親のエゴに躍らされていたと気づいた時
こんなタイトルにするといささか、自分がひどい人の様で、心が痛むのだが、、。
「親のエゴに躍らされる」
というか、
親のエゴのもとに築かれた自分の固定概念の上で、無意識レベルでチョイスしてきたもの。
それが本当に自分がしたいチョイスだったのか?
と現在の自分、過去の自分を振り返った時に、これあるんじゃないの?
いう気づき。
自分自身でもそれが反射的に
「これこう言われそうだし。」
とか
「本当はこうしたい気持ちがあるけど反対されそうだしな。」
とどこかで親の事が頭でよぎりながらしたチョイス。
もはや無意識レベル。
それはある時代では親のエゴの押し付けだったかもしれない。
でも大人になった今は違う。
なんでも自分で決めれるのだ。
本当は子供時代だって自分で決めてよかったこと。
でも自分で自分を枠にはめているから、はなから諦めというか選択肢すら思い浮かんでない。(本当は思い浮かんでも無きものにしてしまう)
そんな事が多々あったなぁと。
またそこには同時に自分自身への甘えもあり。
そのチョイスをすることで親への忠義を果たしているようで、挑戦をしないで楽な方へ逃げる甘え。
挑戦には未知の恐れもあるし、現時点では想像できない努力も伴う。
(それと共に想像できない悦びもある。)
平たくいうと、自分を枠にはめる事で、安心を得ようと、想定内の努力で済まそうとしているのである。
そんな自分に気がついた時に、
無償に親への怒りが湧いてきた。
この怒りはお門違いなものであろう事は自分でも理解しているのだが、
それでも、心に抗わず素直にいうと、
怒りが湧いている。
親自身も、子をコントロールしようとしている(いた)自分に気がついていないのだろう事も同時に理解している。
親への感謝は山の様にある。
それでも腹立たしいのだ。
「悔しい。」
この気持ちはなんだろう。
もう少しこの感情を噛み砕き考えてみる余地あり。
その先に見えてくるものは何だろう。
この気持ちの解消はきっと大きいぞよ。