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2024年4年生ブログNo.24

こんにちは!
本日は4年生ブログ第24弾です!
橋本結人(はしもと ゆいと)くんのブログをお届けします!
それではスタート!

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4年 橋本結人(はしもと ゆいと/DF/市立船橋高校/人間開発学部)


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「人に結ばれる」

2017年12月2日

「長谷川竜也で5点目!川崎は勝ちました。鹿島は勝てませんでした。」
「中村憲剛が泣いています。川崎フロンターレ悲願のJ1初制覇!」

この日、川崎フロンターレは劇的な逆転優勝でJ1初制覇を成し遂げた。

そして運良くボールボーイとして僕は、この歴史的な瞬間に立ち会った。

鳥肌なんて言葉では言い表せないほどの震え。
日本で最もサッカーが上手く、美しいサッカーをする選手たちが泣き崩れるほど感情を露わにし、中村憲剛さんに向かって選手全員が駆け寄った。

あの瞬間のスタジアムの雰囲気、ファンの方々の涙や笑顔。
一生忘れることのない経験をし、その光景のすべてを目に焼き付けた。

“ここに立ちたい。”

僕はこの日、プロサッカー選手になるという夢を明確にした。

という感じのヤツが書くブログです。
どうぞよろしくお願いします。

自己紹介が遅れました。
平素より大変お世話になっております。國學院大學蹴球部4年の橋本結人と申します。
性格上、自分語りは得意ではありませんが、約18年間のサッカー人生を文字に起こすこのチャンスを逃すことなく、Iリーグ最終戦のタカくん(3年・東京V)のように確実に決め切りたいと思います。

まずは突拍子もなく、夢のきっかけについて話してみました。だからなんだ、という感じではありますが、初手で読者の心をグッと惹き付けることに成功したと思います。

また私にはブログと卒論という2つのタスクが課せられており、現時点でともに白紙の状況です。卒業がかかる重要な卒論よりも先にブログに取り掛かる、この選択は果たして吉と出るか凶と出るか、迫り来る恐怖で夜も眠れません。
(余談ですが先日、後期唯一の授業を大寝坊で飛ばしました。睡眠状態は良好です。)

【要旨】
 2000年代までは、ほとんどのスポーツ中継がテレビによって放送されてきた。しかし、近年では有料コンテンツの誕生により、スポーツ中継の形に変化が起きている。そこで本研究では、、

ブログに卒論を書くというブログ史上初のボケをしてみました。
やっては見たもののあまりピンと来るボケではありません。
焦りから来る行動はやはり怖いものです。

一旦、ふざけるのはここまでにして本題に入りたいと思います。

僕はこのブログを通して、
玉造くんのように何かを伝えたり、鷹取くんのように感動させる文章を書いたりなどと大層なブログを書くことはできません。
自分なりに率直な想いを書いてみようと思います。

またTWICEがこのブログを読む可能性があると思うと少し緊張します。思い切って韓国語で書いてみようとトライしましたが、断念しました。翻訳機能を活用してもらおうと思います。

それでは、引退ブログの書き方~入門編~14頁(本題への入り方)に記されていた言葉に従って進めていきたいと思います。

「拙い文章ではありますが、読んでいただけると幸いです。」

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約束の時間が訪れようとしている。

人生のすべてを注いできたサッカーとの別れが近づく。

良いサッカー人生だった。とは、お世辞にも言えない。
この18年、サッカー人生の大半は苦しく、辛い経験ばかりだった。
嬉しく、楽しかった経験など片手で数えられる程度だと思う。

ブログ冒頭で書いたあまりにも強い経験から、サッカー選手という職業に強く惹かれた。
何万人もの観客がたった一人のプレーに注目し、熱狂する。
好きな選手のユニフォームを身に纏い、スタジアムに足を運ぶファンの姿。

そんな夢のような光景を夢見て、「いつかは自分が」とただがむしゃらに、走り続けた。

サッカーが無くなる。
そんな実感は大学4年11月現在、全く湧いていない。

サッカーは幼稚園で物置のシャッターと正門をゴールに見立てたなんちゃってサッカーが始まりだった。当時はシャッターを壊したり、門の外にボールを出して幾度となく怒られた記憶がある。
先生があまりにも怖く、この頃から、怒られない為にはどうすれば良いか、を考えるようになった。結果、現在周りからはズルいやつと言われることが多い。(褒め言葉であると認識しています。)

