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若気の至り、初老の至り。
「最近の若いもんは!」そのセリフを使える年齢に差し迫ってきている。
すでに私は初老を過ぎてしまった。
さらに子どもができたことで、今までより確実に老けることだろう。
そうなると、いよいよ周りに若い人間がいると、嫉妬の目で見ることになるのであろうか。
夢や希望に満ちて、なんにでも感動し、ご飯三杯は当たり前、顔のシワがないことだとかいろんな要素があるが、そんなこんなより、一番羨ましいのは、『若気の至り』である。
奇想奇天烈な出で立ちをしようが、人にあるまじき行為をしようが、若さがあれば、至ってよいのである。
髪をまっキンキンにすることから始まり、体型を考えないコスプレ、語尾に「にゃ」とか「にょ」とかつけてみる、アイドル自薦応募など、あとから思い出すと恥ずかしいようなもの、また少し違うかもしれないが『寿司ペロ』『おでんつんつん』のような迷惑系のものもある。
こうしてみると、若気の至りは、自己中心的なアイデンティティの確立に根ざした言葉のように思える。
そんな若気の至りに対して、私も40を過ぎ、今私が意識できる『初老の至り』とはどんなものなのか。
シンプルに『尿をしっかりする切るのに時間をかけること』である。
若い時は、尿のキレが良い。なので、少しばかりプルプルと振るっておけば、パンツは汚れたりはしない。
しかし、初老にもなると、短い時間で尿を切り切ることはほぼ不可能になってくる。
そして、その場合、パンツにじわりと黄色いシミがひろがり、不快なまま半日を過ごさねばならない。それは、若いときと違って、非常に精神に、来る。
つまり、若い時はアイデンティティがどうだの自己顕示欲がなんだのいえていたのだが、年齢が上がればいかに快適な生活の維持するか、というところにフォーカスされるのだ。
絶対にいつか、指に油分がなくなってビニール袋が開かなくなる。
そのとき、「人間はすべからくみな同じだ」ということを知るだろう。
みんな垂れるし、みんなハゲる。多かれ少なかれ。
どうせ若気の至りがあるならバンバン「勢いハラボテ婚」をしていった欲しいものだが、時代のせいか、メリットコスパを考えると若気が至らないみたいだ。ハラボテ婚はタイパはいいのに。
まだ生後まもないわが子も、いつか若気の至りを起こすのだろうか。
知名度の低い芸人を推しメンにしたり、クレヨンしんちゃんのように『埼玉紅さそり隊』みたいなものに憧れたりしなきゃ良いが。