銭湯で思った、美しさとは。
スーパー銭湯に行った。
サウナ→水風呂→外気浴→温泉
のルーティンをして
最後にもう一度全身を洗い頭からお湯をかぶった。
湯気が立ち上り、お湯は滴り落ちる。
ととのって、脳内意識が上に引っ張れるような感覚と重力で水が落ちる感覚とで、ほそーく、ながーく、伸びゆくようなビジュアルを感覚でぼんやり見ていた。
顔も全身の筋肉もふにゃふにゃにほぐれ、脳味噌もぽへーっと緩んでる。
もちろんすっぴんのその姿で鏡に映った自分をみる。
わぁ、なんだか美しいなぁ、
と思った。
汚れも、力みも、邪念も
全てが削ぎ落とされたその状態が
美しくみえた。
ふと斜め向えにいたおばさまを見た。
おばさまもまた、全てが削ぎ落とされた状態でぽへーっとゆるんだ表情で、
とても美しかった。
銭湯にいくと、特に近頃は黙浴だから、1人で来てる方が多く、静かにみんなが思い思いのペースや浸かり方の体勢をとっている。
その様が古代の絵巻物みたいで、美しいなぁといつも思うのです。
美しさってなんだろという問いは、巷でも百万回されてきたし、
私も何度も考えてきた問いだ。
もちろん正解はない。
それぞれが違うものだからだ。
私にとって、美しさの問いで結局いつもいきつくのは、
「その人がどれだけ自分自身の心に向き合った中で選択をしているか」というところに美しさを感じる。
だから表面上の均一性や共通点はない。滲みでるスピリットに美しさを感じる。
そうなってくると同じ美しさって無いのだよね。
みんなそれぞれの美しさだから。
けど心に向き合うって結構ハイカロリーなことだから、
向き合わずとも生きて行くことはできる。
今の世の中の固定概念にそのまま乗っかっていればそれなりに生きやすく生きられる。
けどさ、世の中の固定概念はただ今の時代の長いものなだけだから。
そこは鵜呑みせず咀嚼してからから受け入れたほうがいいのでは無いか?
と私は常々思ってしまう。
だからこそ、「心と向き合い咀嚼の先に自分のチョイスをしている人」を美しく思うんだよなぁ。
私は。
温かいお湯でふっと心が解け、
水に清められた
その姿は、
その人の素っ裸の状態に近い
ありのままのその人で、
そのありのままの姿が美しいのです。