小学生に上がると、ミキFCという川崎市の少年団チームに入った。過去最強の代と言われるほど上手い選手が集まり、市大会や県大会ではかなりの成績を残した。
ジュニア最大の大会、全日には車の渋滞でピッチに立つことすらできなかったことだけは悔やまれるが、それでもゴールを決めること、アシストをすることへの快感からサッカーに没頭していた。

当時は近くに住む天才くんの次にサッカーが上手いと思い込み、卒業作文ではワールドカップで優勝すると意気込んでいた。チームではいわゆる王様サッカーを展開し、周りに文句を言いまくり、好き勝手にプレーをしていた。
人のせいにすんな、と何度父に怒られ、風呂場で説教を食らったか。そして何度その説教の標的を弟になすりつけたか。あの時はごめんな弟。

そしてそんなガキに喝を入れ、見捨てずに育ててくれた青木コーチ。
感謝しかありません。
ありがとうございました。

そこから中学では、通っていた川崎フロンターレスクールの内部セレクションを経て、川崎フロンターレジュニアユースに入った。

(余談だが、守屋君とはこのスクールで初めて出会った。現在の丸坊主クレイジーからは想像もつかないほどに、素直で可愛い少年だった。空白の6年で一体何があったのか、僕には皆目見当もつかない。)

小学生時代から、フロンターレジュニアの技術の高さには常に驚かされていた。彼らと試合をすれば、ボールを奪うどころか触ることもできない、ジュニア時代の彼らは本物のバケモンだった。

当然、そのバケモノ集団のなかに加わることは容易ではなかった。

今まで自分がやってきたサッカーがまるで通用せず、苦しみ、落ち込んで帰る日々の連続だった。しまいには、帰り道が一緒だった内海君、松森君、戸水君からサッカーについてボロカスに言われた。
戸水君は比較的優しかったが、この2人は僕に追い打ちをかけるかのように、、(あの時は一緒に帰りたくなかったときも、、でもそのおかげでメンタルが強くなった気がしています。ありがとう。)

毎日の練習で現実を突きつけられるかのようなプレーの連続、どうすれば試合に出ることができるかを常に考え、バケモン集団のなかで必死に食らいついた。

そんな環境の中で試行錯誤を繰り返しながら3年間を過ごしたことで、今のサッカー観や技術の基礎を身に付けることができたと思う。

素晴らしいスタッフや同期、今振り返ってもあまりにも恵まれ過ぎている環境のなかでプレーできたこと、心身共に成長させてもらったことに心から感謝しています。

(川崎そだちさん、大学の試合までチェックしていただきありがとうございました。)

結局、満足に試合に出ることはできず、夏の面談で不合格を告げられ、その日の夜は家の階段で大泣きした。
初めて味わった挫折、この日が人生で一番悔しかった。

(高校までは軽く書いて大学生活の話に行く戦略だったのに、、高校こそはサクッと行きます。)

高校では、市立船橋高校に入学した、という入学してしまった。の方が近いか。

当時、ユースに上がれないことが分かった時点で既にフロンターレユースよりも上のリーグに行くと決めていた。そのため、候補は青森山田、市船の二択だった。

今考えると、どちらに入学をしても地獄であることに変わりはなかった。

この3年、とにかく辛かった記憶しかない。

入学直後、見張り役の2年生と共に学校で1週間の合宿をした。(ほぼ監禁。)
朝は5時か6時に起床し、全員がタイムに入るまで終わらない走りを永遠に。
タイムに毎度のように入れない2人のキーパーのことはこの期間においては大嫌いだった。

(タイムに入れる為に全力でゴールラインに投げ飛ばしたせいで、その先の壁に何度も激突。あれはやり過ぎか。でもあれやんないとご飯食べられなかったから仕方ないよね。許して、そうまと天川。)

次にきつかったのは、何を隠そう“ナツガ”。
灼熱の田舎に5日間、隔離される夏の合宿、通称“ナツガ”。
22年間生きてきたなかで最も長くてきつい5日間だったと思う。

