見出し画像

【さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ】幼児(28歳)の育ち直し記

読みどきを逸して…なかった!

本には「読みどき」というものがある。と思う。自分の価値観に普遍的なものなんてそうそうなく、どんな名作でも「あの頃に出会えていれば」、あるいは「今の私には合わないな」と思うことは、ままあるものだ。

そんなわけで、この本もタイトルやレビューを見るに「もう私は読みどきを過ぎてしまった気がするな」と、(買ったくせに)何となく読まずにいた。
年末に本の整理を…と思ってつい手に取り、読みどきを逸していなかったことを悟ったところだ。掃除は進みませんでした。

「生きにくさ」モノの白眉

お話の本筋は

愛着と親愛と性愛の区別がつかず、自己肯定感が低いまま大人になったがゆえに「生きにくく」なってしまった作者が、「ふつうにちゃんと生活している人たち」のようになりたくて、レズビアン風俗に行く

というモノ。「生きにくい人」モノの白眉だ。
どこまでも自分を突き放した表現が鋭く、身に覚えのある人をグサグサと貫いてくる。語り口の引力が強く、少しでも油断すると「これは私のことだ!!」と思ってしまいそうになる。

私も性愛と癒しの区別がつかない「人と肌を合わせたい」願望に心当たりがある。
ふと検索し、「風俗って行けちゃうんだ」と知った次の日に世界が広がって見えた経験に既視感がある。
風俗に行くことを決めてから、お金と手間をかけて自分の身体を整えていく流れは、身に覚えがある。

私はいっとき、夢破れて引きこもっていた時期がある。思い出したくもない無駄な時間だったが、この本をあの頃見れば「これは私のことだ」と感じただろう。
作者と同年代の頃は、立ち直りサバイバルを終えたあたりだった。あのころ読めば「この歳になるまで家庭内の承認だけで生きていくつもりだったのか」と腹立たしく思ったかもしれない。
家庭を持ち、フラッシュバックにも慣れてきた今の私にとっては「上手に育てなかった女の子の、セルフ育て直し物語」だ。

肉体への肯定感が自分を支えてくれる

当時、挫折からの立ち直りに際して、私を支えたのは肉体への肯定感だった。これは教科書通りの反抗期を経て家庭の外で形成されたもので、作者の言う「生きていくために必要な甘い蜜」にあたったと思う。
しかし、蜜には賞味期限がある。今は違うものが「甘い蜜」になっているし、これも永遠には続かない。

それでも、「あのときの甘い蜜」の味を覚えているだけでやっていけることもあるだろう。
肉体への肯定感は、そんな一過性の蜜のひとつだ。

母性礼讃の息苦しさ

作者はずっと、親からの承認でしか自分の価値を感じられなかったのだそうだ。でも、生きにくさの裏にあるのは「実在する毒親からの支配」ではない。作中では描かれないが、私は「母性への信仰」に由来するもののように思う。

とくに「(実の)母親にベタベタしたい」「普遍的な母という概念に包まれたい」には危うい怖さを感じたのだ。

母性礼讃における「母親」は、冬虫夏草のセミ部分だ。子供の全てを許して受け入れる、人権も人格もない理想の母親。そんなものはないし、女だからといってそんなものを他人に求められる筋合いはない。

(作中少し語られるが、家庭内暴力の対策として「子供がベタベタと身体に触れてくるときに拒み、辞めさせる」のは、愛着と親愛と性愛の区別をつけるためだ。ここの区別がつかないと、家族と自分を「対等な別の人間」だと理解できなくなってしまうからだ。)

「母親からの無償の愛」を信じる人は、それは生きにくいだろう。無条件に受け入れてもらえる場所を探している限り、無条件に他人を受け入れられない自分に追い詰められ続けるのだから。

作者はその壁を「風俗に行き、お金を払って女の人と性行為をする」ことで越えようとした。

彼女がビアンなのかどうかは…ちょっと分からない。家族との距離感に決着がついたのかも、まだ分からない。分からないまま、お話は「ちょっとだけ歪に育ってしまった大きな子供が、大人として歩き始める」ところで終わる。

この先が楽しみ

正直なところ「コレ系」コンテンツの人は、これっきりになってしまわない?という心配もあったのだけれど、読み終われば余計な杞憂だと思えた。話題になったのがよく分かる。この先の仕事も楽しみにしたい。

全編通しての重々しさは無いので、さらっと読んでも良いと思う。
「風俗に行くためにお母さんにお金を借りる」のくだりなんか「罪悪感はなかった、何故ならこれは必要なことで…」云々と語られるが、客観的にはフツーに最低で面白いです。


投稿日 2018.01.17
ブックレビューサイトシミルボン(2023年10月に閉鎖)に投稿したレビューの転載です

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?