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100分の1の倫理(4)因果原則から予防原則へ

 因果関係を決める気がないならば、因果関係がはっきりしてから対策を考えるという因果原則は,完全な欺瞞に過ぎません。科学的証拠は所詮確率事象に過ぎず,原因は主観的に特定しない限り示せないのです。

 したがって,人類にとって未知のものを導入するときには,因果関係を特定することが困難なので、因果原則ではない方法が必要になります。その有力な手段が予防原則です。 

 予防原則は,環境問題や遺伝子技術など,人類に対する未知のリスクについて、科学的因果関係が不明の段階でも,将来の予測されるリスクを前提に何らかの対策を取るべきという考え方です。それは、科学的な証拠が出てから対応するのでは,手遅れになってしまう恐れが大きいからです。

 予防原則については様々な定義がありますが,その中でも1992年のリオの国連地球サミットで採択された原則15が有名です。

 「原則15 環境を防御するため、各国はその能力に応じて、予防的取組を広く講じなければならない。重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがあるところでは、十分な科学的確実性がないことを、環境悪化を防ぐ費用対効果の高い対策を引き延ばす理由にしてはならない。」

 これを新型コロナワクチンの事例に適用して解釈すれば,遺伝子ワクチンについては,「重大あるいは取り返しのつかない損害の恐れがある」ため,「十分な科学的確実性がないことを」理由に,「対策を引き延ばしてはならない」ということになります。

 予防原則は,科学的証拠が十分にない場合に適用されるわけですから,現在のワクチンをめぐる議論のように,科学的証拠がないからリスクはないなどという暴論は認められません。理論的(演繹的)に考えられ得るひとつひとつのリスクの可能性を丁寧に検討することが必要になります。そして、理論的にリスクが高いと考えられるならば,科学的証拠がなくても,その活動を停止すべきという結論になります。

 遺伝子技術は,人類にとって未知のところが大変大きいため,予防原則を適用すべき最も重要な対象の一つとされています。しかし、それが、人体に直接注入する遺伝子ワクチンに適用されないのは,いったいどういうことでしょうか。それが許される場合は、ただ一つ,新型コロナウイルスがよほど危険である場合に限られるべきでしょう。

 ところが,新型コロナウイルスの大変低い致死率を見れば,とてもそのような判断は正当化できないと私は思います。百歩譲っても、この点についての主権者である国民による幅広い議論なしに何も進められないはずですが、現在はその議論そのものが封殺され,ワクチンに関する限り,予防原則は全く考慮されていません。

 一方、予防原則には反作用もあって,すでに発生してしまった事象に対して適用するのは,問題が多い場合が少なくありません。たとえば,福島原発の事故の時は,放射線リスクに対して過度の予防原則が適用されたため,多数の長期の避難民を発生させて,二次被害を拡大させてしまいました。

 したがって,すでに発生してしまっている事象の場合は,予防原則のみを適用することは妥当ではなく,政策の効果を常に検証しながらきめの細かい対応が必要になります。つまり,対策のメリットとデメリットを常に比較して,間違っていたら,速やかに変更する臨機応変の対応が望まれます。

 しかし,日本では,新型コロナウイルスの蔓延という,すでに起こってしまっている事象に対して,マスクや人流抑制など,科学的根拠の乏しい政策に固執し,マスクによる健康被害や人流抑制による経済被害など,非常に大きな二次被害を発生させてしまっています。ワクチンと真逆の状況が生じています。

 このように新型コロナウイルスとワクチンをめぐる政策は,因果原則と予防原則を完全に間違って適用しています。科学的証拠がまだ蓄積されていないワクチンに科学的証拠がないことを理由に安全性を強調し,感染症対策については、科学的証拠を収集できる段階になっても,検証を怠ってウイルスのリスクばかりを強調して,的外れの感染予防対策を行っているのです。

 しかし,この完全な間違いの原因は人間の愚かさにあると思うのは底の浅い見方です。どちらの場合も,確実にシステムの力が強く発揮される方向で作用していることに気づかなければなりません。

 つまり,科学的な証拠や理論とは関係なしに、人間に対するコントロールを強化する方向の政策が採用され、しかも,それを正当化するために誤った方法で意図的に科学を利用しているのです。これが現在の問題の核心です。

 人間に対する管理が強化されればされるほど、人間の尊厳が損なわれることは自明です。このシステムの横暴に対して「100分の1の倫理」で抵抗し、システムのプロトコルを書き換えなければなりません。 


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