純真に生きよう

12/5に私の楽曲「レスキュー」のMVを公開しました。予想以上に視聴されているのは、自分自身も驚いた出来栄えの良さからなのでしょう。ちなみにこの動画は後輩で15年来の友人でもある方にお願いして作成頂きました。

https://www.youtube.com/watch?v=CLTNODdiK4E

私は数年前からYouTubeに動画を挙げてきましたが、自分はあくまで世の中に対して異議申し立てをする地域活動家であり、自身をミュージシャンや芸能人の類だと認識したことは無いですし、現状それを望んでもいません。それでも、今回のMVは映像作品としても気に入っているので是非ご覧頂ければと思います。

さて、今日の話は、今の世こそ「純真に生きよう」と銘打って伝えていきたいと思います。

拙作「レスキュー」のテーマは内なる声でした。見栄えと建前重視のこれまでの世の中に、自分を合わせていると増々心が苦しくなる。

外面重視だと、周囲の動向に翻弄され続ける。景気の浮沈、職場での評価、友達づきあいの輪の中、夫婦や恋人、親子の間、等あらゆることが当てはまります。

(あからさまに周囲に迷惑となるような)好き勝手をやれとは言わないが、YES、NOと是非がはっきり言える心と態度を持って生きていきたいものですね。

でないと自分の現在の状況を、簡単に運命や周囲の責任にするようになり、誰かに助けられるまでは何もしないし出来ない不平不満の多い人になってしまうからです。当然こんな人が日々幸せである筈がありません。

長いもの巻かれることは、その場では安全で楽かもしれない。だが、そのスタンスをそのまま続けていった結果、「こんな筈ではなかった」と、後年嘆くことになるかもしれない。

長いものにまかれる、とは、意見の強いものに合わせる、世間の価値観に合わせる、流行に便乗する、つまり、自分の意志や定見での判断は後回しにしてともかく多数派に組することだ。

幼い子供のような純真さは、大人になり社会化するにつき、実際の世間体に揉まれ海千山千、酸いも甘いも、といった濁ったものになる。

そしてその頃には、努力することや我慢すること、人に譲ること、足るを知る、といった精神的な美徳は青臭くて実際的でないと軽視されがちになる。

だが、2020年は激変の一年となり、未解決のコロナ禍は勿論、アメリカ民主主義の質、香港での民主活動家の騒動など対岸の火事だと高をくくってられない事件が起きている。

何が正しくて何が間違っているのか、誰かが笑っていられるのはどこかで誰かが泣いてきたからでは無いのか?

おそらく物質的繁栄を遂げてきた国々は、こうした背景を無視ないし軽視してきたからこそ、進んでこられたわけですが、まさに今そのツケが回ってきたところなんだと思います。

平坦に推移している中では先導者を信じて盲目的に追従していても割を食うことは無かった。けれでもこの先もそうなのか?

そんなことは無いだろう、と誰でも思うのではないでしょうか。

そんな世界では個々の思慮分別の度合が生きる上での重要な要素となります。

だからこそ、これまでのように安易に世間の標準や周囲の目に流されずに生きていきたいものです。そんな価値観はカネの論理、多数派の論理で形成されてきたものだし、この先も支持される保証は無いからです。

真(まこと)なるもの、善きもの、美しいもの、を自分の理想の行動指針として日々過ごしていきたいものです。

というのも私はそうすることによって、不平不満を言ったり、周りの動向に一喜一憂することが全くと言っていいほど無くなったからです。

そのかわり、些細なものごとをありがたく受け取れるようになりました。

感謝と満足は純真に生きる者には、いつでも出来る心的態度です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?