謝罪と自分が抱えている問題について

昨日の件、申し訳ありませんでした。
最近フォロワーさんも増えたので、知らない人のために説明します。
わたしはADHDと適応障害を23歳の時に診断を受けました。通うきっかけは、前職で死にたくて飛び降り自殺を計画をして、のちに会社から辞表を書けと言われて退職し、その後23歳の夏に、フジロックからサマソニまでメンタル不調が酷くなりすぎて家族や友人に迷惑をかけた結果、会議となり、いま通っているメンタルクリニックへ行く事になりました。 ADHDとは、いわゆる発達障害の一種。そのなかでわたしは不注意が強くて多動性もそれなりにあると診察で伺っています。毎日朝晩と薬を飲んで働いています。おかげさまで2週に一度の通院が2ヶ月に1度に"変わりそう"になっています。※まだ確定した訳ではないので、"変わりそう"と表現します。
なぜ今まで、あまり話さなかったというと、口頭や文章で自分が発達障害の当事者だって書くと、悔しくなるからです。自分自身に。わたしはなりたくて発達障害になりたかった訳ではありません。メンタルクリニックに通い薬を服用し始めてから飲酒も車の運転も禁止。診断を受けてから2〜3年間は禁酒していました。でもビールが好きなのと、付き合いで飲む生活に戻って行ってます。このことは医師にも時々話しており、承諾を得ています。でも心の中でモヤモヤする時があります。基本お酒は家では飲まないのと、外で飲む時は自己責任で体調管理や服薬時間に気をつけながら飲んでいます。
車はコロナ禍になったあたりから全く運転していません。2年前にひさびさに運転したら、幻聴が聞こえてきました。自分も初めて幻聴だと意識した瞬間だったので今思うと驚いています。幻聴と周りの目線が気になり過呼吸が止まらない汗が止まらない。その場は助手席に親がいたので、運転を変わってもらいました。今住んでいる場所は車がないと生きて行けない地域なのに。
こう言うことを書いていると自分が虚しく感じます。なんて惨めなんだろうって。
自分は長男なので結婚や一人暮らしなど将来のことを考えると苦しくなります。それを避ける様にライブへ行きます。当事者会やWARPへ行って満足して帰ってきた時期もありました。でも現実は違う。障害や日常を吐き出しても楽しんでも苦しいのです。※担当してくれた社会福祉士やカウンセラーには申し訳ない。
自分はいま健常者と同じ様に働けるよう生活できることを目標に掲げています。が、復職して5年間進んでいません。それは自分のせいだと反省しています。時に、同世代や下の世代に彼女が彼氏が出来て結婚が出来てマンション買ったなどと聞くと部屋で独りで泣いています。そう言ったことが原因で離れてった友人もいます。今年一月にひさびさに迷惑をかけてしまった友人と会いました。居酒屋で友人に「お酒飲んでも大丈夫なんだ。」と聞かれる。"いやそんなことないよ。"なんて言えませんでした。生きていくためには。
ADHDと診断されて、情けない生き甲斐のない自分は、生きることが恩返しだと思いました。二十九、三十になると身体にボロがでます。柔道で骨折した足首がすぐツって歩けなくなる。柔道で脱臼した右肩が常にいたい。もともと貧血気味の体質だったのでクラクラする目の前が真っ白になるカフェインを大量に摂取すると特にひどい。趣味だったアニメや音楽も遠ざけてしまう。でも生きる。大切な人を巻き添いにしたり迷惑をかけたのだから。生きる。それが精一杯の恩返しだと思います。
最後になりますが、幻聴や発達障害って社会的に理解が進んでない…というか経験してみないとわからないと思います。それは、日常生活が社会がそれどころじゃない相手にできないほど解決できていない問題が多すぎてそっちに優先せざる負えないから。だからわたしは発達障害の理解が進んでいないのは…など文句を言いたくありません。むしろ福祉サービスができる社会基盤があって感謝しています。
それから通院を初めて5年、今すぐやめろと言われてやめれるものではありません。行きたくてメンタルクリニックへ行っている訳ではありません。飲みたくて薬を服用しているのではありません。でも解決するためにいまメンタルクリニックの通院が二ヶ月に一度になりました。大きい一歩だと思います。少しでも脱薬ができる様に頼らない様に、運動したり規則正しい生活を心がけています。無理のない様に。
長文になりました。理解されなくていいです。わかってくれる人だけ。自分はこういう人間なんです。大切な事なので書きました。よろしければ今後ともよろしくお願い致します。

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