父 人生を楽しんでいる人 3 そしてネパールへ
(読了目安12分)
「父 人生を楽しんでいる人 3」です。
写真入りの長めの投稿です。
後半から「NGO活動」の話がメインになります。
・・・
離婚した父は、「夫」という意味では力不足だったかもしれません。
しかし、離婚の教訓を活かし、「人」として愛をそそぐ人生を歩み始めたように思います。
離婚してからの父は、趣味だったマラソン、水泳、自転車、登山などに熱中しました。
また、英語の教師ということもあり、交流のあった海外の友達を訪ねたりもしていたようです。
以下の写真は、トライアスロンに向けて練習中のアラフィフの父です。
ちょうど今のマスターと同じ年代ですが、運動をしないマスターとは体型が違います。
肺活量が7000cc(アラフィフの平均の2倍近く)あったため、健康診断で何度も測り直しをさせられたというエピソードを聞きました。
積極的に身体を鍛えていたアラフィフ時代
◎そしてネパールへ
登山が趣味のひとつだった父は、日本一高い富士山に登った後、どうせなら世界一高い山を見たいと考え、エベレストを見ることができる「ネパール」に行きました。
10人のパーティーで「マチャプチャレ」という山のトレッキングをしているとき、人生を変える大きな出来事があったんです。
それは・・・
「雪崩」です。
10人パーティーのうち、父の荷物を背負っていた最後尾のネパール人ポーター(荷物を持つのを仕事にしている人)が、雪崩の本流に巻き込まれて命を落とし、8番目を歩いていた父は、雪崩に巻き込まれながらも、なんとか命拾いしました。
ほんの数秒、ほんの少しの距離の差が、生死を分けたんです。
翌年の雪解けのとき、ネパール人ポーターの遺体と、彼が背負っていた父の荷物が発見されました。
その知らせを受けて再度ネパールに行った父は、亡くなったポーターの出身の村に入りお悔やみを伝えました。
そしてそのとき、「100年前の日本」を見たんだそうです。
写真や話でしか知ることのない100年前の日本の姿・・・それを目の当たりにした父は、なぜか「懐かしさ」を感じたんだそうです。
「もし前世があるなら、お父さんはネパール人だったかもしれない」、マスターとの会話でこんなふうに言っていたこともありました。
そして、その旅を通して、ネパールの山奥では日本のお金に大きな価値があることを知りました。
不思議な懐かしさ、そして亡くなったポーターへの思い、貧しさに困っている人を助けたい・・・
そんな感情が重なり、数年後、父はネパールの山奥に住み、個人で小さなNGO活動を始めました。
滞在当初、まずはテント暮らしを1年間したそうです。
そして村人たちから信用されるようになり、7畳一間の一軒家を作ってもらったそうです。
「ネパールの山奥に住む」と簡単に言っても、ホントになんにもない山奥なんです。
日本在住中、妻(マスターの母)の意向で新築した家は、1984年当時で、鉄筋コンクリート3階建て、床暖房やリビングのツインエアコン、浴室の隣にサウナを装備していました。
設計した建築家が、「100年もちます」「どんな地震が来てもこの家だけは倒れない」と太鼓判を押し、建築関連雑誌の表紙になるような家に住んでいました。
東京の真ん中でしたから、文明、文化の中心で、欲しいものはなんでも手に入る生活だったんです。
それが一変し、まずはテント暮らし、そして7畳ほどの土間での生活、毎日同じ質素なものばかり食べ、風呂もトイレもない生活です。
しかもネパール語なんて話せません。
山奥には英語ができるほど教育を受けた人もいませんし、言葉もほとんど通じないんです。
衛生面も悪く、感染症で命を落とすこともよくあります。
それでも父にとってネパールの山奥の人々との生活は、人間の原点を見るようなかけがえのないものだったようです。
そこには、「本当に欲しいもの」があったんだそうです。
以下はネパールにある父の家です。
なんでも手が届き、掃除の手間も少なく、父にとっては最高の家だそうです
(以前「世界ナゼそこに?日本人」という番組の取材を受けたことがあります)。
1984年、マスターの母の意向で建てられた家のリビング部分(建築系書籍より)
約40年前、木造二階建ての民家が多かった中、鉄筋コンクリート打ちっぱなしの3階建てでした
建築家いわく「大地震でも品川区で最後まで残る強度」だそうです(すでに売却済み)
