北野生涯教育振興会主催の 公募論文に入選致しました。



             題名:ひたむき          土居清美

 世界遺産のアンコールワット、地雷、ポルポトというキーワードくらいしか思い浮かばなかった、東南アジア未知の国カンボジア。そこに日本語学校を創るために単身赴任したのはもう十七年前の事だ。社内選抜に立候補して叶ったものの、初めての海外赴任、初めての学校設立に不安とプレッシャーにさいなまれながら渡航した事が思い出される。カンボジア政府の学校認可取得のため膨大な資料を作成する一方、校舎探しに椅子や机の備品調達、カリキュラム作りや教材準備等に忙殺される中、最重要課題である現地日本語教師の採用活動を始めた。
 当時カンボジアでは日本語人気が高まり始めており、小さな求人広告にも大きな反響があった。応募者が予想以上に多かったため筆記試験を一次試験とし、その後面接を行う事にした。それでも朝から夕方遅くまで面接に追われる日が続いた。応募者には、大学の日本語学科に通いながら先生として働きたいと言う若者が多かった。アルバイト感覚では困るな、と最初は思ったが、学生と社会人の垣根が無いのが当たり前という「就労意識」の違いに戸惑った。また、日系現地法人の社長の秘書や通訳をやっていたとか、兄弟が日本で働いているなど日本との関わりがある人も予想以上に多かった。中でも驚いたのは、カーキ色の袈裟を着たお坊さんも数人応募に来たことだ。
 そんな中で、筆記試験がとても良く出来、面接試験に臨んで来た小柄な男子がいた。名はシーコンと言った。難しい漢字も書け、文法もしっかりしていたが、発音やイントネーションが悪く、聞き取り辛かった。「こういう意味かな?」と聞き返すと、「そうでっそうでっ、ごめんなさい。わたすぃ、日本語が大好きでっ。でもはなするは下手でっ」と答えた。色々と間違えている。特に気になった、語尾の「す」の発音であるが、カンボジア人にとってはとても難しく「っ」になってしまう事は、後に分かった。私は思わず笑いながら、「いいんだよ大体分かるから」と応え日本語の勉強はどのようにしてきたのかを尋ねた。彼はたどたどしく、しかし懸命に答えてくれた。お寺でお坊さんに学んで来たという事を。

 彼は幼少時にお寺に預けられ、家族と離れて暮らした。そのお寺には彼と同じような子供が何人もいたと言う。子沢山で貧しい農家の四男や五男の子供の多くは地元のお寺に預けられる風習があったのだ。そのお寺で修行中の多くのお坊さんの中に、日本語を熱心に勉強している青年のお坊さんがいて、夜のひと時に子供達を集めて教えてくれたのだそうだ。彼にとってその「授業」は楽しく嬉しい時間だった。先生にとって授業の頼りは、たった一冊の古びた教科書だった。その一冊の教科書が、そのお寺に代々引き継がれて来たのだ。その昔、青年海外協力隊の若者が見学に立ち寄り、お礼に日本語の教科書を置いて行ってくれたのだそうだ。その若者が蒔いた一粒の日本語の種が、誰も見知らぬ場所に健気にも小さな花を咲かせていたのだ。     
 彼の話を聞いていると、まざまざと情景が浮かび、その場面が一コマずつ映画のシーンの様に脳裏をよぎった。そしてよぎる度に私の心は揺さぶられ、軽い痺れさえ走った。さらに彼の話は続いた。
 田舎のお寺にはまだ電気が通っておらず、夜は蠟燭の灯りで過ごしたため、授業は困難を極めた。ひらがなを覚えるために教科書を蝋燭にかざして、皆で顔を寄せ合った。蝋燭も消され就寝時間になっても、そっとお線香に火を付け、ふうふうと吹きながら赤く灯った僅かな灯りでその日の復習をした事もあった。托鉢で村の家々を回り、お寺に戻って夕餉の支度をし、僅かな食事をして後片付けをして、くたくたになってから漸く辿り着くのが、この大好きな日本語授業だった。
 ひらがなが書ける様になり、カタカナから漢字に進んで来ると周りの若いお坊さん達は嫌になって授業に出なくなったそうだ。しかし彼は漢字も一つずつ覚えて行き益々日本語の面白さに憑りつかれて行った。そして年月が経ち、そのお寺の日本語の先生はついに彼が引き継いだのだと言う。この場面で彼は誇らし気な顔を一瞬見せたが、すぐに気恥ずかしそうに笑った。大きく円らな瞳をした人懐っこい表情がとても眩しかった。まだ見ぬ日本に興味を持ち、いつか行ってみたいと子供心に思ったそうだ。そしてその気持ちは以来ずっと変わらず、独学を続けてきたと、きっぱり語った。
 私は、それ以上質問する事が出来なくなった。そして、つい先程「笑った自分」を恥じた。何とか面接を終えたが、その後夜の闇と共に自己嫌悪の暗い沼に私は沈んでいった。懸命に質問に答えていた彼に、私は鼻で笑ったのだ。酷過ぎる態度だった。横柄な面接官であった。何と自分は傲慢であろうか。それに比べて彼の謙虚さやひたむきさの何と神々しいことか。彼には人としての尊さがあるが果たして自分はどうか。こんな思いが押しては引き返す中、彼への合格通知を書いてメールで送った。

