ちょっと話、神の言うこと聞いてくれ(天理教「みかぐらうた」第2節)
ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし
(なむてんりわうのみこと)
ちょっと話、神の言うこと聞いてくれ
悪しきのことは言わんでな
この世の地と天とを象りて、夫婦をこしらえきたるでな
これはこの世の始めだし
南無天理王命
今から神の心を、簡潔に話をするから、聞いてくれ。
人間にとって、悪しきことは、一つもない話であるのだから。
この世の元の神である「月日」の心を象り、夫婦の雛形として「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」の2柱の神を創造してきた。
これにより、この人間世界が始まったのである。
ちょっと話、神の言うこと聞いてくれ
ちょっととは、少しという意味ではありません。
「ちょっと話」とは、神の胸の内を、簡潔に一言で表現する、という意味です。
沢山ある話のうちの一部を話をしますよ、という意味ではないはずです。どうしても聞いて欲しい話を、簡潔に話をするのです。
そもそも人間は、神の話など聞く耳を持っていないのです。
自分のことで頭が一杯で、神でも仏でもなんでもいいから、助けてくれ、と思っている人間が、神の話を聞きたいなどと思っていないのです。
人間は、神様に自分の要求を聞いて欲しいのです。
神様の要求を聞きたいわけではないのです。
だから、
悪しきのことは言わんでな
と仰るのです。
神様の言うことを聞くということは、神様の要求を聞くということです。人間の側に、変化することを求めてくるはずです。
それは人間にとって、一見、損だと感じるようなものかもしれません。
そもそも他人の言うことを聞くということ自体が、人間にはあまりしたくないことなのかもしれません。
だから、悪い話ではないからね、と念を押しているのです。
その話の内容は、
この世の地と天とを象りて、夫婦をこしらえきたるでな。これはこの世の始めだし。
ちょっと意味不明です。簡潔に話をしているとは思えません。
これは、世界創造と人間創造の話を、短縮して話しているのです。
その最重要部分を話しているのです。
それは、
もともと神(月日)しかいなかった世界で、神が人間世界創造を思い立ったのですが、その月様と日様の計画通りに、夫婦の雛形を創造した。そうして、この世界が始まった。
ということです。
「夫婦の雛形」とは、「いざなぎのみこと」という神と、「いざなみのみこと」という神、2柱の神様のことです。そして、この2柱の神様の創造の段階では、宇宙も形の世界もまだ現れていないのです。
「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」、夫婦の雛形が創造されて、この宇宙、形ある世界が生み出されたのです。
つまり、この話は、宇宙が生まれる前の段階の神世の世界の話なのです。
これは宇宙の歴史を何億年遡っても、どこにも記されていないのです。
世界が始まる前の話なのですから。
この段階で、私達は、頭の中が、???となると思います。
本当か嘘か確認のしようもないし、人間である私達に何の役に立つ話なのかも分からないのですから。
でも、安心して下さい。分かるように説明しますので。
つまり、
無形の神様、何でも出来る全知全能の神様がいたのです。
その神様が、人間世界創造を思いついたのです。
けれど、全知全能の神様でも、パッと人間世界をつくることができないのです。
そのために、新たに2柱の神様を創造したのです。
そうして、やっとこの世界を始めることができたのです。
これだけ聞けば、べつにどうでもいいお話ですよね。
神様が、世界を作ったんでしょ、ということに変わりはないのですから。
ただ、この夫婦の雛形、新たに作られた2柱の神様が、問題なのです。
もともとこの2人は、私達人間の魂と同じ立場で、自由な存在だったのです。
けれど、私達の中から、神に選ばれて、神として働くことになったのです。
しかも、そのオファーがあった時に、この2人は、嫌がって、断ったのです。
神からの誘いを断ったのです。
けれど、元の神(月日)は、
「人間をこしらえ、世界をこしらえたあかつきには、人間の親神として、人間に拝ませよう」
と言って、無理に承知をさせて、この2人を貰い受けたのです。
自由気ままでいたいと思った2人が、神の心を受け入れて、神の心のままに、神の心の通りに、世界創造と人間創造のために長い長い年月かけて働いたのです。
そして、今も神として働いているのです。
そのお陰で、今、私達が存在し、私達の命が、私達の生活が、あるのです。
元の神・月日は、自分がしたいことをしている。
私達人間も、自由の心で自分のしたいことを謳歌している。
それが成り立っているのは、この2人の神様のお陰なのです。
この2人の神様が、自分のしたいことを捨てて、神様の言うことを聞いてくれたお陰なのです。
この2人の犠牲のお陰で、他の全ての存在が、自分の思いを遂げているのです。
じつは、正確には、他にも6柱の神様が新たに創造されたので、8人の犠牲です。
私達が、自分勝手な心で、ただ貪り、争い、苦しむだけなら、本当にただの無駄な犠牲でしかありません。
けれど、私達が、神の子として、神の世界の最も偉大な存在へと成長し、そんな人間から、人間の親神として拝まれたら、神の誉れは、この上ないものとなるでしょう。
私達がまだ動物の様な存在のままなら、神の計画通りの人間になったとは言えません。元の約束、「人間の親神として拝ませよう」という約束は、まだ履行されていないのです。
人間とは、神を認識できる存在です。
肉体を動かして下さる神様、私達の心を受け取り心通りの守護をして下さっている神様を、常に感じて喜べるのが人間です。
自由の心を使い、その心通りに神様が身体を動かし世界を動かして下さっていることを感じて喜び、神を拝する。
それが人間です。
自由の心で、神など居ない、全て私の力だ、と勝手に思うことも自由です。
自由の心で、神の心を聞き分け、神のお陰を感じ、神を拝するのも、自由です。
南無天理王命
南無とは、合一するということ。南無天理王命とは、親神と一つになるということ。
神を拝むと言っても、ただ「なんでもいいから、助けて下さい」と拝まれても、嬉しくもなんともないでしょう。
神がしていることを、理解し、正当に評価した結果、「神」として拝するのでなければ、拝まれても迷惑なだけでしょう。
神の心、神のしていることに、私の心と、私のすることが近づいていくから、神を神だと感じるのです。
何事も、その道を極めた存在を「神」と讃えたりしますが、同じ道を行く者こそ、その神性を、強く感じることが出来るのです。
だからこその、「南無天理王命」なのです。
南無天理王命は、「助けて下さい」という唱えではないのです。
私達の修行眼目なのです。
元の神・月日の話を聞き分けて、私達と同じ立場から神となっていった8柱の神様達を手本に、親神天理王命と一つになっていく、という修行なのです。
今、己に頂いている神様の守護を曇りなく感じ、一点の曇りもない喜びを感じること。
これが、南無天理王命の修行なのです。
これを、神様は、私達に要求しているのです。
神の言うこと聞いてくれ、と。
そして、神の言うことを聞いた結果、人間世界は、甘露台世界となるのです。
病まず弱らず年を寄らない肉体、穏やかで豊かな世界、これが、全ての人間に実現すると神は言っているのです。
さあ、南無天理王命の修行をしますか? 肉体を動かして下さる神様、世界を動かして下さる神様を、一点の曇り無く感じて、一点の曇りない喜びを感じる修行をしますか?
それは、自由の心で決めて下さい。
神様は、人間に何も強要しないのです。
自由の心が、人間の本質だからです。
それゆえに、私達と同じ立場だった8柱の神様が、元の神から「強要」されて、人間創造の神として勤めてきて、これからも勤めて下さることは、特筆すべきことなのです。
神のちょっと話は、この一点に尽きるのです。
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