キリストの愛
(読了目安6分)
◎キリストの愛
「あなたはありのままでキリストから愛されている」・・・
これほど安心できる言葉はありませんよね。
しかしこの言葉で安心しているだけでは愛は発信できませんし、愛されることもありません。
愛はもっと向こう側にあります。
・・・
キリスト教を信じている人たちは、苦しいときや寂しいとき、「私はキリストから愛されている」と信じたくなることがあると思います。
心の痛みを和らげるための「痛み止め」としてなら、「キリストの愛」を信じるのも悪いことではないんです。
しかし、なにかあるたびにキリストを思い出し、「痛み止めを飲み続ける人生」になってしまうとしたら、どうなんでしょうか。
そんなことでは、お酒を飲み続ける人生と、基本的にほとんど変わらないような気がします。
たとえば「終末医療」などでは、痛みの緩和のために薬を投与し続ける場面もありますが、自分の人生そのものに痛み止めを投与し続ける生き方なんて誰も望んでいません。
痛みの根本を無視して「痛みをごまかすだけ」の日々は、「自分の責任で生きている」と言えない人生になってしまいます。
キリスト教では、基本的に「キリストは常に人々を愛している」という設定になっています。
いつもキリストが愛してくれているんですから、この設定は信者にとってとてもありがたいものです。
しかし、単に「麻酔」の効果で痛みが麻痺しているだけであって、痛みがなくなったわけではありません。
心は痛みを抱えているわけですから、いざとなったら折れてしまいます。
わかりやすく「身体の痛み」で例えると、まず身体が痛い時点で社会貢献できませんし、「痛み止めが効いている状態」でも、身体や思考がもうろうとしていては社会貢献できませんよね。
つまり、痛み止めが必要な状態では社会貢献できず、痛み止めが効いていても、やはり社会貢献はできないんです。
社会貢献できないということは、「現実社会で愛をそそぐことができない」ということです。
「現実社会で愛をそそぐことができない」ということは、「現実社会で愛されることがない」ということです。
つまり「痛み止めが必要な状態では現実社会で愛されることがない」ということですが、これを言い換えると、「キリストの愛を信じて生きていくだけの人生では、誰からも愛されない」ということです。
「愛されたい」と願う気持ちは、人としてとても純粋で、悪いことでもなんでもありません。
ただ、「愛されたい」という願望はあっていいんですが、それをかなえる実力がなければ願望は実現しません。
「テニスで世界一になりたい!」という願望は誰だって持っていいんです。
しかし、やっぱり実力がないと実現はムリですよね。
マスターがいつも書いていることは、「自分の実力を客観視して相応の願望を持つこと」、または、「願望があるならそれに応じた実力を身につけること」です。
実力に応じた生き方をしていればストレスは溜まりませんが、ストレスを抱えてしまうということは、自分の実力を客観視できず、実力以上の願望を持ってしまうからなんです。
以下に続きます。
◎助言を受け入れられないのが普通
たとえばタバコを投げ捨て、挨拶もろくにできない17歳無職のT子さんがいるとします。
時々パパ活をしながら、お酒・タバコ・パチンコ代を稼いでいます。
コンビニの駐車場でタンを吐きながら、「うぜーよ」が口ぐせです。
そんなT子さんがあなたに相談します。
「アタシ悩み事があるんだ。彼氏ができても、すぐに浮気するか暴力を振るうオトコで、バイトもつまんないしさ、もう最悪、やってらんない・・・」
あなたはT子さんに言います。
「タバコをやめて笑顔で挨拶してみるといいかもね。タンを吐くのもやめて、言葉使いにも気をつけてごらん。それから、お酒もパチンコもパパ活もやめることね、そうすると出会う人が変わってくるから」
T子さんはあなたに言い返します。
「そんなこと関係ないっしょ?酒を飲んでもタバコを吸っても、チョー幸せな友達もいるし。私、男運がないだけ!」
・・・どうでしょうか。
こうなってしまったら、あなたはもう助言することもできませんし、T子さんの悩みも解決しませんよね。
みなさんの身近なところで書くと、誰にでもよくあるのが、「なぜ彼氏と続かないか・なぜ仕事がうまくいかないか」という漠然とした悩みです。
マスターはときどきそんな相談を受けることがあります。
原因も対策もだいたいわかりますが、それをいくら伝えても、本人が納得して改善する努力をしないと、悩みは解決しないわけです。
人は、自分を客観視できないどころか、助言も聞けないのが普通です。
だからこそトラブルが絶えないと言ってもいいのかもしれません。
◎考えてみる
上記からもわかると思いますが、「客観視」ができ、他人からの助言を聞く耳を持つ人は、早い時点で愛に続く階段を登っていくことができますが、それらを一切できない人は自分を変えられず、悩み続ける人生を送ります。
60歳を過ぎても、「自分は悪くない、他人が悪い」と、原因を外側に求め続け、そのまま生涯を閉じるかもしれません。
そんな人が人生の最期にキリストに頼っても、キリストは喜んで愛をそそいでくれるんでしょうか・・・
というより、本人はキリストの愛を感じることができるんでしょうか・・・
自分の実力を知り、実力相応の生活をすればストレスは溜まりませんが、自分の実力を見極めることができず、実力以上に「愛されたい」と渇望することで、心の病気が発症します。
心の病気が発症してしまうと、宗教に限らず、お酒やギャンブルなど、「痛み止め」を求めるだけの人生になりかねません。
愛が欲しいと思うなら、「自分は愛されるに値することをしている人間なのか」と考えてみてください。
言い方を変えると、「自分は自分が欲しい愛と同じ愛を発信できているか」と考えてみるわけです。
大人の愛は「先払い」ですから、「長く愛されたい」という願望があるなら、それまでの考え方を見直し、長く愛する実力を身につけ、新しい自分への挑戦を続ける必要があります。
◎キリストが望むことは
キリストは基本的に人々を愛しているようですが、キリストが人類に対して望むことがあるとしたら、なんだと思いますか?
信者を増やすことでしょうか、それとも、信者たちの幸せでしょうか。
もしキリストが愛を知っている男なら、自分亡き後、人類になにを望むのか・・・愛を知っている男なら、信者を増やすことなんか望むはずはありません。
そう、「親」と同じ心境で、子どもたちの未来を心配するはずなんです。
つまり、人類のひとりひとりが自立して、愛をそそげる大人の思考の人間になることを望むはずです。
◎まとめ
「キリスト」という痛み止めに頼らなければならない心では、愛を発信することはできません。
人類が愛にたどりつくには、痛み止めから解放された心で愛を発信する必要があります。
キリスト教に限らず、宗教は「人間にとっての通過点・人類の進化の途中の通過点」であって、「目的」ではないんです。
みなさんはキリスト教を卒業し、自分自身が愛の発信源になるような人生を始めてください。
そのときこそ、キリストの愛がみなさんに届いた瞬間です。
「キリスト教の卒業」・・・きっとキリストだってそれを望んでいます。
◎余談 輪廻転生廃止論
以前、仏教のダライラマ14世が「自分の死後、輪廻転生(転生活仏制度)を廃止する」というコメントを出しました。
現代、真顔で「生まれかわり」を主張するのは少しムリがありますからね。
これは「政治的な判断から」ということですが、どんな事情があるにしても、この方針は「人類の進歩」だと思います。
子どもが大人になっていくように、人類も少しずつ成長していくということがわかる気がしました。
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