悪漢⑩

 Aさんの勤める工場の社長さんというのは実は二代目でありまして、創業者の先代は認知症を患い長らく入院の末に亡くなった。
 それをいい事に当時の従業員達は工場の経営を好き勝手に私物化してしまった為、内情は火の車だったといいます。
 二代目社長はそんな不良社員達を一掃し、新たな工場長を迎えて経営刷新に動いた訳ですが、実は工場に多額の資金を貸し付けていた債権者の一人だった人で、工場を建て直し利益を上げる事で債権を回収しようと目論んでいたんであります。
 元はアクリル板を作るのに必要な金型を作る職人さんでありまして、工場全体の業務や経営には詳しくはありません。それで大きな工場で管理責任者を長く務めた人を工場長兼工事部長として迎え入れた訳です。

 さて経営再建に向けた喫緊の課題は新たな取引先企業の開拓でありまして、折良くネット上でアクリル板製作工場を募集していたSテック株式会社という所と取引の基本合意を取り付ける事が出来た。
 というのも、三重化学はいくつも下請け工場を抱えていて、こちらだけに急激な大量発注などは望むべくもない状況。
 それに較べSテックは独立採算の系列会社とはいえ、元をただせば世界的家電メーカーがバックについており、しかも取引工場は一社しかない。
 ただ、育ちと言いますか企業文化の違いは如何ともし難く、取引の本契約に向けた交渉は難航を極めておりました。

 正社員となったAさんは相変わらず製品の検査や出荷、データ管理や顧客対応など多忙を極めており、Sテックとの交渉には全く関与しておりませんでしたが、更に時代は2000年代初頭というのもありましたか会社宛のメールも彼の一元管理となっており、社長宛、工場長宛、経理担当宛の分はいちいちプリントアウトしてそれぞれに配る、なんて業務もしておりまして、嫌でも工場に関するあらゆる情報を目にする立場にありました。当然、Sテックとの交渉が難航している様子も分かっていた。

 そんな時、業を煮やしたSテック側から『第0号製品の試作』の要請があり、試作品50ケース分を大急ぎで作らなければならなくなった。
 アクリル板の製作というのはアクリル樹脂の結晶を高熱で溶かした物を金型に注ぎ入れ、圧力をかけて形にし、余分なバリ……餃子で言う“ハネ”の部分ですわな……を削り落として成形した後自然冷却して完成となります。
 ところが今回は大急ぎでの仕事の為、自然冷却の部分を省略しての発送となります。
 まだ熱が抜け切れておりませんから製品は柔らかく、途中で変形変質の怖れがある。試作品だからいいようなものの、本製品では有り得ない事です。
 発送を前にAさんが出荷前製品検査を行う訳ですが、今回は製品50枚分の検査データを要求されております。ここで問題なのが、先方からの製品図面が約束期日より大幅に遅れ、それにより金型製作も押しに押してしまった為、いくら試作品と言えども製品の完成度が甚だ疑問である事と、その一連の流れから金型職人でもある社長が激怒している事。
 案の定、始めの5枚目までで図面通りに収まった物が1枚も無い。
 それを工場長に報告しますと、隣にいた社長さんが、
 「そんなの、どうせ試作品なんだから適当に図面データ内に収めときゃいいんだ!」
 ……所謂【データ改竄】の社長命令が下った訳です。

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