢が鮮やかに蘇ってその足を跳ねさせてくれたから。未来へ進むために過去から放たれる光。その源となる人。それがマリーにとってのルードヴィヒだったのかなと今では思ってます。

  ベートーヴェンの史実や伝記などはあまり読まずに、舞台を見て感じたことだけをもとに解釈してるので、また映画を見たりルードヴィヒの人生を調べたら違った考えも出てくるかもしれません。でもこうして想像の羽を広げることができてとても楽しかったです。



  最後に。歴史上には存在しないマリーという人が、もしかしたらどこかに生きていたかもしれないと思わせるほど、強く魅力的に演じてくださった木下晴香さん。本当に素晴らしい演技と歌声でした。彼女の生き様を舞台上でみることができて、とてもとても幸せでした。たぶんずっと覚えていると思います。

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