Kokugonote 新年度#2
新年度クラスの子たちには発信していたもので、すでに書き溜めていたものがあるので、転載してみます。このブログを旧クラスの子たちがもし見ていたとしたら、参考になるかもしれません。
Q① なぜ勉強をしなくてはいけないのか?
Q② テストする意味は何なのか?
Q③ なぜ学校はあるのか?
Q④ なぜ高校は義務教育ではないのか?
Q⑤ なぜどれだけ努力しても結果でしか判断されないのか?
A① いずれも関連する問いだったので、まとめて返答しますね。
(中学校の先生方も何がしかの回答をされたと思いますが、なるべく重ならない回答をしようと思います。)
順序だてて展開できる質問から応対しましょう。
④について。
義務教育とは、皆さんが教育を受ける義務ではなく、親が子供に教育を受けさせる義務のことを言います。なので、諸外国では義務教育の就学時期に、親が子どもを学校に行かせなければ罰金刑を受けます。幼い弟や妹の面倒を見させたり、店番をさせたりすると、親が牢屋に入れられてしまうこともあります。
なぜかというと、教育こそが、やがて国を支える市民を育てるのだという理念があるからです。皆が皆、学者になったり、医者になったり、社長になったりする訳ではありませんが、同じメッセージを発したら100人に1人、いや1000人に1人、ひょっとすると10000人に1人かもしれませんが、〈きっかけ〉を掴(つか)む人が表れます。
ほんの一握りかもしれませんが、その〈きっかけ〉はいつ掴むか誰も解りません。高校3年間、大学4年間、その先の20代の時に、もっと先かもしれません。人生はどう転ぶか解らないから、立ち上がり方の基本をしっかりと学んでおくのです。それが、「義務教育」の意味です。
※ちなみに、「今日、ケンタッキーにしない?」のCMで、お馴染(なじ)みのKFCのカーネル・サンダースさんは65歳で会社を興しました。65歳まで〈きっかけ〉は訪れなかったのです。
世界の多くの学校で16~18歳の年代は義務教育ではありません。そのお陰で、ソフトバンクの孫正義社長のように、16歳で単身アメリカへ行き、語学学校に入り、猛勉強をして、16歳のうちに大学に入学することもできた訳です。稀有(けう)な人物だと思いますが、同じように日本の高校へ進学しない人も実は多くいます。皆の16歳という年齢はそれだけの価値のある、それだけの選択肢のある年齢なのです。
大阪学院の3年間の中で、「どうして学校に通っているのだろう、、、」と、きっと迷いも生じることがあるだろうし、「もっと違った生き方もあったんじゃないだろうか、、、」と、鬱屈(うっくつ)した気持ちになることもあると思います。
けれども、中学3年の15歳の時の決断は、きっと大きな意味があったはずです。今までの自分の人生で最大の決断だったに違いありません。公立高校に合格しなかったとか、軽い気持ちで決めたとか、いろいろな理由はあると思いますが、少なくとも海外へ出ようとはしなかった。「国内に残る理由は何だったのか」、今は無自覚でもいずれ鮮明になってくると思います。それまでは今、できることを一生懸命に取り組むより他にありません。選択したのは自分自身なので、この先の人生に責任を持つのは、自分以外にあり得ないからです。この先はもう親の義務ではなく、自分の権利なのです。親の援助をお願いして進む自分の道なのです。これで答えになったでしょうか?
③について。
現状のように、入学式も始業式も経ずに、オンライン授業になってしまうと、学校への帰属意識がおぼろげになってしまいますね。「あれれ?本当に学校は必要なのか?」という疑問が生じてしまうのはやむを得ないと思います。こういうことを言うと叱られそうですが、学校の本質は、授業を受けることではなく、アイディアを交換することにあるからです。本当ならリアルタイムで質問したり、友だちの意見を尋ねてみたりするのが良いのですが、今の体制では、たとえメールで合ったもどうしても時差が生じてしまうので、「もやもや」感が残ってしまいます。これは、学校の本当の姿ではありません。友だちと繋(つな)がることができていればまた違った展開ができるのですが、今はまだ十分ではないのが申し訳ない限りです。勉強するには友だちが必要です。同じ方向の未来を見て一緒にがんばれる友だちです。学校の存在意義はそこにあると先生は思っています。
この質問では、ひょっとしたら〈学校の存在そのもの〉を対象にしているのかもしれないので、その点についても話しておきましょう。
「なぜ、毎朝早起きして学校に行って、6コマも授業を受けて部活動をして、家に帰っては宿題をして、疲れて眠るという繰り返しをし続けなくてはいけないのか?」という問いだとしたら、きっとそれは学校に行く目的を失っているからだと思います。何をするために学校に行くのか解らない時は、「どうして毎日行かなくちゃならんのだ!(; ・`д・´)」となるのはもっともです。例えば、学校へ行く目的が、テストで高得点を取るためだとか、叱られないためだとかだとしたら、一日の大半を過ごす学校は苦痛な場所だと思います。その人たちは、きっと勘違いしていて、考え方の順番が逆さまなのです。学校に行って、将来の目標を探したり、勉強の意味を考えたりするのではないのです。学校はそういう風に活用するものではない。
