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KokugoNote #24高1国語総合

のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根(たらちね)の母は死にたまふなり
斎藤茂吉(1882-1953) 山形県出身

 作者の視線は「玄鳥」にあります。ツバメは一夫一妻で過ごします。生きている限りは同じ個体と共に過ごします。また営巣する様子を見たことがあると思いますが、一度作った巣に数年後に帰って来るのはよくあることだそうです。ここでは、「玄鳥」(作者夫婦)が、母の危篤(きとく)に際して戻ってきたことが解りますね。

 授業でも強調しましたが、「ふたつ」という表現、そして「足乳根(*「垂乳根の」は母にかかる枕詞〔まくらことば〕)の母」という表現には特に注意が必要です。

 まず「ふたつ」について。
 物を数える時につく接尾語を「助数詞」と呼びます。 https://www.benricho.org/kazu/a_o.html
鳥の場合は、「二羽」と呼ぶのが通例ですが、ここでなぜ「ふたつ」と呼ぶのかというと、幼い子どもの数え方と理解した方が良さそうです。大人なら数の数え方の呼称については的確に使い分けができるものですが、ここで敢えてそうしなかった理由を考えなくてはなりません。茂吉さんは開成中学校から東京帝国大学医科大学に入学し、ドイツ留学もされたお医者さんですが、それらの肩書とは別に、母と子という関係に立ち戻っていることを理解しましょう。
なので、「幼い子ども」はもちろん作者の過去の姿に当たりますが、それが「足乳根の母」(赤ちゃんの時に授乳してくれた母親)の想い出と繋(つな)がっています。

医者である自分にも救えないほど、母ちゃんが死に瀕している中で、実家に帰ってきて、家の梁(はり)に留まっている二羽のツバメを見つけたのでしょう。
ユニークなことに、この短歌は、ツバメの視点から病床(びょうしょう)に臥(ふ)せている母親を眺めているという構図を取っているところです。
また、「死にたまふなり」の「なり」は、*詠嘆(えいたん:~だなあ)の助動詞と解釈できるので、そこでも客観性を持たせている訳です。死に対して向き合う姿勢をどのように捉えるべきか、考えさせられるようにしているのです。主観的に訴えると個人の問題に終始してしまうことがあるので、普遍性を持たせたと言えますね。
(*和歌で用いられる「なり」は断定でないことが多い。古文でも同様です)
 
 詳細は『国語便覧』319頁を。

キーワード:雑誌「アララギ」・「実相観入」・歌集『あらたま』『赤光(しゃっこう)』

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