練習は朝昼夕の3部練。
朝は学年対抗の紅白戦で、1位は朝食準備、2位と3位は走りがルールである。
1年生は4時に起床し、グラウンド作りから始まる。
1年生はグラウンド作りのせいで6時のキックオフには間に合わず、アップ0で挑む為、勿論ボロボロ。
試合で走らされ、罰で走らされた。

しかし、1度だけ、1年生が1位になる大事件が起きた。
本来なら1位で嬉しいはずなのに、、なぜか恐怖が勝った。
1年生は走らず、2. 3年生が走る。
あり得ない事態。

「俺が1年だったら、率先して走るけどなー」
という先輩の声。

「嘘つくなよ」
という本音を心にグッと留め、逃げるように宿舎に帰った。
怖かった。

昼と夕方の練習では、対人と走り。のみ。
永遠にこれだけをやった。
練習終わりには毎回、イチロクと8キロ走。
イチロクは絶対100本は走った。
5日間で100キロは走った。

水も飲めないし、
風呂も入れないし、
洗濯機ないから手洗いだし、
服乾かないし、
炊飯器がゴジータとかベジータとか言われてるし、
飯で小部屋に呼ばれたら終わりだし、
宿舎からグランドの坂道の間で食べた分ほとんど吐くけど、
それも今では良い思い出、と消化できるほど簡単ではない思い出。

(誰かが合宿中止させる為に、クマが出たって大騒ぎしたけどその後、普通に練習があった時は流石に絶望した。クマ出ても練習あるんだ、って。) 

こんなにきつくて辛い練習ばかりの連続だったけど、
結局1番きつかったのは、試合に出られなかったこと。

朝は5時に起きて2時間かけて学校に行く。
練習が終わるのは21時、夜は23時に帰り、家には睡眠をとりに帰るだけの生活を3年間。
この生活に合わせて親も朝早く起きて弁当や補食の準備をしてくれたり、公式戦の日には千葉まで応援に来てくれたりと親に負担をかけていることを高校生ながらに感じていた。
にも関わらず、試合にも出れない、何も返せない自分の不甲斐なさに腹が立った。
不貞腐れる自分に気を遣いながらも話しかけてくれることが苦しかった。

最後の選手権、全国の舞台で躍動する同期をみて悔しさが溢れてきた。

もっとやれることがあったかもしれない、もっと努力していれば、
今更、タラレバを並べたところで結果が変わる訳ではない。
書いていて嫌になるほど、悔しいという感情しか出てこない。

決して満足のいく3年間では無かった。
入学したことが正解だったのかも分からないし、むしろ間違いだったと思う部分の方が今は大きい。でもこの先も間違いだったと思いながら生きていくことは何だか自分の癪に障る。

誰かの言葉を借りるなら
この先の人生において”あの時の選択は正解だった”と胸を張って言えるようにしたい。

今後の社会人橋本に期待してみよう。

(結局長々と書いてしまいました。やっと大学編に入ります。小中高と順を追って書くというありきたりな文章構成になってしまい、人と違う言動することが生きがいの僕にはあるまじき失態であると感じています。続けます。)

高校サッカーを引退後、休む暇もなく、大学へ練習参加をした。

最初の記憶は響やたくま、眞方が練習に参加しており、特に当時は眞方のキャノンキックに驚いた記憶がある。現在でも彼は変わらず僕に驚きを与えてくれている。
(尚、現在は驚きの対象が、キャノンキックからイーフトへの膨大な課金額に変更されている。)

そして、大谷戸FCの怪物、笠本くんと小学生以来の再会を果たしたことが非常に嬉しかった。身長180cm体重80kg(※ガチ)の小学生は全国探しても彼しかいない。

(余談ではあるが、最近彼は一個下の後輩に"ビショビショ"と言われ、ひどく落ち込んでいた。)

1年目。
試合に出た記憶がほとんどない。
やっと出れたと思ったら前半で交代させられるし、
チャンス来たと思ったらまた前半で交代だし、
初めてフル出場した時は、ニューカッスルのSBみたいな2mのFWと空中戦するだけ。

それなのに、夏の練習は馬鹿みたいにきつかった。

当時はよく分からない学生コーチに鬼のように走らされ、
ショルダーくんは四つ角のコーンを蹴って、たまプラーザ駅まで飛ばすし、
茅野(23卒)は、走りながら同期であるコーチの悪口ばかり言う。
(この人の影響で、鎌田と僕が悪口キャラになったと言っても過言ではない。)

