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認識をした時点で既に古い

なにかを言葉として思い浮かべる

なにかを痛みや感触として認識する

なにかを図形やイメージにする

なにかのパターンが生じている

これらが呼吸するように、もしくは呼吸のようなリズムを伴って、生まれては消えていく。


例えば、「カレー」を思い浮かべたとすると

それは「カレー」であるものと「カレー」でないものを必要とする

例えば、「足が痛い」と感じたとすると

位置的、時間的に「痛い」部分と「痛くない」部分を必要とする

例えば、「自分は生きている」と認識したとすると

「生」と「死」の概念が必要である


例えば、「自分」の存在を見つけたとすると

「自分」と「他者」がいるということである


これら全て、「それ」と「それでないもの」の2つを必要とする。


つまり、両者の間に境界線がなんらかの形で存在すると認識しているわけだ。


その境界線とは実在だろうか?

動かせない、決定的なものなのだろうか?


そうやって確認していくと、はじめは境界線を認識できたと思ったものがだんだんぼやっとしてくる

あるものは簡単に変更され、

あるものはいつの間にか消えてしまう。


そもそも境界線などないと想定したほうが合理的な気がしてくるのだ。

(忘れないように。この考察や認識も言葉や概念という対象物の領域なのだが。)


境界線の有無に関わらず、ひとつ言わなければいけないことがある。
そのためにこの投稿を書いている。


言葉や認識に浮上してきた時点でそれはもう古いのである。

なにかが終わったあとの残骸なのだ。

自己すらもそうなのだ。

観察する時点では残骸を見ている。

なぜそこに(自己などが)あり続けるように見えるかと言うと、

1.生まれては死ぬという素早いサイクル、しかも似たような素早いサイクルが連続しているため、似たような残骸が連続して残る

2.その対象に執着しているため、残骸(死体)を生きていると思い込んでいる

などの理由が考えられる。


ここで、観察している者も自己の一部だということを忘れてはいけない。


こうして理解を深めていくと、自己への執着のなんと深いことかと思う

毎度毎度しっかり死ぬことは案外難しい

物理的に死を迎えることのほうが簡単なくらいだ。

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