「あなたの日本語は、『読む』『書く』は素晴らしく、幼い頃から真摯に取り組んで来た事がとても伝わって来ました。決して恵まれた環境ではないのに、投げ出すことなく一歩一歩学び、身に付けて来られたことに心から敬意を表します。一方、『聞く』『話す』は残念ながらもう一歩ですね。先生である以上、日本語能力が大切なのはもちろんです。しかしそれ以上に大切な事があると私はあなたを見て思いました。それはあなたが取り組んで来た日本語への学びの姿勢の素晴らしさです。ひたむきさです。日本語が楽しく、面白く、大好きだと言うことより素敵なことはありません。是非これから新たにスタートする当日本語学校に教師として入って頂き、その意志の強さや日本語への情熱を生徒たちに思う存分伝えていって欲しいと思います。今日は面接に来てくれて、本当にありがとうございました。私はとても感動しました。あなたと一緒に働きたいと強く思います。良いお返事を心より待っています」
 彼は翌朝、快諾の返事をくれた。そこには次のような決意も添えられていた。「もっともっと日本語を勉強して、発音も良くして、生徒たちにとって良い先生になるように努力します」
 
 こうして彼が入社した後のある日、私は彼にお願いして彼が過ごしたお寺を一緒に訪ねることにした。プノンペンから車で二時間ほど走ると、見渡す限りの田園風景になって行った。そこに忽然と現れたのは、この地で随一と言える大寺であった。彼は誇らし気に案内してくれた。広い境内の隅に修行僧のための宿舎があった。古い木造の平屋だった。洗いざらしの色とりどりの袈裟が干してあった。そして入口には大きな甕が五つほど並んでいた。聞くと、まだ水道が通っていないので、雨水を溜めて生活用水として使っているとのことだった。訝し気な顔をした私に、彼は言い訳をする様に説明してくれた。「飲用や料理には上澄みを掬って使うので大丈夫です」。私は「そうなんだね」と微笑みを返すしかできなかった。

 入社後の彼は、予想通り熱心な教師として日々を送っていた。学校で用意した教科書だけでは足りないと言い、自分で教案を作成し、手作りの教材を次から次へと創った。そんな日々の中、後輩の先生達が日本語検定で2級や1級を取るようになって来た。彼は3級のままだった。日本語学習の初期に、基礎を体系的に学んでなかった彼は行き詰っていたのだ。辛い日々が続いたと思う。
入社5年程が経過した頃、学校の運営面を様々にご支援頂いていた北海道のある経営者から、彼個人を支援したい、とお申し出を頂いた。本人から将来について相談があったようだ。話はまとまり、創業のご支援を頂いて、彼はカンボジアで起業した。日本人観光客向けの「ガイド兼ドライバー」業だ。そんなニッチな市場でやって行けるのかとも思ったが、「日本語の話せるドライバー」が人気となり、年々業容は拡大し、レンタカー事業にも手を広げ、従業員も増やした。コロナ禍で観光客が激減し苦労したようだが、何とか踏ん張った。
 そして今や、カンボジアに観光やビジネスで来て車を頼むなら、彼の会社が最優先で選ばれる程の実績を築いた。これも彼のひたむきさ、真摯さが成し得たのだと思う。彼があきらめることなく勉強を続け、日本語検定2級を知らぬ間に取得していたことからも、私はそう確信している。

 定年により私は一昨年本帰国させて頂いた。幸運にも15年もの長きに渡ってカンボジアで教育支援の仕事に携わらせて頂いた。この貴重な十五年を敢えて一言で言い表すならば、「多くの人との出会いによって支えられた十五年だった」という事に尽きる。カンボジア赴任初期における彼との出会いは、天が与えてくれた宝物であった。そして今つくづく思う。人生の支援をしてもらったのは、実に私の方だったのだ。


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