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#12 わらう
昔から思っているのだが、「わらう」という言葉はとても面白い。そして私はこの言葉がとても好きだ。
そりゃあもう、小5の頃運動会のよさこいで背面に好きな漢字1字を入れた手作りのはっぴを着ることになり、墨で大きく「笑」と書いたくらい好きだ。生まれて初めて買ったCDのタイトルが「笑う約束」なくらい好きだ。
ところで、「笑う」ことの素晴らしさはお笑い芸人を目指す者として知っているつもりだが、今回は一日本語好きとして、言葉としての「わらう」の話をしようと思う。
※以下、()内はオタクの愛が溢れる様です。
さて、私は「わらう」という言葉の面白さはそのバリエーションの豊富さにあると思っている。(日本語自体がそういう素敵な言語だということもあるが。日本語大好き。)
平たく言えば、文脈やどの漢字使うかによって細かいニュアンスを出すことができる素晴らしい言葉だということだ。(まぁまぁキモいことを言うようだが、こういったところがまさに日本語のロマンだと思う。私のように日本語を愛する方々には分かっていただけるはずだ。)
「わらう」の漢字表記には実はいくつもの種類があるのだが(後述)、最も一般的なのが「笑う」だ。ただ、この「笑う」1つとっても文脈によって様々なニュアンスの違いを出すことができる。
人間は嬉しくて笑う。面白くて笑う。楽しくて笑う。照れくさくて笑う。
「笑う」にはこういったポジティブなイメージが強くあるが、人間は軽蔑の意味でも笑う。悲しいときに笑うこともある(これを一言で的確に表す日本語を私は知らない。けど、不謹慎だけど、悲しく笑っている人って綺麗だよね。)。
こう考えると、人間っていろんな場面で笑うんだなぁとか、こんなにたくさんの感情をすべて「笑顔」のバリエーションだけで表現する人間って面白いなぁとか、人間ってなんて面白い生き物なんだと思う。
だからこそ、言葉にもこんなに豊富なバリエーションがあるのかもしれない。(言葉って面白。)
作り笑い。含み笑い。泣き笑い。苦笑い。
微笑む。ほくそ笑む。嘲笑う。
例を出せばキリがない。
また、漢字表記のパターンだけでもいろいろある。
「わらう」の中で代表的な「笑う」以外に、「嗤う」「咲う」「哂う」「呵う」などと書いても「わらう」と読むのだ。
読みはどれも「わらう」だが、これらの間にはどれも絶妙なニュアンスの違いや比喩を含んでいる。(日本語おもろムズい。大好き。)
「嗤う」はこれだけで「ばかにして笑う」「嘲笑う」という意味になるし、「哂う」には「人のことをけなす」という意味で笑うことを表す。
また、「呵う」はこれだけで「口を大きく開き、大声で笑う」という一連の様子を表せる。
そして、私が最も気に入ったのが「咲う」だ。
「咲う」には「花のつぼみが開くこと」または「果実が熟して皮が裂けること」「縫い目が綻びること」などの意味がある。これらは、「わらう」の中で最も一般的な「笑う」の「口を大きく開けて喜びの声をたてる」という意味の比喩的な表現だ。
なんだ。天才か。
「咲く」「裂ける」「綻びる」を「口を開ける」という動作に例えるセンス。特に「花のつぼみが開くこと」を「わらう」に紐づけたセンスに脱帽だ。(あぁ、これこそ日本語のロマン。大好き。)
つぼみが口を開けて、にっこりと笑う。それだけでぐっと華やかになる。そんな光景がありありと想像できる。(いとをかし。)
私はこの表現を知った時、ますます日本語が好きになった。(あはれ。)
また、慣用句も面白い。
これもキリがないので1つだけ例を挙げると、「膝がわらう」という慣用句がある。
これは「膝に力が入らずに踏ん張りがきかない状態」という意味の表現だが、力が入らずガクガクと震える膝は、笑いがツボに入り止まらなくなった時の状況によく似ている。
人間それなりに楽しく生きていれば笑いの制御が出来ずに、何とか押し殺そうとするも顔が歪んで肩が揺れてしまうことはよくある。それに、もし本当に「膝がわらう」の状態に陥った時、私はなんだか変な笑いが止まらなくなる自信がある。
もしかしたら人間で初めて「膝がわらう」という表現を使った人は、実際に「膝がわらう」という状況に陥ってなんだか面白くなって笑ってしまったことからこの表現を思いついたのかもしれない。(もしそうなら友達になりたい。)
もしくは、言うことをきかない自分の膝を憎らしく思い、「自分のことを憎たらしくケタケタと笑っているようだ」と腹が立っていたのかもしれない。(かわいい。)
どちらにせよ、「わらう」はどれも面白い。
日本語としての美しさも、勝手な考察も、とても楽しい。
私はこれからも、この飽きの来ない「わらう」という言葉をいつまでも見つめていたいと思う。