父がネパールに住み始めた当時、届いた手紙にはこんな言葉が頻繁に登場します。
「雄大な自然、少年時代の日本の姿、少年時代の復習、笑顔、純粋さ、人の原点」
「こんな人生が待っていたなんて夢のようです」
「これまでの人生は今のためにあったと思います」
「与えることはもらうことだとわかりました」
「人が喜ぶ顔はぼくにとって宝物です」
「人の喜びはぼくを幸せにしてくれます」
「生きていること、健康でいることがありがたい、感謝してもしきれません」
「100円で救える命がある」
「自然の中、人との関わりの中で自分の小ささを思い知ります」
父が本当に欲しかったもの、それはもちろん「愛」です。
これは「愛してくれる人がいる」という意味ではなく、「自分が人の役に立っている充実感を味わえる」という意味あいが強いものだと思います。
上記太文字のようなことを感じながら、父は少しずつ愛に近づいていきました。
◎ネパールでの活動
父の活動から、なにが愛なのか学ぶことができます。
愛が欲しければ、愛をそそがなければいけませんから、父は愛に近づく方法として、いくつかのことを実行しています。
以下、代表的なものを書いてみます。
(「☆」で箇条書きにします)
☆自分のお金をネパールで使うことにしました
なんと言っても、豊かな国の人がすぐに実行できることとして、まずはこれしかありませんでした。
「人のためにお金を使う」ということです。
相手のことをよく考えてお金を使えば愛になって返ってきますし、「感謝されたい」「自分の力を見せ付けたい」などという目先の欲や、相手のためになるかどうかを考えずにお金を使えば、それは後悔として返ってきます。
自分には愛を発信できる力があるか、お金を通して試されるわけです。
たくさんの失敗を重ね、愛に近づくお金の使い方を覚えていった父でした。
以下の写真はその一部です。
衣料支援、古くなった教室の修理や新築、障害者への物資の支援、粉ミルク、病気の治療費などの支援、生活必需品など・・・
まずできることから支援を始めました (写真のサイズがバラバラですみません)
衣料支援
冬服の父に対して小さな子供ほど薄着です
学用品の支援
父が支援されていると勘違いするような写真で、マスターお気に入りです
身障者たちへの支援
子育て支援
学校の建てかえ支援
☆ネパール語を覚えることにしました
父は英語の教師でしたが、父が住む地域では英語が通じず、通訳が必要でした。
でも通訳ができる人はある程度の教育を受けた人ですから、「世界」を知っているんです。
世界を知っていますから、いろいろと「欲」がある人もいます。
ほんの一例だと、政治家に通訳をお願いしたとき、「選挙でオレに投票したらこの日本人はおまえたちに協力するぞ」などと違う通訳をされたことがあったようで、のちにネパール語を話せるようになった父が、ネパール語しか話せない村人からそのことを聞いたそうです。
外国人が自分たちの言葉で話してくれたら安心しませんか?
みなさんもわかると思いますが、もし超お金持ちの宇宙人が来て、宇宙船から降りないまま宇宙語を話し、隣に立つ日本人が日本語に訳してくれても、宇宙人に対してなんとなく親近感がわかないですよね。
「この金持ち宇宙人からどうやってお金を取ってやろうか」ぐらいしか思わないわけです。
しかし宇宙人が食卓までやってきて、日本語を使って笑いながら食事ができたら、困った時に安心して頼る気になるはずです。
父は、自分がネパール語を覚えない限り愛を発信できないと感じ、勉強をしました。
「日本語と同じ語順だから単語を覚えればいいんだ」と、50歳を過ぎて一生懸命単語を覚えました。
後日それがとても大きな「信用」となって返ってきました。
雑談
輪の中に入って同じ言葉で話すことにより、信用が得られました
様々な意見を交換します
ハゲているのが父です(マスターも同じ道をたどっています)
☆村人と同じ食事をしました
滞在初期は「やっぱり日本食がおいしい」なんて言っていた父ですが、村人と同じように食事をしないと、村人が心を開いてくれないことがわかり、村人と一緒に、土間であぐらをかき、同じものを食べるようにしました。
日本在住中は玄米菜食傾向の父でしたが、おなかを壊しながらも、当時はできる限り村人と同じものを食べるようにしていました(いまは普通に現地食を食べています)。
