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生成AI画像はアートと呼びうるか?

GenerArt

ジェネラート。という造語を考えてみた。
ジェネラティブAIによるアート作品、のことをジェネラートと呼んでみたい。「ジェネラティブAI によって作られるアート」という事だけど、長いのでジェネラート。なんか新手のカフェラテやジェラートみたいだが。
英文の綴りとしてはGenerにArtとアートの冒頭大文字でGenerArt。

と、ここまで書いて「Generative Art」という表現や、それに分類される作品そのものは1960年代から存在していました。適切な指摘をいつもしてくれるアートを学んだ知人が教えてくれました。

また、日本にジェネラティブアート振興財団という組織もあります。1960年代のGenerative Art文脈と上の財団発足の経緯として書かれているジェネラティブアート文脈の出自は異なります。とはいえ、どちらもコンピュータで動作するアルゴリズムによって生成されるアート作品のことを指しています。
それらのあらましは最後に注釈を書きます。

なので、ここでは「ジェネラティブAI によって作られるアート」として2023年以降、出て来た「画像・動画生成AI」という、歴史は浅いものの急速に一般化しつつあるMidjourney等を用いたAIアート作品全般のことを話題にします。海外のビジュアルアート界隈では、これらを表す新しい言葉Synthography (シンソグラフィ)という呼称が一般的なようです。

さて、昨年急速に進化した画像・動画生成AIツールによる今年、いちばん面白くなるであろう生成AI画像や動画の世界の真っ只中に「遊んで」ほしい。だから私のような、その動向を見守りたいし、楽しみたい大人がGenerArtというような造語を提案してみて、その「遊び場」を擁護してみたい、という退屈なことを思いついた。そういう記事です。
長いし、くどいです(笑)。最後まで読んでいただけることを祈ります!

ただ、長すぎて読むのに挫ける方、多数出そうですので、まず結論を。
以下のような言い分が成り立つかどうかを、あれこれ考えてみた記事です。

・生成AIによる画像や動画等、アートと呼べるのか?→呼べます。
・ただし、ああだこうだ言う方面も居るので既存のアートとは別に
GenerArtという造語で生成AIアートと見なしうる作品を、そう呼びたい。
・そういうプレイグラウンドを確保してしまえば、あとは面白く楽しく
画像・動画生成AIが盛り上がるであろう今年、雑音に惑わされることなく
気兼ねなく生成AIアートしましょ。と、そういう事をいいたい記事です。

さて、GenerArtということですが

より良い画像や動画を求めた創意工夫がプロンプト(こういう絵を作って欲しいというAIへの指示文)を通してなされて、いい感じになって出来上がった画像・動画たち、それらの作品たちをGenerArtと呼称することによって居場所を与えたい。そう思っての造語です。
なんの権威も基盤もない、一個人の想いですが。

今や無数の生成AI画像をSNSやネットや、いたるところで見ることができますね。生成AI画像を生成するためにはプロンプトが必要であり、そのプロンプトによって生成される画像は千変万化して生成される。
といって、じゃあ同じプロンプトを与えれば同じ画像が生成されるかというと、毎回、ちょっとずつ違う。

生成AIの生成たるゆえんは、プロンプトをきっかけとして生まれる画像が、常に毎回、新しく新規生成されるからです。
早ければ数十秒で、遅くとも数分以内には生成されます。
人が絵を描くなら、数時間〜数日、要するような作品が、目の前で短時間に出現する=このさまは、本当に生成の瞬間に立ち会っている感じがします。

そして、より自身のイメージに近いものに、あるいは好む、望ましい画像を求めての創意工夫がプロンプトを通してなされていきます。
つまり、これまで手描きで絵を描いていたときのように絵筆の違い、使う絵の具の違いで絵画表現のタッチや雰囲気が変わったように、プロンプトという言葉を絵筆代わりに工夫してつづり画像生成はなされています。

そのように工夫して出来上がった生成AI画像は、やはり、制作者の意図をたっぷり含んだプロンプトによって生成AIがジェネレート(生成)され、独自の雰囲気をまとった作品となっていきます。たとえば、以下。

宝石の花が様々な回転や空中展開を見せながら輝く様子を生成したAuroraさんというアーティストの2025のNewYear動画。

この動画には、ふんだんに画像生成AIを使ったベース画像が動画生成AIによって動きと、きらめきや輝きが与えられ展開していく。
従来だったらCGアートのような技術で時間をかけて作られたであろう表現が、動画生成AIのこの半年間の進歩によってこのキラキラ輝くきらめき感を保持しながら回転し動いていく生成は、美しく、うっとりと見続けられます。そして最後には光り輝く万華鏡のような世界の中に誘導していく。