でも大学の練習はもっと緩いと思っていたので結果としては良かった。

そんなこんな、紆余曲折ありながらもチームは運良く、國大初のリーグ昇格をしたが、素直には喜べなかった。

2年目。
何故だか、試合に出た記憶がもっとない。

1部に上がったから頑張ろう。そう思っていた。
しかし、なかなか試合に絡むことはできなかった。
加えてチームも年間を通してほとんど勝つことができず、あっけなく最下位で降格した。
思い返してみると試合や練習時、チームや個人のベクトルは常に外を向き、勝てるチームではなかった。

この年は、サッカーがいちばんつまらなかったと感じてしまった年だった。その原因は勿論自分自身にあることを自覚している。

因みに、僕はこの年を「空白の1年(ブランクのワンイヤー)」と呼んでいる。
個人的には劇場版名探偵コナンのサブタイトルにありそうで気に入っている。

3年目。
よく分からない数の連勝を重ねて自力でリーグ昇格を勝ち取った。

シーズン序盤、土砂降りの関東リーグに数分間出場し、教育実習の為、チームを離れた。

教育実習について詳細は割愛するが端的に言うと、
人が1日にこなせる仕事量では無かった。(坂巻くん大竹くん、健闘を祈ります。)

シーズン終盤の昇格戦、最高の試合になった。
アウェイで相手の応援に圧倒されていたなかで國大のバスが遅れて登場した。あのときの嬉しさや安心感は今でも覚えているし、試合前の自分に力を与えてくれた。
(今年はBのために最後、声を枯らしたい。)

試合中は味方の声が聞こえないほど大きな応援、何故か応援中にピラミッドが形成され、恐らくボス(24卒・岡田)の指示で森次くんは裸になりながら、全員が必死に応援してくれていた。その姿に試合中ながら感動していたが、隣をふと見ると、ショルダーくんが既に泣いていたのが目に入り、スッと涙がひいてしまった。

そんな素晴らしい環境の中で試合に勝てたこと、小山と三好と秀、宇を勝って送り出せたこと、全員でwe are 國大を歌えたこと、全てが嬉しかった。ここで終わってもいいと本気で思ってしまった自分もいた。

(あれ、なんでまだ宇いるの?あ、後輩か。勘違いしたごめん。)

4年目。
不慣れなことばかりに挑戦した。

試合中は左腕に赤いのを巻いてみたり、
練習を盛り上げる為に声を出してみたり、
後輩に声をかけてみたり、
(央祐は自分から長文ラインの相談を送ってきたから半笑いで返信してやった)
ミーティングや円陣で語ってみたり、
(人が真剣に語ってるのにクスクスしてる奴らもいたけど)

今まで三好についていくだけ、三好の有難い言葉を聞くだけで良かったのに、、
責任を負いたくない自分としては正直イヤだった。
しかし、そんな個人的な意見を聞き入れてくれるコーチではないことも重々理解していた。
CP宣告された際、コーチには変わらずやれと言われたが、いざやってみるとそんなことは無理だった。試合に負ける度に嫌でも責任を感じるし、自分はこれを巻いているから出れていると常々感じていた。

ある時から、チームが勝つ為にはどうすれば良いかを考え始めるようになり、自分のプレーは二の次になっていた。
(二の次にしすぎて散々なことになってしまったけど)

元々はチームに対してどこか他人事で、自分のことだけを考えてプレーしていたのに、
いつの間にかチームや仲間のためにプレーをしていた自分がいることに自分自身でも驚いた。

だからこそシーズン終盤、多くのチャンスを逃してしまったことが悔やまれる。
自分にチームを勝たせる力は持ち合わせていないが、他に何かやれることがあったのでは、と最終節を終えた今、感じている。

ただ辛うじて最後のチャンスが残されている。

またか、と思いつつもせめて最後は笑って終わりたい。終わりよければナントカ。

恐らく最後も、ミーティングでまとまったことは言えないだろうし、円陣でも言葉を噛むと思うけど、
どんな形であれ、チームの勝利の為に最善を尽くしたい。

バンギに、スピード落とせ!
加来に、ここに立て!
佳心に、ゴール!
陸玖に、そっちじゃない!
介基に、シャペウするな!
二神に、蹴るな!
悠斗に、早く戻れ!

