“多様性”の闇深さ

 鹿児島の公衆浴場が閉鎖に追い込まれた。その幾つか挙げられる要因の最も大きなものが男性客同士による『迷惑行為』だったといいます。
 具体的にはプールや蒸気サウナなど比較的死角になり易い場所で抱き合ったり“いかがわしい行為”に及んでいた。これが十年程前から目に余る状態であった、と。
 つまり《肉○電車でGO!》しとった訳ですな。
 しかも年配……と言いますからオッサンや爺さんが事に及びブラックリストに多数名を連ねていた。
 ……いい大人が何しとんねん!?『ふんべつ』の“ふん”は《糞》と違うゾ!

 “多様性”が叫ばれる世の中です。性同一性障害に苦しむ方、性的マイノリティの差別や偏見により生存権すら脅かされている方々……差別や偏見は確かにいけない事、これは言うまでもない事です。

 しかし、です。
 じゃあ同性愛者の方々を十把一絡げに全て自由の名の下に認めてしまって良いのか?となると、どうも私はそこに与しないんであります。
 病と認められた方、或いはどうしても異性ではなく同性しか愛する事が出来ない方と、単に性的嗜好として同性が良いのだという方とは分けて考えるべきでは無かろうか?と。
 
 同性愛者の方々というのはある種の“ニオイ”で同じ指向の人を嗅ぎ分けるのだ、といいます。則ち、同性しか愛せない方は同輩の方を選んで出会い、結び付く。
 対して性的嗜好のみで同性との行為に及ぶ輩は『好み』で相手を選ぶ傾向にある。相手が同好の士である無しに関係なく誘い、場合によっては調教する。

 私はそこに引っ掛かる訳です。
 今時はネットでそうした性的嗜好の人々が集うコミュニティも沢山ありますし、俗に言う《ハッテン場》……例えば新宿2丁目ですとか上野不忍池の畔に建つ映画館、横浜にも“ソレ”を描いた作品専門の映画館ですとか……もある訳ですから同好の士だけでお楽しみ頂く分には何も問題ではない。
 しかし公共の場で公然と事に及ぶとか、或いはそうした性的嗜好の無い人を誘い込むというのは、これは自由だの権利だのの範疇を超えているのじゃありますまいか?

 恋愛対象が異性であろうと、同性であろうと、それは個人の自由である。これが“多様性”の中に内包された一要素であるのは理解出来ます。
 しかし『自由』であるからにはそこに同量の『負うべき責任』と『果たすべき義務』という“裏付け”が担保されていないと単なる『ワガママ』『自分勝手』になってしまうでしょ?
 小中学生が授業で初めて憲法に触れ、そこに書かれている【自由】とやらに触発されてやたらと「自由だ、自由!」と振りかざすようになる、なんてのは大なり小なり誰もが通る道であります。
 でも大人たちはそんな若者達の振りかざす【自由】なんて相手にもしない訳です。
 何故なら、若者達の言う自由にはそれとセットでなければならない義務や責任が抜け落ちているからです。

 他人に迷惑をかけるな!

 この心構えが最低限無いと何一つ認めるべきでは無い、と思うんですがね。

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