この40秒ほどの動画生成であっても、どう動かし、どう展開するか、というアーティストの意志とディレクションがあって、その具現化を動画生成AIが実現しているわけです。

そのように観察していけば創意に満ちた作品でかつ、見るものを魅了する作品として仕上がっています。Auroraさんというアーティストの特長は移動空間、その空間での視線誘導、カメラの視点設定、動画生成AIならではの空間性を存分に活かしたディレクションをする。

そこに至るまで、たくさんの生成と、NG生成といった多大な時間をかけて思うような生成となるよう試行錯誤されてます。このようなクリエイティビティを十分に感じられる作品たちをGenerArtと呼んでみては?という提案がこの記事の主旨です。

言葉をつくる、与える、生み出すことで、認識が生まれ居場所が生まれる。
白と黒の間にグレーという言葉を与えることで、白と黒の間の曖昧だったグラデーション領域がグレーという領域として場所を持てるようになります。

場所を持てたら、グレーはグレーの魅力を訴求していくことができる。
だから、なんとなく曖昧なまま動画生成AI動画とか作品といった言葉でお茶を濁すのでなくして、GenerArtは、GenerArt作品群として、その場所を与えていくべきだと思っています。

そういった作品群を生成AIアートと言ってしまえば、いいのだろうけど、そう言いにくい雰囲気がある。この雰囲気を超えるため、だから、あえてGenerArtという造語を作ったほうが早いなと思いました。
界隈で使われているSynthography (シンソグラフィ)と呼ぶのもいいのですが、響きがキャッチーでわかりやすいから、というレベルの造語です。

生成AI画像をアートと言いにくい、というのは、

「だって、人の手で作られたわけじゃないよね?」
「コンピュータで自動的に作られちゃうわけでしょ」
「人の手によらないものをアートとは言えないよね。創作には、創作者の思いとか、苦労とか、試行錯誤とか、様々なものがあっての作品なんだから」

といった、あたりの意見に集約されると思います。

アートというものは、人が、自身の手で描いて、自身のなんらかの考えや、想いや、思想なんかを反映して、苦労と手間暇をかけてつくるべきもの。
というアート一般への思い込みと生成AI画像の成り立ちが全く異なるからでしょう。そして更には画像生成AIを使えば「誰もが」そのようなアートもどき作品って時間もかけずに簡単に作れちゃうんでしょ。という論調です。

そして特異な才能をもった選ばれしアーティストのみに許されたクリエティビティがあって、その才能ある人の手によらねば、アートなんて名乗るのはおこがましいというような既存アーティストたちへのリスペクトに基づく思い込みもあると思います。

従来であれば「アーティスティックに制作された作品」と書かれたり記事化されたりするはずのグラフィックな表現であっても、それが生成AI画像由来のものだと、途端にそのアート性が問われるところがあります。

ということで、それらの事を、うだうだと考えたいので、このnoteを書いています。

生成AI作品はアートか否かという議論で、最初に話題になった事案はジェイソン・アレン氏がAIを使用して数百枚の画像を生成し、その中から選んだ画像をPhotoshopで加工して最終的な作品を完成させ、米コロラド州で開催されたアートコンテストにおいてデジタルアート部門で優勝した一件。

この受賞は、アート界に大きな波紋を呼び起こしました。多くのアーティストや批評家からは、AIが生成した作品が人間のアートと競争することに対する懸念や反発の声が上がりました。アレン氏自身も、受賞後に「この結果が物議を醸すことは分かっていた」と述べ、AIによるアート制作の影響について問題提起を行ったものでした。

さて、ではアートって何?