央祐、アップお願い!

と言えるのもあと1試合。頑張ります。

大学で部活。
入ることに迷いはなかった。そして最大の目標はプロになることだった。
高校では叶えることのできなかった目標を、大学では必ず達成してやろうという想いをもって入部をした。

入部から4年が経った現在、結果はどうだろうか。

プロになることは愚か、関東リーグに出場することすらできなかった。そして当たり前のように社会の流れに沿って就活を始め、なんとなく内定を貰った。

4年前はプロになると意気込んでいたやつが現実を知り、あたかも最初からプロには興味がなかったかのように振る舞った。

自分の可能性を信じ、卒業後もサッカーができる環境を探せばいいのに、
大学卒業後は社会人になるという当たり前のレールから外れることに怖気付いた。
口ではプロになりたいと言いつつも、自分に自信や実力がないことは自分が最も理解していた。

4年の就活時期、よくこんなことを考えていた。

「大学サッカーをすることに意味はあったのか」
「プロサッカー選手という夢に人生を懸けてよかったのか」

大学で部活に入らなければ、友達と遊ぶ、海外に行く、TWICEに貢ぐ、もっと違うことに時間を使うことができたかもしれない。

プロサッカー選手という目標に囚われなければ、勉強に没頭する、違うスポーツに触れてみる、様々な選択肢の中から新たな道に出会えていたかもしれない。

大好きなサッカーを継続してきた。
この事実は誇らしく、紛れもなく正解の道であることを信じて疑わなかった。しかし、ここに来て、自分の人生の軸として選んだものが正しかったのか分からなくなった。

社会人になれば、これまでのサッカーの経歴や成績、サッカーにかけてきた時間はなんの意味も持たなくなる。自分が得意としてきたものが無くなり、全く関係のない世界に飛び込んでいく。
サッカーが自分の存在意義であり、すべてだった。
何年も追い続けてきたものが無くなる恐怖を感じた。

"サッカーに出会わなければ"

悔しいがそう思ってしまうこともあった。

そんな恐怖を抱えながら就活を終え、またサッカーだけの生活に戻った。
就活から解放された部活は、ただボールを蹴るだけで楽しかった。
サッカーを始めた頃と同じような気持ちになった。

試合前日に緊張したり、
勝って喜び、負けたら悔しさで眠れなくなったり、
グラウンドに行けば仲間がいてバカ話をしたり、
永遠にフリーキックの練習をしたり、

今まで通り、当たり前の日常に戻ってみて感じた。

サッカー続けてきて良かった、と。

サッカーに出会っていなければ、こんなに最高な仲間に出会うことはできなかった。
サッカーに出会わず、ただバイトに明け暮れ、眠らない街渋谷で友達と飲む。
こんな人生も多分楽しいんだろう。

でも良いパスを通して、良いシュートを決めた時の快感やゴールを決めて仲間と喜ぶあの感情は、サッカーをやっていなければ味わうことはできなかった。

なんで走んだよ、って愚痴りながら全員で死ぬまで走りきったあの苦しさと達成感は他では感じることはできなかった。

友達のSNSには旅行や飲み会など楽しそうな写真が上がっているなかで、僕たちは週6日の部活。
傍からみたら理解されないことかもしれない。
それでもきつい練習を毎日やる理由は、勝ちたいから、最高の週末を迎えたいから。
飲み会とか旅行とかそんなことでは、到底味わうことのできないあの喜びを感じたいから。
歌って、叫んで、泣いて、抱きあう、同じ想いを持った仲間と最高の雰囲気を味わいたいから。

サッカー選手になれないならサッカーをする意味はない、そう思っていた。しかし現在もこうしてサッカーに明け暮れている。
サッカーを続ける意味は、サッカー選手になりたいという理由以上にこの仲間、同期とサッカーをやりたかったからなのだと思う。
勿論、結果論であり綺麗事であることは百も承知。
そのうえで、サッカーに出会っていなければ、國大蹴球部に入っていなければ、この最高に熱い仲間と出会い、共に戦うことはできなかった。

