見出し画像

今興味を持っていること(セルフリーディング)

今興味を持って取り組んでいること

今興味を持っていろいろ手を出していることは、「自分の中では」なんですけど、明らかに去年くらいまでの傾向と違うんですね。

具体的に興味の大枠は以前から変わりません。

  • 音楽

  • 占星術

とか。

違うのは、以前のように「ただ気持ちよくできれば良い」、「アイデアを形にできればよい」という感じじゃなくて、仕組みを理解したいなという欲求や目的設定が強く働いていることです。

機材より楽典

だからなのか、音楽に関して言えば音楽理論の勉強にほとんどの時間を費やしています。

楽器は若い頃から馴染みのあるギターを使っています。

10年ほど前にギターは一度全部手放してしまったので、今年に入って新しく1本中古のギターを手に入れました。
フルアコースティックギターという種類です。
このタイプはアコギにピックアップなどの電気系統を乗っけただけの構造なので、アンプを通さない生音でも十分に音量があります。

生音のフルアコースティックギターだけで楽典とにらめっこしながら運指やピッキングの練習をするのが楽しくて仕方がありません。

昔の自分だったらこうは行きませんね。
ギターを買うと、それ以上にエフェクタやアンプや録音機材が増えていく傾向にありました。
今の自分はそういう周辺機器に全然興味が行かないですね。

クリスチャン・アストロロジー

占星術も似ています。
とにかく一度基本に返って学び直したいという欲求が強くあります。

それで今なにを読んでいるかというと、占星術の古典と言われている『クリスチャン・アストロロジー』ウィリアム・リリー (著)という17世紀の大著があるんですけど、ここに書いてあることを理解したいなと思って取り組んでいます。

嬉しいことにこの本の基礎編にあたる第1部(全3部)を詳しい注釈付きで翻訳してくれているシリーズが Kindle unlimited で読めるので、まずはこれから読んでいます。

ケプラーやニュートンと同時代に書かれた古典を、こうして平易な日本語で読めるというだけで、なんか感動しちゃいます。

時代の違い、文化の違いというギャップは確かに大きいのですが、それを差し引いても現代占星学よりわかりやすい。
多分ですけど、「なんでそういう事になったのか」という歴史的な背景や根拠が見えるからだと思います。
昔の本ですから、当時の人はこうだった…という体で読むわけですけど、それがかえって現在の我々が使っている概念を一歩離れて見ることにつながるんだと思います。

理論に惹かれるのは自信のなさから

さて、昨日は久々にカモワン・タロットでセルフリーディングをしてみました。セルフリーディングはホント久々。

なんで自分の興味関心の傾向が変わってきたのか?ということを問いとしてカードを引きました。
そしたら「ソードの小姓」が出てきたんですね。

ソードのカードの組は、現代のトランプのように数字のカードと人物のカードに分かれています。

小姓は数字と人物のブリッジをする位置にあるカードです。

ソードは知性の象徴という解釈があります。

これらを踏まえ、また、自分の直観も合わせてこの問いに対するソードの小姓を読みますと、以下のようになります。


 一般的な知識のレベルやレンジ(数字カードのI~Xの世間的範囲)にはとどまりたくない。
 もっと高みを目指して知識を磨きたいと思っている。
 しかし、今持っている自分の知識的な面に絶対の自信があるわけでもない。
 知識の象徴である剣を実践で使っていくのか、鞘に戻して引き下がるのか、小姓は正直迷っている。


この迷いの部分、そしてその原因である自信のなさという描写は「正しく!」と思いました。

本当にタロットと対話しているような感覚を味わいました。

剣を抜くのか引っ込めるのか

こうなると気になるのは「僕は進むのか、戻るのか」というところです。
小姓に直せば剣を抜いて戦うのか、鞘に収めて引き下がるのか、という分岐点ですね。

ちなみに僕の素朴な面(だと自分では思うのですが)で、基本勉強することが好きなので、一度興味を持ったことに関してリソース(時間、体力、資金)が足りるうちは勉強を辞めるという選択肢はありません。

だから勉強をするという部分に限って言えば「進むのか、戻るのか」を問うというよりは、「進むんですけど、なんかある?」という問いですね。

これに対してタロットの答えは「VII 戦車」でした。

もうそのままどストレートな答えですね。


 「迷わず進め!」(てか、それ以外できないでしょ?)


というカードです。

なにかを復活させたいらしい

では、僕はなにに向かって進んでいるのか?と。

もう進むしかないんだから、「進もうとしているのか?」ではないです。
すでに向かっているわけです。

ここで出てきたのが「XX 審判」でした。

「XX 審判」には「復活」という解釈があります。

ただこの復活という概念を理解するときに「過去の繰り返し」という意味に縛られてしまうと非常に狭苦しい読みになってしまいます。

単に繰り返すのではなく、日常的な言葉ですと「リバイバル」という言葉の感覚が近いように思います。

もう少しスピリチュアルな言い方をしますと、これまでの常識的な概念の枠組みに依存せずに、生命=存在をもう一度生きる、という感じでしょうか。


 これまでの人生も当然生命として生きてきたのであり、自分は存在してきたのだけれども、その「自分」という概念を成立させるために依存してきた<概念の海>に気付くことはなかった。
 自分はこの<概念の海>の中で「個人として(自分で)生きている」という感覚が強かった。その感覚を頼りに生きてきた。
 
 ところが<概念の海>の中で「生かされてる」ことに気付くと、これまでの「自分」という感覚、または、定義というのは本当にちっぽけで儚いものだと認識せざるを得ない。
 
 ここに恐怖と深い安堵が入り混じった、これまでの「自分」では知ることができなたっか感覚世界と出会う場所がある。
 
 もしその先へ進むなら、古い「自分」は一度死なねばならない。
 
 しかし、その辛い道のりの後、より大きな存在と一体になることによって「自分」と同音異義的な<なにか>が「復活」する。


これが復活に対する読みです。あくまで僕の読みですけど。

平たく言えば

どうも精神世界系の表現が多くなるとわかりにくい文章になってしまいますね、すみません。

セルフリーディングをざくっとまとめればこういうことです。


 僕はこれまで過去に夢中になった→が道半ばで諦めてしまった(冷めてしまった)ことがある。
 それは音楽と占星術だ。
 
 最近、この2つに過去とは別のアプローチで取り組み始めている。
 そのアプローチは以前よりも理論的で手間のかかるやり方である。
 僕がこのアプローチを選んでいる理由は、自分の自信のなさを乗り越えたいからである。
 (ソードの小姓)
 
 そして僕はこのまま進むことに躊躇はない。
 (VII 戦車)
 
 この取り組みを続けることで、過去の自分の固定観念などが今の自分を縛り付けている状況を脱し、本来の自然な在り方を実現することができるかもしれない。
 (XX 審判)


という感じでしょうか。

タロットにはいつも勇気をもらえますね。

SN

いいなと思ったら応援しよう!