まずは、AI検索エンジンFeloでArtの語源を調べてみました。

「アート」という言葉は、もともと「技術」または「工芸」を意味するラテン語の「ars」に由来しています。これらの意味は、「artifact」(人間の技術によって作られたもの)や「artisan」(ものづくりに熟練した人)など、ars から派生した他の英語の単語でも依然として主要です。しかし、「アート」と「アーティスト」の意味はそれほど単純ではありません。
私たちは芸術を単なる熟練した職人技以上のものとして理解しています。芸術作品と工芸品、またはアーティストと職人を正確に区別するものは何でしょうか?
この質問をされると、生徒は通常、いくつかのアイデアを思いつきます。一つは美しさです。(中略)
今日、私たちは美を主観的なもの、つまり時間と空間を超えて変化する文化的構築物として理解しています。ほとんどの芸術は引き続き主に視覚的なものであり、視覚分析は依然として美術史家によって使用される基本的なツールですが、美しさ自体はもはや芸術の本質的な属性とは見なされません
2 番目の一般的な答えは、独創性、創造性、想像力を強調するものです。これは、芸術家の創意工夫の現れとしての芸術に対する現代的な理解を反映しています。しかし、この考えは 500 年前のルネサンス ヨーロッパで生まれたものであり、美術史家によって研究された多くの作品には直接適用できません。たとえば、古代エジプト美術やビザンチンのイコンの場合、革新よりも伝統の保存が重視されました。創意工夫という考えは美術史において確かに重要ですが、それは美術史家によって研究される作品の普遍的な属性ではありません。これらすべてを考えると、芸術の定義は美の定義と同様に主観的で不安定であるという結論に至るかもしれません。このジレンマに対する 1 つの解決策は、芸術は主にその視覚的作用、つまり見る人を魅了する能力によって区別されると提案することです。人工物も興味深いかもしれませんが、芸術には、感情的、知的、その他の面で私たちを動かす可能性があると私は思います。これは、視覚的特性 (スケール、構成、色など)、アイデアの表現、職人技、創意工夫、希少性、またはこれらまたは他の品質の組み合わせを通じて行われる場合があります。アートがどのように関与するかはさまざまですが、ある意味で、アートは私たちを日常的で普通の経験を超えさせます。最も偉大な例は、人間の野心、技能、想像力、知覚、感情の極限を証明しています。このように、芸術は私たちに人間とは何かという基本的な側面について考えるよう促します。人間の技術の産物としてのあらゆる人工物は、人間の状態についての洞察を提供する可能性があります。しかし、アートは、ありふれたものを超えて、より奥深い方法でそれを実現する可能性を持っています。したがって、芸術はおそらく、視覚体験を通じて私たちに考えさせ、感じさせる能力において例外的な、特別なクラスの人工物として最もよく理解されています。

https://www.khanacademy.org/humanities/ap-art-history/start-here-apah/intro-art-history-apah/a/what-is-art-history?felosearch_translate=1

出て来た答えのソースから適切そうなサイトからの引用は上のようなもの。Khan Academyでの美術史概要からの引用です。
この長い引用の結論は「芸術は主にその視覚的作用、つまり見る人を魅了する能力によって区別される」というものでした。
つまりは、作り手側の何事かによってアートとされるのではなくして、受け手側が魅了されるのか、されないのか、受け手側がアートとしての評価を定めるということであります。

一方で、以下のような試みもあります。

人間の関与を極力減らして生成AIを自律的に作動させると何が起こるだろうか。
それを試みたのが東京大学の池谷裕二教授らが24年9月に発表した研究だ。研究チームはネズミの脳波を生成AIに入力し、動画を作った。ネズミの脳波を人間の指示の代わりにしたのだ。脳波が生み出すノイズと学習した多数の絵画を基に、新たな絵画を生成する。描くテーマなどを人間が指示する生成AIの概念を覆す。
動画を見てみると花や船、川や女性など、油絵風の写実的なイメージが次々に現れては消えていくさまに目を奪われる。ネズミにこうしたイメージを生み出すことはできない。だがネズミの生理がデータとしてAIに解釈され、表現として出力された結果、この作品ができあがった。そこに人間の創意は介在しない。
池谷教授は「生物の脳の活動とAIを融合して絵を描くシステムは世界で初めてだ。脳波だけではなく、心臓の鼓動や腸のぜん動も生成AIに絵を描かせる信号に使える」と話す。様々な生体データを使うことで、生成AIは独自の創作物を生み出すようになるかもしれない。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOSG29A1X0Z21C24A0000000/

つまり、人間の創意の介在しないアート的なるものが生成された、というもの。が、これもよく考えるとネズミの脳波が生み出すノイズと学習した多数の絵画を基に、新たな絵画を生成するのであれば、それを生成させるLLMにプログラムやアルゴリズムがあって、それによって花や船、川や女性など、油絵風の写実的なイメージの生成が可能なのであって、それらプログラムはそのようなアウトプットがなされる創意を持って作られていると考えられます。

