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KokugoNote 番外編

 ここ数年間、目が回るほどの忙しさで、ブログを殆ど書く余裕がなく、ひと息つくこともなく、バタバタ続きで、ひたすらタスクをこなし続ける日々だった。私の世代は就職氷河期に当たるが、職場でもこの世代がほとんどおらず、中堅の厚みがなく、新人ばかりということになってしまう。そうすると、フォロー体制がないまま、トラブルが起きても、ひとりで同時に複数を解決することになり、作業の波に襲われて、もがき続けることになってしまうのだった。

▼  想像力を働かせる
 年末になり、少しだけ余裕が生まれたので、入手した図書を取り上げる。文章は平易で示唆に富み、さっと読むにはちょうど良い。積読本が増えていく中で、手始めに読み始めたものだ。
 少し長いが、感動的なエピソードでかつ、想像力の大切さを実感できる話なので紹介する。実話かどうかは不明だが、それも問題ではないのではないかとさえ思われる内容である。

...........................................................................これは、第二次世界大戦中のドイツの捕虜収容所での、フランス兵捕虜たちのエピソードである。フランス兵たちは、ドイツ軍にとらえられ、いつ故郷にかえれるのかもわからない重苦しい状態の中で苦しんでいた。彼らは、絶望し、すこし頭がおかしくなったり、いらいらしてケンカをしはじめたりし、退廃の度をふかめていく。
   兵士のなかにロベールという若い将校がいて、なんとかしてみなを元気づけたいと思う。
それに、いかにしてとらわれの身とはいっても、フランス軍兵士らしい節度、規律、礼儀正しさをしっかり再建しなければならない。
   ロベールは、みなに、こう提案する。
   「諸君、わたしの話を聞いて協力してくれないか。われわれは、男ばかりで、いつ解放されるかわからない、はなはだ心ぼそい状況におかれている。故郷に恋人や妻をのこしてきて、さみしい思いもしている。ここには、女性は一人もいない。けれども、もしも、ここにわたしたちの祖国の美しい女性がいたとしたらどうか。
目にはみえないが、ここにフランスの少女が一人いると想像しよう。わたしたちが大声でどなりあったり、放屁をしたりしたとき、彼女にあやまってみることにしたらどうか。裸になるようなときは、毛布をつるしてみえないようにする。どうだ、諸君。そういうウソ遊びをやってみようではないか。ここにフランスの美しい少女がいると思って、おたがいに、彼女に気に入られるように紳士的にふるまってみないか?!
わたしたちの祖国、フランスは、やがては勝つ。それまで、誇りたかくおたがいにたえぬく根性をやしなうためにも、そういう遊戯をやってみよう。」
   奇妙なことに、この一見、無意味にみえる遊戯は、見事に成功する。兵士たちの間に規律がもどってくる。道徳感がとつぜんめばえる。
ドイツの監視兵たちは、立ち聞きをして、
「おや、女をかくしている!」と、思う。
   収容所の所長がやってくる。
「ここに女の子がいることはわかっている。それは禁じられている。明日、わたしは、もう一度ここにくる。その時までに、彼女をこちらにひきわたすことを命ずる。その女は、ドイツ軍将校の給仕にする。」所長が、そう言って去ると、フランス兵たちは狼狽する。 
   ロベールは、くちびるをかんで考える。
   ――もしも、「じつは、ウソなのです。作り話でやっていただけなのです。」と言ったなら、
兵士たちは意気消沈し、二度と彼女をつくりだすことはできないだろう。よし、彼女に、ぼくは命を賭けよう……。
   翌日、収容所の所長が屈強の部下たちをつれてあらわれたとき、ロベールは全員を代表して言う。「わたしたちは、わが祖国フランスの女性をまもります。ひきわたすことはできません。」
   所長は、一本とられたと思う。こうなると、どんな手をつかっても、女をみつけてひきたてていかねばならない。所長は、まず、ロベールを逮捕し、独房にぶちこむという。「結構です。独房につれていってください。」
   兵士たちは息をのむ。独房にいれられるということは、死を意味する。毅然としてひきたてられていくロベールのうしろ姿をみて、兵士たちは感動する。少女が、ほんとうに、生きてここにいるかのように、だれもがあらためて実感する。ロベールは命をかけて、われわれのために、少女をまもってくれているのだと思う。
   身うごきできない、レンガづくりのせまくて暗いあな倉のなかで、鎖につながれているのは、とてもつらいことだ。ムカデがいたりする。足もとはみえない。一日だって、そんなところにいられたものではない。たいていは、おかしくなって、「助けてくれ!」と絶叫しながら
水ものめなくなって死んでしまう。
   ところが、どうだろう。数週間たえぬいて、
ひどくやせてしまったけれど、ロベールはもどってきた。兵士たちは大喜びである。
「よくごぶじでした。うれしいです。よかった、よかった。」だれもが、ロベールの手をにぎる。
   「それにしても、よく幽閉にたえぬけましたね。どうしていたのですか?」「じつは、ぼくは、目にみえないフランス少女をまもるという、われわれの遊戯でわかったのだ。
   想像力というものが、べつの世界、物理的な現在とはことなった、もうひとつの現実をつくる力なんだとね。だから、ぼくはへこたれなかったんだ。」
   ロベールは、足音をならしてすすむゾウの大群をイメージしていた。自分は、今、その先頭のゾウにのってすすんでいく。祖国はとおい。
しかし、一歩一歩ちかづいてくる……そのように想像することで、神経衰弱になるのをまぬがれたのであった。

   夏休みがちかづくと、なんとなく楽しい気分になってくる。クリスマスがちかづいてくるときもそうだ。なぜだろう。それは、「意味」がみえてくるからだ。夏休みになったらプールで泳ごう、つりにいこう……そういう意味がみえてくる。クリスマス・イブもおなじで、あの人に贈り物をしよう、あの人は、どんなプレゼントをくれるかしら、そういうことを考えるだけでも楽しい。わたしたちは、毎日、おなじような生活をしている。だから日常が退廃して、
「意味」をうしなってしまう。
   わたしたちは、ときどき、「意味」をひろくかいまみることがたいせつで、「意味」が、わたしたちの生きようとする「意志」を刺激する。「意味」をみつけると、わたしたちの生きようとする「意志」が、ふたたび生気あふれるものになる。
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 クリスマスのサンタクロースを信じていたことにも繋がる話だ。翻訳者の渡辺茂男先生の講演内容と通底していて、しみじみと振り返ってしまう。幼い子どもを持つと、どうしても子どもが何をどう感じているのか、考えながら日々を過ごすことになる。うちの子も心の中に「大切なものを迎える椅子」を作っているのだろうか。

以下、『エルマーの冒険』の翻訳家、渡辺茂男先生のご講演内容。人口に膾炙したものなので、よく知られていると思うが、引用しておこう。
「子供の頃にサンタクロースとか、ドラゴンとか、いるはずのない架空の生き物を心底いる、と信じることが人間には必要なんです。その数が多ければ多いほど、子供の心の中に、椅子ができる。大人になってゆくと、なあんだ、サンタクロースなんかいないじゃん。と、そこに座っていた架空の生き物たちは消えてしまいます。でも、それまでその椅子を温めてくれたサンタクロースのお陰で、人は、大人になって愛を知った時、今度は本当に大事な人をそこに座らせることができる。」

きっとそうだと信じたい。

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