嘘に戻したい
父は嘘つきだった。
造園業の職人だった父は、ほぼ毎晩パチンコに出かけ、軍資金が無くなると母や私、障がい者の兄、弟のお金を借りた。または盗んだ。「すぐ返す」「倍の利息を付ける」と言って盗んで、儲かったら返して、またすぐ盗んだ。消費者金融にも借りていた。知らない請求書、催促の電話や手紙。我が家は電話をすぐ取らないという暗黙のルールができていた。
母は父の嘘に怒り、言い争いは絶えなかった。でも母は、借金に涙を見せることはなかった。喧嘩して、離婚したらどっちについていくだの、父が家出するだの日常茶飯事だった。そのたびに私たち子どもは泣いた。でも母は泣かなかった。翌日には普通に朝を迎え、ダジャレさえ飛んだ。「悩んだ時間を返せ」と子どもながらに憎んだ。
いつもどおり弁当を持って職場に向かう父。でも向かう先は、時としてパチンコ店だった。給料明細を見れば明らか。登下校中にパチンコ店の駐車場に父の軽トラを見かけ、すぐに目をそらしたこともあった。少ない給料さえも父は半分以上抜き取って、母に渡す時もあった。情けない顔で「返さないといけないんだよ」と。
母は小さな体で全て背負った。
父の嘘にまみれた生活だった。末期癌でモルヒネの幻覚症状で悪態をつき、木の棒を振り回す父に最後まで悩まされ、さすがの母もストレスで体を壊した。
父は亡くなった。母の友人に支えられた最期だったが、この話はまたあとで。
翌年、母も末期中の末期。長女の私だけ呼び出され、余命半年の宣告を受けた。病状はやんわり伝え、余命は最期まで隠した。なぜなら、母は自分のことに関しては繊細で臆病なことを私だけは知っていたから。親戚や地域の人、母の友人には伝えた。みんな、悟れないように明るく、母の心に寄り添ってくれた。「今日は〇〇さんが会いに来てくれた」「○○さんに差し入れをもらった」。家で病院で、ほぼ毎日、母に会いに誰かが訪れた。大好きなピンク色のドレスを着たクマのぬいぐるみももらった。母は嬉しそうに枕元に置いて寝て、時に抱きしめた。
癌のせいか、母の頭のてっぺんは赤く腫れあがり膿のようなものが出ていた。でも母は気付かなかった。だから、言わなかった。結構大きかったが、「小さいよ、すぐ直るよ」と言ってそっと薬を塗った。母の友人がベッドの上で白髪を染めてくれたこともあった。その傷に気付き驚愕しただろう。でも何も言わないでいてくれた。
父の嘘に悩まされた半生だった母は、
今までと違った嘘に包まれて
逝った。