映画「プリズン・サークル」鑑賞後記
6/22(土)
上映会@沖縄県総合福祉センター5F
主催:さんぽの会 さん
こんにちは。
うるま心理相談室の臨床心理士、とねがわです。
今回は大変おもしろい映画を観てきたので、感想を書いていきたい。
…と思ったら、Twitterでもう書いてしまっていた orz
待てなかったのである。
それくらい、揺り動かされたのはこちらの映画。
「プリズン・サークル」
「島根あさひ社会復帰促進センター」という
官民協働の刑務所の中で行われる
「TC -Therapeutic Community=回復共同体」
のグループプログラムの様子を追ったドキュメンタリー。
信田さよ子先生の本の中で紹介されていたのを見て、
ずっと気になっていたのだが、
近場で上映される情報が流れてきたので、迷わず申し込んだ。
上映からはもう5年経っている。
DVDやネット配信もないので、
ローカルな上映会で根強く観続けられているようだ。
これは、評判に違わずというか、予想以上であった。
ちょうどこの日、監督の坂上さんがたまたま沖縄にいらしていて、
サプライズで上映後にトークライブの時間も持っていただけた。
貴重な映画のすき間の部分のお話も聞けたので、ラッキーでした。
対話を巻き起こす映画、という感じがつよく
監督もホットに語られ、
私たちの中にも、ホットなものが残った。
職場の同僚も、後日高揚しながら「みました?」
と話しかけてきて、こちらもついホットに立ち話してしまうのだった。
TCとは
映画およびパンフレットの中での説明によれば、
「TC」というのは、
1960年代からアメリカの刑務所の中で行われている
治療的グループのプログラムのこと。
受刑者たちは寝食共にしながら
半年〜2年程度、週12時間のプログラムを受ける。
「TC出身者の再入所率は他のユニットに比べて半分以下」
という調査結果がある。
日本には「島根あさひ」を除いてまったく持ち込まれていない。
TCの方法
TCで行われる方法はいたってシンプルである。
刑務所の中で椅子を円に並べて、グループで自分の体験を「語ること」。
またトラウマに関する心理教育も行われている様子。
犯罪行為で送監されてきた方達はそこで何を語るのか。
それは、彼らが生い立ちの中で受けてきた
「貧困、虐待、暴力、いじめ、差別の記憶」である。
そして記憶と関連した、
痛み、悲しみ、恥辱、怒り、解離、フラッシュバック、震え、怖れ
である。
トラウマ治療で治療者が目にするものの大半が、
そこでも同じように存在することが、発見される。
この国の社会における「管理・所有」の概念
日本では、刑務所に限らず、ルールを破ったり、規律を乱す存在に対して、
基本的に「罰を与え、反省させる」ことで更生を求めてきた。
学校でも会社でも家族でも、大なり小なり、そうする。
誰でも覚えがある。
この高圧的概念を、
エクストリームにつきつめたのが日本の刑務所であることがわかる。
要は軍隊方式である。
監督がおっしゃっていたが、刑務所に入ると、
最初の3ヶ月は所内での立ち居振る舞いを教育される期間があるそうだ。
気をつけの姿勢はこうで、手の人差し指だけ第2関節を曲げて立たせる、とか
細々と人の動きを徹底管理するらしい。
また基本的に作業中の私語は禁止で、
喋ることができるのは唯一、TCプログラム内のみと。
TCの中でファシリテートする役は
基本的に福祉や心理の専門家であり、柔らかい。
そして番号でなく名前で相手を呼ぶ。
ものすごいコントラストである。
パンフレットの持つ情報量
「プリズン・サークル」のパンフレットに大事なことは大体全部書かれているので、
もし観たら買うことをおすすめしたい。
正直、何を書いてもこの書物の後追いになってしまう。
信田さよ子氏が寄稿している。
私が個人的に刺さった箇所を引用してみたい。
「プリズン・サークル」は私たちが普通と考え慣らされた概念に
大きな疑問符を投げかける。
「加害者が真に自分の加害と向き合うには、
まず自分が受けてきた被害について認識し語らねばならない」
というテーゼである。
トラウマの知見は、ここでも反響している。
私のグループ体験から
「ただ集まり、円になって語り合う」
この方法論は、シンプルで簡単なように見えるが、行うのは非常に難しい。
私はそれを経験的に知っている。
私は精神科病院でも5年勤めていたので、
アルコール依存症や統合失調症、急性期病棟の患者さんたちと、
よくグループカウンセリングを行ってきたし、
ファシリテーター(進行役)の役割も担ってきた。
どんな価値観やルールからも、安全で守られた空間をこしらえること。
そこで自分を出して話しても傷つけられないこと。
不利を背負わされないこと。
決められた時間に始まり、終わること。
それらをグループにおける「構造」と呼び、
この目に見えない何かを参加者全員で作り、実感すること。
この舞台をつくり維持することが、セラピストの役割である。
それはとても繊細で、脆弱で、儚いなにかである。
しかしこれが実現されると、ものすごい効果を発揮する。
実現されないときも多いが、これを知っているからこそ
私はグループをどこか頼りにしていた。
それは個人セラピーと異なり、比肩できないものがある。
私にとってその「儚いなにか」が
最も理想的に実現された姿を、示してくれているのが、
「プリズン・サークル」なのである。
これらを実現することが難しいのは、
回復論としての
「自由に語り合う」ことの意味を信じられる人は少ないからだ。
それはさまざまな集団組織、というものに内在する根源的な問題でもある。
人間の「管理したい」欲求は、本当に根強く、
多くの人間は、この思想に無意識のうちに取り憑かれている。
完全になくなっても困る概念なのだが、
こと回復というミッションにおいては障壁になる。
グループを立ち上げても、それを運営する側の人間に
まるで何かの癖のように「管理したい欲求」が存在していることが多いのもまた現実である。
「管理したい欲求」が、回復グループ、
つまり劇中の登場人物の表現を借りれば「サンクチュアリ」
に入り込むと、一発でわかる。
それはものすごく「浮く」し、ものすごく「違和感」として目立つのである。
明らかに私たちに何かの意図をもって迫ってくるなにか、
として「わかる」。
そのとき、私の頭の中で脆く儚い「構造」とやらが
鈍い軋みの音を立て始めるのだが、
それを経てでも、その人も含めて「グループ」なのであり、
そこにサンクチュアリが立ち上がったら、
それはそれで最上にぶち上がる瞬間でもある。
それは人と人がつながった、と思える瞬間である。
そういう奇跡が見たくて、グループの仕事をしていた。
「プリズン・サークル」は一種の奇跡かもしれない。
こういう映画で起きたことを「信じられる」人が増えることを願ってやまない。
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