この仲間に出会えたこと、
この國大史上最強の代を同期に持てたこと、

これが僕の誇りであり、一生の財産になることを確信している。

心の底から思う、
サッカーに出会うことができて良かった。

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こんなことを思っている僕なので、同期に対する感謝は人一倍あります。
(こんなキャラで同期愛強いのギャップでしかなくて好感度上がりすぎないか心配。)

同期のみんなありがとう。

僕は自分がこんなに他人を好きになること、誰かのために何かをしたいと本気で思うことは初めてでした。みんなの存在が僕の心の支えであり、頑張れる理由のひとつでした。
最後、同期が全員最高の形で終われることを願っているし、その為に声を枯らしたいです。
(このブログが出ている頃には結果が分かっていると思うので、一か八か書いてみます。
関東リーグ3部優勝、Iリーグ1部昇格おめでとう!)

特に、
なにわ男子にいそうなのに芸人アインシュタインにもいそうな聖、
結局国籍はどこで地毛は何色なのか分からない昌也、
肩が尖り過ぎて電車で座ると隣の人をケガさせる鎌田、
ユニフォームが小さすぎるという理由でアップができなかった笠本、
さすがに神様から180㎝は与えてもらえなかった麻生、
週1バイト(締め作業のみ)でバイト先の大黒柱と豪語する田中、
髪の毛の中から飴を出して試合中に糖分補給する成田、
年中焦げ散らかしている人間拡声器玉造。

あなたたちのおかげで大学生活がより楽しいものになりました。
本当にありがとう。
先日、笠本が「40歳になったら一人で寂しく暮らしているんだろうなぁ」と言っていました。
定期的に連絡を取り合いましょう。

関係ないけど、剛琉。
頑張りすぎずに頑張れ。応援しています。

全員の名前を書ききれなかったので、名前がないことにもし落ち込んでいる人がいたら顔を上げてください。
僕は全体を一歩引いた状態で観察することに長けています。
その能力を存分に発揮し、卒業までみんなともっと思い出を作っていこうと思います。
学年会まだまだ行きましょう。

神奈川県日本酒警察署長より

中山さん、白須さん、4年間お世話になりました。関東リーグ、Iリーグ関係なくピッチの外から時には選手よりも熱く戦う姿を見せていただきました。試合後にはいつも声をかけていただき、勝手ながらに愛を感じました。関係ない話ですが、アウェイの時に持ってくる赤い椅子があると思うのですが、ハーフタイムで中山さんがいない時たまに座っていました。すみません。最後の入れ替え戦頑張るので、見ていてください。

塩田コーチ、おそらくコーチと呼んだことは一回もないと思います。これからも呼びません。岡田君の影響で、少しいじり過ぎてしまったかなと反省していますが、引退してからも仲良くしてください。三茶の行きつけに連れて行ってください。
もっと早く國大に来てほしかったです。
生意気な自分と関わってくれてありがとうございました。
あと、尊敬しています。(さすがに無理あるかー)

正樹くん、まずは4年間ありがとうございました。
初の1部リーグを共に戦いましたね。全然試合に使ってくれなくて、間違った態度や行動をとってしまった気がしています。あの時はすみませんでした。
最終節の日体戦後、試合に使わなくて申し訳ないと言われ、ほんとにそうだよと心の中で思っていましたが、今年自分が試合に出てこの順位。正樹くんの判断は間違っていなかったと思います。
最後、プレーオフ勝って、思いっきり泣いてください。
4年間お世話になりました!

松くん、松川コーチ、松、隼也コーチ、としちゃん
結局呼び方が定まっていませんが、まずは4年間ありがとうございました。
すぐ走らせるし、すぐ練習中止させるし、すぐ人の嫌なところを指摘するけど、サッカーに対する姿勢や戦術眼は尊敬せざるを得ないです。松くんに指導してもらったおかげで、アイデアの幅や相手を見て柔軟に対応する思考を身に付けられたと思います。

生意気言ったり、反抗したり、LINEでタメ口使って怒られたり、謝罪しないといけないことはまだまだありますがキリがないのでやめておきます。
全試合に出て残留できなかったことに責任を感じています。
優勝争いと残留争いという難しいメンタルのなかだとは思いますが、入れ替え戦は死ぬまで戦うので最後までよろしくお願いします。
4年間お世話になりました。

