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恥ずかしい事をする凄さ

(心のカタチより)

生き物の中で人というのは知識を扱い様々な”もの”を生み出している。時には便利な道具をつくり多くのひとに役に立てもする。

知識とはとても大切であり、ひとに知識があるがため”幸せ”へと歩もうとする。

ただ、知識には個人差があり、量やジャンルがある。量とはどれだけ知識に興味を持ったかで個人差がある。また、ジャンルによっては専門的個人差ができ、時に偏りにもする。

知識はないよりある方が良い。の、かも知れないが、知識が少ないからと差別にはならない。それはどこまでいっても人はひとだから。知識が少ないからと差別になれば、それこそ知識のない人となる。

そんな知識を持つ自分たちは、得意、不得意が生じてくる。知識に偏りがあれば知らないことは不得意になる。人には知恵があり、その不得意を補(おぎな)おうと学ぶ事もできるが、ひとは万能ではなく、どこまで行っても不得意は残る。それが人間だからです。

当たり前な事。

ただ、そんな人の中に2つの人種がいる。それが不得意を云えるか言えないかの人。得意は誰もがへいへいと言えるが、不得意となると途端に言えない人がいる。それもけっこう多く。

それを”話す必要ない”と言ってしまえばそれまでだが、それこそ知識あるひととは言えない。それは不得意が云えない本音(じぶん)を知り得るチャンスを自ずから逃す事にある。

知識は不得意を補うためにあり、自身のこころ、ひとのこころを支え感じるために使えなければ、その術を知る由もない。

不得意とは、こころを育てるためにあるのだから、得意だけをへいへいと言っていては、こころが育つこともない。

何故、人は得意を言えて、不得意は云えないのか。そこには、不得意を云いたい”もうひとりの自分自身”の存在を”恥ずかしい(かんじょう)”が隠している。

これがもうひとりの不得意を言えない人種をつくり、”こころ”を育てる事を自ら怠ってしまうのです。それは、知らず知らずに不得意を”恥ずかしい”こととこころ育てる代わりに感情を育ててしまうのです。

人には”恥ずかしい”感情はもちろんありますが、それを言えるか、云えないかはこころ育てるとは違うのです。自身の不得意は得意なひとに支えてもらえば良いのです。それを知る自分自身で言えないのは”ずるい”だけです。

この”ずるい”とは、周りの人々がそう想うのではありません。自身が自身のこころに感情をつくり誤魔化すのが”ずるい”のです。それでは心も育たず、自身を心の中に閉じ込める言い訳をつくるだけです。そんな自分で良いのかは本人が一番知っているのではないでしょうか。

だから”恥ずかしい”事を云うのです。

得意を得るために
感情をためないために
自身を誤魔化さないために
こころ支えてもらうために
自身のこころ育てるために
そして、前に進むために

”恥ずかしい”事をするのはもの凄いのです。

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