だとすると、人の手が介在せず、人の手によらなくとも、そのアウトプットが「見る人を魅了する」に値するのであれば、Khan Academyの定義からは、アートと呼びうるかな、と思います。

プロンプトにはプロンプトの創意があって、プログラムやアルゴリズムにも創意がある。直接的には人の手が介在はしなくとも画像生成AIという仕組みそのものに創意があって、その基盤の上で更にプロンプトを入力する人の創意が加わります。

前者の画像生成AIという創意の仕組みに上にプロンプターの創意が重なったものをGenerArtと呼び、トリガーレベルのプロンプトであっても、そのアウトプットが「見る人を魅了する」に値するのであればGenerArtだし、魅了できない程度のものなら生成AI画像として呼称すればいいんじゃないか?と思います。生成AIアートという言い方だと、生成されたもの全てをアートとみなしているような誤解の余地が生まれるので、GenerArtなのか、単なる生成AI画像なのかを「見る人を魅了」したのか、どうかという観点でちゃんと腑分けすればいい。そう思います。

さて、旧来の意味のアート作品。
画像生成AI絵師たちによるGenerArt。
そして数多の生成AI画像。
このような3つの分類があれば、当面の様々な立場の人たちのアートを巡る信念、固定観念、思い込みによる排除からは逃れられるように思います。

さて、ここまで書いてきたので、GenerArtという言葉の語源、Generate=生成という言葉について触れて終わりたいと思います。

上のAI検索で調べた結果のように、「generate」という単語は、ラテン語の「generare」に由来し、「生み出す」という基本的な意味を持っています。
この語は、さまざまな関連語とともに、「generation」(世代)や「genetic」(遺伝の)といった生命や発生に関する概念を表す意味の拡がりがある言葉です。

夕陽がきれい。そう思ってみた夕陽は、太陽と地球といった天体が日没前に生成する自然現象としてgenerateされるものです。
北斗七星やオリオン座といった星座の輝きと配置。自然の理、宇宙の星たちの運行法則の中に見え隠れする自然美も、それら自然の理からgenerateされるものです。

『アートの価値は「手が動いたか」ではなく「心が動いたか」』という観点から考えれば、自然のアート性も誰もが認めるところです。
だから人は、それを写真に撮ろうとするのでしょう。

誰が描いたのか、人の手によるのか?といった区分はむしろ、近代化していく中で、自我意識の上に人の手の技としての芸術というようにアルスの定義が「人の手によるもの」に絞り込まれていったように思うのと、別の言葉にCreativeがあって、こちらはより広範な文脈で使われ、芸術や文学、デザインなどに関連し、人間の感情や文化的背景を反映した作品を生み出すことを言いますが、本来は神の創造を源に持ちます。

ですので、人の創作に寄せたクリエイティブ、人の手の技を強調したアルスか否かという議論は、アート作品の対価とか著作物の権利、著作権や所有権といったあたりの「お金」の話しにまつわる仕切りの問題、流通の問題とともに生まれていますので、著作物かどうかの議論はひとまず置いておいて、作品のもたらす魅力=心が動く作品はアートである、といった広い解釈でアートをみた方が広がりが生まれていいと思います。

芸術系アカデミズムの方や、アートに造詣の深い方からはツッコミを受けそうではありますが、人類史になかった新しいアート的なものが大量生成されてある時代の、ひとつの概念上の線引きとしてGenerArt(Synthography)という区分、分類を与えてもいいよね?というひとつの提案にすぎません。

もうひとつの見方は、芸術は私たちに人間とは何かという基本的な側面について考えるよう促します。とKhan Academy美術史概要に書かれている見方。

これまで書いたように、生成AIの登場にともなって、創造性、芸術性、生成とは、創作とは、という事柄の根本が再度、問われるようになりました。この記事も、そこがきっかけとしてあります。

動画・画像生成AI作品を目にするということそのものが、人間にとって創作とは何か?アートって一体何?ということを思わず考えさせられてしまう人間不在のアート性をめぐる体験になったりします。
初めて見た時に、人の手が介在せず、言葉だけで、動画や画像が生成される。この事に、にわかに信じがたい気分になり、それを肯定する人、否定する人、様々な反応が巻き起こります。
つまり、人にとって大きくアートへの問いを与える存在としていま、生成AIは、その只中にあるものと言っていいと思います。
生成AIそのものが持つアートに対する新しい見方、考え方への人々への要請であり問い掛けがあります。そういう性質をみてもアートたりうる資格があると思います。