両親。
幼稚園から大学まで何不自由なく、サッカーを続けさせてくれてありがとうございました。進学やサッカーをやるにあたって、金銭面や送迎などで多くの迷惑をかけてしまったと思います。その恩返しをサッカー選手になること、多くの試合に出ている姿を見せることで返せればと考えていましたが、申し訳ない気持ちで一杯です。

これからは社会人として、少しずつではありますが親孝行をしていこうと考えています。とは言え、現段階では実家から出る予定はないので、もう少しお世話になります。

弟。
もしこのブログを見ているなら、恥ずかしいのですぐに閉じて下さい。

"スポーツは弟の方が上手くなる"

僕はこの言葉を覆すべく頑張ってきた部分もありましたが、結局この言葉通りになってしまいました。

君がどんな人生を歩みたいのか分からないけど、大学4年間はあっという間です。
何をするにも全力でやることをオススメします。
来年からお金が欲しかったら少しはあげられると思います。
好きなことをやってください。
本気で目指してみるのも良いと思います。
応援しています。

後輩の皆さん

仲間を応援し、仲間から応援される最高にかっこいい集団になってください。
昨日の中院戦、後輩のみんなが飛び跳ねて死ぬほど声を出していた姿に感動しました。
自分の代が来てからでもいい。
目の前で戦う仲間の為に何かをしたいと感じた時は、声が枯れるまで全力で応援してあげてください。
関東リーグだから、Iリーグだから、関係ない。
目の前で戦う仲間の次の一歩、あと一歩の為に、力を与えられる最高なチームを創り上げてください。
応援しています。

(国際武道と中院戦後、熱くなって電車のなかでこの文章を追加しました。)

最後にこのブログのタイトルにある

「人に結ばれる」

これは僕の名前の由来のひとつ。
結人。
人と人を結ぶ、良い人に結ばれる、そんな意味が込められている。多分。(違っていたらすみません。)

そんな僕の唯一の才能、
それは良い友達や仲間に結ばれる能力。
この才能だけには大いなる自信を持っている。

才能はよく神様から与えられるものと言われるけど僕の場合は、才能を父と母から与えてもらった。

この才能のおかげで、大学ではアツすぎる最高の仲間に結ばれることができ、かけがえのない4年間を手に入れることができた。

この名前を僕につけてくれたこと、素敵な想いを込めてくれたことに感謝しています。
ありがとう。

良い人たちばかりに結ばれた最高のサッカー人生でした。

長くなりすぎたので、この辺にしておこうと思います。

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引退まであと少しだというのに、今日は何故か自分たちだけで練習をしました。これも後々、振り返った時に良い思い出だったと言えるように最後まで頑張ろう。悔いの残らないようにやりきります。
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終わり方が分からないので、いつものやつで締めようと思います。

自分に関わっていただいた全ての方々に感謝します。

「終わります、せーの、👏。っした!」


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以上、結人くんのブログでした!

結人くんは、誰よりも早くグラウンドに来て練習に励む努力家です。その真摯な姿勢は、たとえ試合に出られない時期があっても、決して腐ることなく努力を重ねてきました。その姿は周囲の選手たちを奮い立たせ、U-22Aの顔と言える存在です。

普段はクールな印象が強い結人くんですが、私の身長をいじったり、時には一言多い冗談を言ったりする場面もあります(笑)しかし、そんな親しみやすい一面も結人くんの魅力のひとつです。

試合では、ピッチに立つ選手たちに対して的確なアドバイスを送り、声を出し続けてチームを鼓舞する頼もしい方です。部活外でも後輩に試合の動画を送り、アドバイスをしているだとか。また、試合後にある選手たちと飲みに行った際にはU-22Aに対する思いが強すぎて、とても熱い話をされたそうです。
結人くんは常に仲間やチームの勝利を第一に考えて行動をしています。

特に印象的だったのは先日のU-22Bの中央学院戦です。試合中、応援席からピッチに立つ仲間に向けて熱い声をかけ続け、ピッチ内外関わらず選手を支えていた姿が忘れられません。結人くんのリーダーシップや熱意がチーム全体に広がり、選手たちの士気を大きく高めていました。

結人くんの努力を惜しまない姿勢は、これから先も多くの人々を魅了することと思います。
この先の結人くんが選ぶ道が素晴らしいものとなりますよう、心から願っております!


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最後までご覧いただきありがとうございました!
次回もお楽しみに!

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