KokugoNote #14 高2現代文・国語表現
今日のおさらい。20200124〜20200127
欠席していた人、うっかり居眠りしてしまった人はよく読んでおいてください。
高階秀爾さんの「『間』の感覚」を読み始めました。
今回は、少し長めの文章になりますが、この評論文は「比較文化論」というジャンルに該当するものです。一見、馴染みのない分野なので、難しいように思われるかもしれませんが、要は、日本と西欧の文化の違いを、様々な事例から明らかにして、どうしてこのような違いが生じているのだろうかと考えてみようぜという話です。
比較を対象とした文章では、「日本では、わが国では、東洋では、東洋の地名・人名は」と、「ヨーロッパでは、西洋では、西欧では、外国では、西洋の地名・人名は」などを
ひたすらそれぞれの色を決めた蛍光ペンでチェックしていくという読み方がベストです。
マトリックス、つまり比較を分かりやすくまとめていくマス目を作って、黒板にちょこちょこ抜き出してみました。
例えば、自然感情の違いについて。
日本では、自然の中にでかけていって花を愛でるが、
西欧では、自然を切り取って花を愛でる、
花を描いた絵画でも、
日本は、自然の中の景色を描くが、
西欧では、花瓶に生けたものを描く。
建築物を描いた絵画でも、
日本は、自然の中に融合したものを描くが、
西欧では、人工的なモニュメントだけを描く。
どうしてこのように明確な違いが出るのだろうか??
そういうことを考えてみようね、
というところで終わりました。
先生が読み上げながら、皆はマークしたり、フリガナを振ったりしたので時間がかかりましたが、今日も似たような展開になりそうです。14:55くらいから、Googleフォームで作成した初読課題を各自のスマホで行おうと思います。
何にでも好奇心を働かせて、自分に関わりがあると考えて勉強してくださいね。
続き。
高階秀爾さんの「『間』の感覚」について、
24日は、パルテノン神殿と日本家屋の構造上の大きな違いに注目しましたね。
すなわち、屋根がひょっこりと先に延びて、「軒下」を形成するという特徴です。
例えば、お正月に参拝したお寺などの縁側の廊下もそうですね。
そこは外(外部)なのでしょうか? それとも靴を脱いで行動するので、内(内側)なのでしょうか?
K部くんから「先生、ということは、ベランダも内と言えますか?」という鋭い質問が飛び込んできました。
先生は「そこが出入り自由になっているのであれば、内と言えそうですね」と答えました。
K部くんは、「うちのベランダは出入り自由です。学校から帰って、ベランダから入ることもあります。」と元気よく答えてくれました。
先生は、(K部くんの家は忍者の家なのか?)と思いましたが、「それは不審者扱いされそうなので、止めておいた方が良いと思いますよ」と常識的に回答してしまいました。
ひょっとすると、K部くんのお家は、「ご飯よー!」の声が、屋根裏から聞こえたり、畳をひっくり返して、自分の部屋に入ったりするのかもしれません。
夢があっていいですね!(ニッコリ)
それはさておき、
内側と外側の認識は、日本家屋ではかなり曖昧なのです。
柵や植込みのない庭もありますし、両隣は敷地面積の区分のための仕切りしかない場合もあります。田舎であれば、鍵をかけない家も多くて、勝手に近所の人が家の中に入って、釣ってきた魚を入れてくれていたりすることもあるそうです。
ああ、そうなのか。日本では何もかも曖昧なのか!なるほどー!
と合点行きそうですが、そうでもないのです。
「ところが、甚だ興味深いことに、このように内部と外部が連続している空間の中に住みながら、それにもかかわらず―—というよりもむしろ、それであるからこそ―—日本人は住まい方において、内と外とを厳しく区別するという行動様式を示」しているのです!(P140L4~5)
回りくどい表現ですが、
要するに、「内部と外部が連続」すると、どこまでも外なのか、どこまでも内なのか、という極端な話になってしまいます。
もしどこまでも外であるのなら、プライベート空間など存在しなくなります。
どこまでも内であるのなら、「俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの」というジャイアニズム(ジャイアン主義)が蔓延(まんえん)しそうです。
どこかで、自他を峻別(しゅんべつ)しなくてはいけません。
そのためか、日本の家屋では、
玄関で靴を脱ぐ→室内スリッパに履き替える→トイレではトイレスリッパに履き替える→畳の部屋ではスリッパを脱ぐ→・・・のように、履物をはいたり、脱いだりする訳です。
なぜそのようなことをするのか??
