十三年

 その日、私は東京は上野不忍池の畔(ほとり)で仕事をしてまして、すぐ近くにあった古民家の屋根瓦が揺れた瞬間に次々にバラバラと落ちて来まして、
 「アラジンチャンスかな?」
と思いましたですが。

 東京は直接的な被害と言うよりはバスと一部の地下鉄路線を除いて公共交通機関が完全にストップしてしまうですとか、高速道路や橋などで安全点検の為に交通規制が入るというような事が大変だった気がしますけれど。

 ただ、頭では「電車という電車が全て動かない」という事実を理解しつつも、とにかく現実味が無い状況ですので、どこかフワフワしていたように思います。
 それを“リアルな現実”として叩き込んだのは上野駅から御徒町駅までの中間点辺りの高架線路上で『乗り捨てられた』京浜東北線の青い電車と、人の立ち入りを拒むかのように全てのシャッターを下ろしてしまった御徒町駅を見た時でしたわね。

 結局、当時住んでおりました中板橋までの徒歩帰宅を余儀なくされた訳ですけれど。
 土地勘があるもんで上野駅から浅草方面を目指して大関横町の交差点から明治通りに入り、北区王子を経由して池袋を目指し、途中で川越街道へと流れて中板橋でFINISH!
 帰宅までに五時間半ほどを要した訳ですが、「土地勘があるもんで」と言いながらこのルート選択は大間違いでありまして、上野不忍池に居たならそのまま不忍通りを道なりに進めば池袋東口にぶつかるので、おそらく半分の時間で住まいまで辿り着けていた筈なんです。
 冷静に判断していた筈でしたけど、やはり本当は動転していたんでしょうな。

 さて、13年が経って東北地方の復興はと言うと、特に原発事故の影響を受けた福島県などはお世辞にも“元通り”とは言えない状況であります。
 
 13年前から……いや、阪神淡路大震災の直後から、時の総理大臣は「災害に強い国づくり、街づくり」を慰霊祭の度に誓い続けておりますが、元日の震災を見る限り、
 「1ミリも実現されていないし、そこに力を注いだ形跡も無い」
ですわね。

 でも、これを政治家や国の責任だとばかりは言えない気もします。
 こうした“国土強靱化対策”というのは極めて地味な作業で、そうならなければ効果が実感出来ないくせに費用と完成までの年月は膨大にかかるものです。
 災害直後こそ国民も関心を持ってその政策を支持する訳ですが『喉元過ぎれば……』の言葉通りに歳月を費やせば費やす程に関心は薄れ、やがてむしろ批判的な声さえ上がるようになっていきます。
 「目の前に課題が山積みなのに、いつ起きるか、もしかしたら起こらないかもしれない災害対策に人やお金や時間を費やす暇があるの?」
と。
 まぁ、政治家さんも国民の関心が薄い事には力を入れませんわ。
 そうやって被災地を除く国中が災害の記憶を忘却の彼方へ追いやった頃、新たな大災害が発生する……これを延々繰り返しているようにも思いますけれど。

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