ロボットが人型である理由
イメージがイノベーションを生む。だからイマジネーションを大切にするべきだ。その言葉じたいにはまるで異論はない。しかし、イメージがイノベーションを阻害しているケースも往々にしてあるように思う。
そのなかの一つが「ヒト型のロボット」だ。
ロボットがヒト型である理由はない。これは、どこをどう見てもマジでない。大勢の人がロボットと聞いて人型をイメージするのは、イマジネーションがプロダクトの枷になっていることを意味しているように思う。
そもそも私は、人類の直立二足歩行が生き物としてイレギュラーだと思っている。
妊娠した事のある人は分かってもらえると思うのだが、二足歩行の生き物が胎内で子供を育てるのは構造的に無理がありすぎる。臨月に入ればどの姿勢でいても身体のどこかしらが悲鳴をあげ、自分で自分の足に触れることすら出来ない。屈むこともできないし、最終的には臥位すら苦痛になる。立っていれば貧血で倒れそうになり、少しの衝撃で胎盤剥離などの命に関わる緊急事態が簡単に起きてしまう。全ての重さを引き受けるのは骨盤と膝で、母体は出産後1ヶ月、新生児は誕生後1年間はまともに歩行することもできない。
臨月期の母体、それから出産直後の「産褥婦と新生児」という家族構成は、完全に神の設計ミスだ。この生殖においての「弱さ」は、人類の進化がだいぶ間違っちゃった証明にならないだろうか。(進化の方向性を間違っちゃった仲間としては、コアラやパンダに親近感を覚えている)
さて、何故人類がこんなおかしな姿勢で生きるようになったかというと、すごく雑に言えば「たくさんの物を運ぶため」と「遠くまで旅するため」のようだ。木の上で暮らしていた私たちの遠い祖先は足と手の機能を切り離した。そして、優しくて安全で食べ物のたくさんある森から出ることになったとき、二足歩行を始めた。
私は生物学にはまるで疎いが、「両腕を振り子代わりにした直立二足歩行」が平地を移動するうえでものすごく省エネルギーであることは体感として理解できる。近い種であるチンパンジーやゴリラの行う、いわゆる「ナックルウォーク」は、平地の移動にかかるエネルギーが半端ない。ほかの連中よりも多くの食べ物を持って、ほかの種よりも遠くまで歩いていける能力が、私たちの種としての強みだ(逆に、私たちは森や山での上下移動にはたいへん弱いのだが)。ついでに言えば、楽に歩くためと楽に食べ物を得るために環境を作り変えたことが、ここまで生息地が広がった決め手になったのだろう。農耕と整地は人類最古の環境破壊だが、そこは今回は割愛する。
話を戻すと、直立二足歩行は「たくさんの物を持って遠くまで移動できる」という開拓機能に特化している。そのどちらも、ロボットが人型にまでなって再現する必要はない。アタッチメントによる機能拡張のほうがずっと合理的だ。
2011年、東日本大震災による津波で原子力発電所が危機的な状況にあったとき「こんな時こそアシモの出番だ」といった声が聞かれた。何を言っているんだと思ったが、一般的に「ロボット」と聞いてイメージするのは危険な災害地帯に果敢に乗り込み、人の手では成しえない大活躍をするような姿らしい。
イメージを排除して仕組みで考えてみれば、アシモは管理された清潔な環境でしか生きられない繊細なプロダクトだ。内部がどうなっているか分からない危険な環境に単身乗り込むようにはできていない。多分、凹凸のある地面や相互に接触のある環境で自在に動くことはできない。
「どこでも(ロボット用に管理された場所以外にも)置けるロボット」と言えば、ペッパーが代表格にあたる。自律走行という機能を潔くオミットし、安全性と堅牢性をギリギリまで高めたアイツである。私はどうしてもヤツの本体が胸のタブレット端末に思え、あの顔面の必要性に疑問を感じているのだが、「どこにでも置けて、どこでも動ける」という難題をクリアしたことじたいは素晴らしいと思っている。
ロボットがヒト型であってほしい理由の一つに「親しみやすさ」があるという話もよく聞く。威圧感を与えず、むしろ庇護欲を刺激する形状は、ヒト型なのだとか。
でも、ルンバは可愛いじゃないか。
R2-D2は、BB-8は十分に愛くるしいじゃないか。(C-3POも好きだよ)
庇護欲をそそるのに、人型である必要性はない。なんならタイヤ付きのiPadだって可愛く見えるはずだ。「不気味の谷」への挑戦じたいは素晴らしく尊いものだと思うが、形状や動作をヒトっぽくすることがイコール愛着にはならないと思うのだ。
それでも「ロボットといえば直立二足歩行のヒト型」、と考えてしまうのは、100万馬力の原子力少年や便利なポッケの青ダヌキの影響ではないか。
更に言えば、我々素人の一般人がそのイメージをがっつり抱えていることが、開発者の枷になっていやしないかと懸念している。
私達は便利な便利な「脳」という機関を持っており、行間を妄想で埋めることができる。 ヒトに寄せた形状、ヒトによせたインタラクションがなくても、道具を愛することができている。
繰り返すが、ロボットがヒトを模す必要性はない。私は、彼らを正しく道具として愛したいと思っている。