「鼻をかんだ指が器に入っている(ティッシュなんかありません)」「子供の世話をした指が器に入っている可能性も(オムツや水道なんてありません)」・・・
想像してみてください、そんな食卓です。
自ら村人と同じ食卓を囲み、ネパール語を話すことで、父の信用は徐々に上がり、込み入った話や深刻な相談をしてもらえるようになっていきました。
相手の心が開いた時、本当のニーズを聞くことができるようになるんだそうです。
「欲」や「キレイゴト」を超えた本当のニーズを聞くことができるようになったのは、ネパール語を覚え、村人と同じ食事をするようになってからのようです。
そして、本当のニーズが叶ったときの村人たちの喜びは、感謝の気持ちや表情で父に返ってきます。
父が食事前に撮った写真
普段は肉はなく、菜っ葉の炒め物と豆のスープとごはんです
ネパールの村人たちは、生涯こんな感じの食事を食べ続けます
☆王様からのメダルなどをありがたくいただきました(受賞の話)
活動を始めて数年後、王様から知らせがありました。
「メダルをあげるから王宮まで来てください」
ネパールに貢献したとされる人が毎年数名、王様から表彰されるんですが、その中の1人として父が選ばれました。
日本人受賞者では、過去、 医師の岩村昇 神父の大木章二郎、登山家の三浦雄一郎 野口健 などが有名かもしれません。
父の活動も、ネパール国王に認められたことになります。
父は当時、滞在ビザの件で毎年苦労していて、このメダルがあれば応援してくれた周囲の人たちが喜ぶだけでなく、ネパールに滞在しやすくなり、NGO活動がしやすくなると考え、ありがたくいただきました。
ネパールに住むにあたり、ビザを取るために賄賂を要求されたり、いろいろ大変だったみたいなんです。
一時は「もういい!インドに行って支援活動をするぞ!」なんて内心思ったようですが、それでもやっぱりネパールがいいということで、毎年のように苦労してビザをとっていました。
王様からのメダルによって父の名前が知られると、活動はしやすくなったようです。
それから、ネパールで父の応援をしてくれた人だけではなく、日本で父の活動を支えてくれていた人がとても喜び、さらに協力をしてくれるようになりました。
そして日本からの協力がさらにネパールに届き、愛の輪が広がります。
日本からネパールへの手紙が届く確率が上がったのもこのころだと思います。
それまでは、日本からネパール在住の父への手紙は、ネパールの郵便職員が開封して金目のものがなければそのまま廃棄処分、または届けるのが面倒な場所ならそのままゴミ箱、ということもあったように思います。
手紙が届く確率が上がったのは、「日本から父への手紙が届けば、みんなが得をする」ということが、ネパール人に伝わったためかもしれません。
父の名前がどのぐらい有名になったのか、以前ある実験をしたんです。
封筒に、最小限の情報だけ書いて投函してみたんですよ・・・書いたのは、例えば日本で言うと「山田花子様 日本 静岡県」これだけです。
届きました・・・ある意味「さすがネパール」です。
故ビレンドラ国王から王宮で直接の授与
「ゴルカダッチンバウ4(ネパールの右腕4等)」というメダルです
父は珍しく緊張したそうです
以下は以前も紹介したマスターお気に入りの写真です。
当時の首相安倍さんの左の左、小柄な男性が最近の父です。
このときも周囲のみなさんが喜んでくれ、社会的な信用が上がり、支援の輪が広がりました。
第11回ヘルシーソサエティ賞
余談ですが、講談社の第43回吉川栄治文化賞を受賞したとき、授賞式にはマスターの妹が代理で参列しました。
前列中央の妹の後ろに、作家の林真理子さんや北方謙三さんも出席しているのが写っています。
授賞式は帝国ホテルで行われ、妹はその場の雰囲気と有名人たちを前に緊張し、「受賞の言葉」を一行読み飛ばしてしまったそうです。
ちなみに「受賞の言葉」はマスターが書きました。
国や企業のトップクラスの人から認めてもらえると社会的影響力が大きい人との人脈が増え、ネパールの活動の輪が広がっていきました。
長くなったので次回に続きます。
次回以降も、愛をそそぐために父がなにをしたか、以下のような内容でいきます。
☆活動地域や内容を決めました
☆自分1人で歩くことにしました
☆お礼・日本での報告会をしています
☆裏話 歓迎されると困る
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