日本人はそれが当たり前のように体に染みついているので、何の不自然も感じませんが、外国人からすれば???となってしまう訳です。
例えば、高校2年生の諸君は、修学旅行が近づいていますが、私たちはホテルに泊まることになります。ホテルは西洋文化が根付いているので、入館したらロビーで靴を脱ぐということがありません。
各自の部屋に入って、そこでも〈靴を脱いでも良いが、脱がなくても良い〉という文化が待っています。当然、食堂ホールへ行くとき、スリッパはダメで、きちんとした下履きでなくてはいけません。部屋から出ると、そこは「外」という扱いだからです。
一方、温泉旅館のことを考えてみると、そうではないことを思い出されるはずです。
まず広い玄関で、靴を脱いで、スリッパに履き替えます。館内はどこでもスリッパで移動します。頑丈な鍵が部屋についている訳ではなく、仲居さんが夕食の準備をしに来てくれたり、布団を引いてくれたりして、まるでファミリーのようです。
西洋のホテルのように、一線を画すということがありません。
しかし、トイレスリッパ、畳の上での裸足は厳密なのです!
「空間構造は繋がっているように見えながら、行動様式では内と外は明確に区別されている」(P140ℓ14)とあるのは、その点を強調しているのですね。
27日は、そのまとめとなる表現、
「このような家の内と外、部屋の内と外の区別は、物理的というよりもむしろ心理的なもの」「意識の問題であり、価値観の問題である」(P140ℓ8~9)というところからスタートです。
「物理的とは何か?」「心理的とは何か?」をA羽さんが表現してくれました。
M田くんに、腕にぱちんと指で弾(はじ)いて叩き、「物理的」攻撃を表現し、
M田くんに「君はなんて不細工なんだ」と罵(ののし)って、「心理的」攻撃を表現しました。*二人は熱い友情で結ばれた仲良しのクラスメイトです、念のため。
ということは、ウチとソトとを区別するために、「意識や価値観」に働きかけている何ものか、がそこにあるのだと理解した方が良いということです。
高階さんは、宗教上の聖なる空間を維持する建築物の違いを例に取りました。
西欧の教会では、
分厚い壁に囲まれていて、ゾンビや吸血鬼に襲われても大丈夫なようになっています。
日本のお寺や神社では、
鳥居と、本殿をぐるっと囲む低い土塀がありますが、ゾンビや吸血鬼は簡単に入ってくることができそうです。(セコムに入っていても仏像や宝物殿などに限定されるでしょう)
実体を持たないとされる幽霊も入れそうなものですが、彼らはお払いの札などが苦手なようで、あちこちに貼ってあったり、盛り塩などで結界を張っていたりすると、建前上、聖なる敷地には入れないようなのです。
(いや墓地を併設しているお寺は多いので、普通に一緒に生活しているのではないでしょうか?その辺りも曖昧??)
西欧の人たちが見たら、鳥居の意味もよく解らないし、なぜこれほど無防備なのかも理解できないと思います。
皆さんも想像してください。
父ちゃんがいきなり、「今日から家の鍵を撤廃して、鳥居や関守石だけを置くことにした。神さまが守ってくださるから、これでもう安心だ!ガッハハッ」と宣言したら、ドン引きするのではないでしょうか?
西欧の人々の感覚はそれに似ていると思います。
どういうこっちゃ?です。
日本人は、このように「目に見えない形での内外の区別(約束事)」を散りばめており、それに対する「共通の理解」を前提としているので、不自然だと思わないのですが、それを知らない外国人にとっては、なんのこっちゃ?なのです。
今日はここまで、でした。
では、また明日!
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