ということで、残るのは「お金」という背景との兼ね合いから著作権等の議論であり、GenerArtは著作物たりうるのか?誰のものなのか?という話しが出てきますが、今回はこれまでとして、GenerArtの著作物性については、また別の機会に考えてみたいと思います。

@kahua_is

色んな思いを物語にしました。 第1話TIKTOKダイジェスト版 光と絆の守護神たち 🦎やもりのヨモ 制作: KAHUA シーズン1 生き物シリーズ シーズン2 神々シリーズ 生き物シリーズに登場する動物たちは、ヤモリの四方(ヨモ)、河童(•Ӫ•)🥒、ユニコーン🦄、べドリンテリア🐶、ナマケモノ🦥、カメレオン🦖、グミガエル、天狗👺、ふくろう🦉、ハリネズミꉂ🦔、象🐘、女の子、他です。ものがたりづくりとキャラ作りに時間をかけました😊かふあのAI講座も若干数限定お受付。現在、お仕事はミュージック・ビデオ、広告、CM,AI映画などなど👀🍿*゜取り掛かっております。お仕事のお問い合わせはDMまで。 #AI #光と絆の守護者たち #aifilm

♬ Flying Beyond the Sky - Carlos Estella

最後に引用したのは、GenerArtアーティストであるKAHUAさんによる動画生成AI作品で映画のトレイラーという仕立ての動画。なかなかに破天荒な展開の物語の雰囲気をよく醸し出しています。

引用した生成画像・動画AIアーティストたちは、これまで書いてきた生成AIによって作られた作品がアートかどうか?なんて議論など関係なく、いや、興味すらなく、この新しい道具の出現をただただ楽しんでいます。

一昨年くらいまでだったら、このような映画トレイラー動画のようなものを、たった一人で自身の世界観を反映させつつ作るなんて、とても叶わなかった映像世界。その世界を切り開きつつあるのが生成AIを使ったGenerArtです。一種の動画・画像世界の民主化革命が起きていて、一人夜な夜な生成することができるのです。

それが面白くないはずがない。

子どもが紙とクレヨンを与えられて、書きなぐっては、次から次と無地の画用紙に描いている子どもにとって、目の前にあらわれた紙とクレヨンの出現と、そこから生まれる様々な文様、かたち、色。

それらを、ただただ描くことが楽しい。無心にあくる日も、あくる日も。
ただただ描きつづける。
そして、ある日第三者が、親なのか、大人なのか、友達なのか、誰かはわからないけれど、その描かれたものを「好き」とか「いいね!」とか言ってくれることに「驚き」それが「嬉しい」につながることに、そう時間はかかりません。

楽しい創作行為を他者が肯定し、受容し、喜ぶ。そんな時間を積み重ねながら、また、新しい何かを描きたくなる。
生成AIのアートとはいま、そういう初期の熱狂のまっ只中にあります。

アートの定義、著作物の定義、著作権の定義、様々な市場や流通をめぐる大人の事情のルールがいまだ未整理な現在が、そういう意味では最も面白い時なのです。その貴重な今を、些末なアートとは何か?という議論に気を取られ、見逃さないように。

生成AIがつくる動画や画像なんて認めない。なんて、頑ななことを言わないで。それを理由に体験しない、なんてことがないように願います。

そしてGenerArtと戯れることは、きっとアートなんていう、ご大層なものとは無縁だと思っているかもしれないあなたにも、創造することの、つくることの、面白さと楽しさの片鱗を体験させてくれます。

画像生成、動画生成は面白い。
この面白いというところから、また新しい何かが生まれてきます。
そういう新しい時代のルネサンスの予感を感じながらGenerArtしませんか?


ということで筆者の方では、生成AIの使い方のひとつの大原則を知ってしまえば、ありとあらゆる様々な問題・課題の解決の道は生成AIとの対話によって開かれると思っています。
そういった「100のプロンプトよりも生成AIの大原則、1つでOK」というベーシック講座に加え、想像力、創造性を育む「動画生成・画像生成AIオンライン講座」も3〜4月をめどに開講する予定です。

プログラム等は後日、また掲載します。

これらを通して、生成AIのGenerArt初期のまっ只中の熱い空気を体感してみていただきたいと願っています。2025年はGenerArtに多くの人が取り組んで更に豊かで、驚くような表現が生まれてくる事を楽しみにしています。

その最前線の景色をぜひ、見ていただければと思っています。




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