まず〈自分のしたいこと〉、〈今の自分ひとりではできないこと〉、〈多くの友だちを必要とすること〉をはっきりさせるのです。この大風呂敷の夢は、大きければ大きいほど良いです。その分、学校で学ぶ意味も見つかるからです。
例えば ― 先生はドラマ「JIN 仁」を見て医学に少し夢中なのでその例えでいうと ―、「江戸時代へタイムリープしたとしてもその当時のもので代用できる医術とサバイバル術を身に付けたい」と大風呂敷を広げたとします。あくまで一例です。
これは、今の自分ひとりではどうにもなりませんね。なので、どういう手順で学べばより理解が深まり、技術も身に付くのか、先達(せんだつ)に尋ねないといけません。
OK!と軽く請け負ってくれる大人は少ないですが、どういう学び方をすればよいのかは一緒に考えてくれると思います。(先生ならそうします)その上で、高校で勉強する内容は、その夢とどのように繋(つな)がっていくのかを自分でつながりを見つけるようにするのです。見つからなければまた先生に訊ねること。そのために、学校には〈先生〉がいるのです。先生というよりも〈コーチ〉ですね。〈導く人〉です。もし「何、馬鹿なことを考えているんだ、つべこべ言わずに勉強しろ」という人がいれば、〈導く人〉ではないので、ついていく必要がありません。
〈導く人〉は自分の限界を知っていて、広い世界を知っています。自分の知識や理解が及ばない時に、他の可能性を見出そうと努力して、他の人を信頼できる人です。
②にも⑤にも関連しますが、残念なことに、テストや結果だけを重視する人もいます。そもそも学校は検査場ではありません。一緒に成長していく場所です。だからもし試験があったとしても、どういう弱点が自分にあるのかだけを確かめれば良いと思いますよ。何も深刻に捉える必要はありません。特に平均点やクラス順位などは何の意味もないと先生は思っています。自分の夢と他の人の夢を同じ尺度のテストで測ったところで何の意味があるのか、さっぱり解りません。
ただそういう固定観念に縛られた人がいるのは事実なので、対策も授けることができます。試験には必ず癖があります。作成する人の意図、〈何を試そうとしているのか〉という点を見極めると、テストというのはそれほど恐れるものでもありません。
大学入試となると、その傾向は明らかになります。皆さんがそれをあまり感じられないという場合は、基礎的な知識の詰め込みばかりを強いる試験を受けてきたからだと思います。基礎はもちろん重要ですが、その先にあるものを示さないテストは重要ではありません。きっと驚くと思いますが、大学入試問題というのは〈その狙い〉が大学ごとにはっきりしていて、自分に合う試験問題というものに出会うことができます。そうなると、勉強はかなり面白くなってくる。
例えば、早稲田大学と言えば難関大学として知られますが、2018年度にはこういう入試問題を出題しています。
”じゃんけんの選択肢「グー」「チョキ」「パー」に、「キュー」という選択肢も加えた新しいゲームを考案しなさい。解答は、新ゲームの目的およびルールを説明するとともに、その新ゲームの魅力あるいは難点も含めて、601字以上1000字以内で論じなさい。”
質問①で「なぜ勉強しなくてはいけないのか?」と複数の人が同じ質問をしていました。理由は簡単です。人生を愉快に楽しもうとすると、いろいろ調べることを繰り返していく羽目(はめ)になってしまうからです。先生もそうです。知らないことを知るのは驚きがあるし、調べていく中で考えさせられることもあります。試験のための攻略ゲームのような勉強はそれほど興奮しませんが、サーッと視界が広くなっていくような読書による勉強?(あまり勉強という捉え方はしていませんが)は夢中になりますよ。お陰で1年で300冊は読書するような生活を送っています。世の中には賢者が多い。自分はまだまだだなあと思い知らされます。でも、それが生きる意欲となっているのも確かです。
ゲームのストリートファイターⅡのキャッチコピーで「俺より強い奴に会いに行く」というのがありましたが、それに近いものがあります。どれほど背中を追いかけても追いつけない人たちがたくさんいますが、何も張り合う必要もない。自分の立ち位置でできることをそれぞれがしていれば、きっと世の中はもっとより良くなります。先生も何もかもできる訳ではないので、先日の動画、「配信動画の段取り」動画を教え子に作ってもらって教えてもらったり、部活動でも選手に教えてもらったりもします。今も卒業生たちには多く支えらえているという実感があります。どちらかが偉いのではなく、どちらかがダメなのでもありません。空を飛ぶ鳥は海の中を泳がなくても良いし、海の中を泳ぐ魚は空を飛ぼうと願わなくても良いのです。どこまでも広い空や、どこまでも続く海がそこにあります。お互いをリスペクトして、より良い関係を築いていくことが、快適な世界を築くことになるのではないでしょうか?
勉強する意味はそういうところにあると思いますよ。
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