このところやまとのぢばのかみがたと いうていれどももとしらぬ このもとをくはしくきいたことならバ いかなものでもこいしなる
この所、大和の地場の神館と、言うていれども元知らぬ。
この元を詳しく聞いたことならば、いかな者でも恋しなる。
神様、みずから、めちゃくちゃハードルを、上げてきました。
これから神が、誰も知らない神の心を、今まで誰にも語ったことのない神の心を、初めて明かそうとしている。
それは、この神の館以外の場所ではありえない、と言っているのです。
今の奈良県の天理市で、当時の中山家を指して、神は「神の館」と言っている。
なぜ、ここを「神の館」と呼ぶのか?
それは、天保九年に、神が、屋敷もろとも家族も、貰い受けたからなのです。
ことさら教祖の中山みき様は、「神の社」として神に貰われたので、その点だけが注目されていますが、同時に、中山家の家族も屋敷も、神に貰われたのです。
神が貰ったら、神のものです。
神が神の意志で自由に用いている屋敷だから、神の館なのです。
周りの人間も、それを聞いてきている。
けれど、それに対して、人間は、なぜここが?と、疑問に思うのは当然です。
立派な寺社仏閣は、他にもあるし、外国にも様々な宗教がある。
それらを差し置いて、「ここを神の館とする」と神が言った訳ですから。
その場面に直面した中山家の人々も、当時、お百姓をしていた訳ですから、迷惑な話だったはずです。
けれど、「神の方には、ちゃんと理由がある」と言うのです。
しかも、その理由を、詳しく聞いたことなら、どんな者でも、この場所が恋しくなる、というのです。
もう神様は、どれだけハードルを上げれば気が済むのでしょう?
神の心は、まだ誰も分かっていない。
神の心は、説いて聞かせたら、理解できる。
今から、ここで、神が、神の心を説いて聞かせる。
なぜ、この場所でなければならないのか、理由を聞いたら、「誰もが」恋しくなる。
本当に、そんな話があるのでしょうか?
前回、「語られた言葉自体が、神の現れである」という結論に辿り着きました。
ですが、もしその内容が、「神の話なのだから信じろ」という、ただ権威を押し付けるようなものであれば、肩透かしです。
けれど、「誰もが恋しくなる」と言うのです。
語られた言葉自体が、神の現れであるが、それは、権威の押しつけではない。
むしろ、聞いた私の方から、まさに「神様の話だ!」と感じるしかない内容を持っていると言うのです。
しかも、ハードルは、更に上がっていきます・・・。つづく
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