車椅子の怪~前編~
過去作を語り口を変えてリライトしようというシリーズでありますけれど。
このお話、完全なる実話でありまして、しかしかなり奇っ怪かつ陰惨な“事件”でありながら……実際に警察も出動していた訳ですし……私が調べた限り、どの新聞にもニュースサイトにも、全く報じられた形跡はありません。
コロナ騒動が勃発する以前の事ですから少なくとも5年以上前になりますか。季節が秋から冬へと移り変わる頃の午後8時。
明らかに、建設現場での仕事終えて着替えもせずに出て来ました、と言わんばかりの小汚い風体の男が病院へ飛び込んで参りまして、急病人を連れて来たから診て欲しい、と言います。
……でも、見るからに彼は一人なんです。“連れ”の姿なんか影も形も、無い。
「く、車椅子で近くまで運んで来たんだけどさ、途中の下り坂でひっくり返っちまってどうにもならなくなったんだよ!」
男は血相を変えて訴えます。
確かにその病院は勾配こそ緩やかだけれどもダラダラと続く下り坂の中腹にあって、余程車椅子の扱いに慣れた者でないと歩道と歩道の切れ目にある段差につっかかってしまう可能性は高いでしょう。
それにしてもあまりに男が大声で喚くものですから騒ぎに気がついた居残り残業の職員達がなんだなんだ、と集まって来ましてね。ひとまずその“急病人”とやらを探しに行かざるを得なくなりました。
まぁ、“探す”って程の事も無く見つけたんでありますよ。
何せ病院の隣にある調剤薬局の店先に居たモンでね。
案の定、下り坂の勾配に負けた車椅子がつんのめるように止まっていて、その前方で路上に座り込んでいるお婆さんがそれ以上車椅子が坂を下るのをせき止めている状態。
問題はそのお婆さんで、ジャージのズボンを履いた両脚を前方にだらしなく投げ出し、普通なら息苦しくなるであろう程深々と前方に項垂れている。
一見して意識は無い。
私と一緒に探しに来ていたリハビリテーション部の若先生が素早くお婆さんに駆け寄るというと彼女の首筋に指を当てて呻いた。
「脈が(打って)無い」
それを聞いた私は急いで病院にとって返し、処置室の前に停まっていたストレッチャーの車止めを外すや否や持ち出した。
「そんなに(患者の容態が)悪いの?」
追いかけて来た当直ナースの若杉さんが訊いてくる。
「脈が無いそうです」
「え、マジで?」
若杉さんはアラサーながら、学生時代のツッパリ精神をそのまま持ち合わせている人で、出勤時の私服ではジージャンの袖に腕を通さず肩で羽織っているような、それさえなければモテモテだろうにと思える美女。
お婆さんの前にストレッチャーを横付けし、一度車止めをかけてから若先生と二人で彼女をストレッチャーに載せて横たえる。
若杉さんが即座に乗り込んでお婆さんに馬乗り状態になると心臓マッサージを開始。
「ねぇ、このまま病院へ戻れる?」
この状況で“出来ません”など言える筈も無く、
「やってみましょう!」
返事はそれ一択。
私が前方で舵取りとスピード制御を担い、若先生が後方でエンジン役を担う。
とにかくストレッチャー上の二人を振り落とさず、かつ迅速に病院内へ収容しなくちゃならない。途中の段差ではショックを和らげる為に車輪を軽く持ち上げたり、曲がる時には大きく大きく回るように……距離としてはほんの“目と鼻の先”ながら院内への収容には数分の時間を要した。
処置室に移してからは懸命の救命処置がとられた訳ですがここは一般の総合病院。機材にも出来得る処置にも限界はあって、それこそ大病院の救命救急のようにはいかない。
我々が処置室に駆け込むのをいつの間にか待ち構えていた当直医の串田先生が素早く若杉ナースと処置にあたったものの、間もなく私に、
「警察呼んでくれる?110番じゃなく警察署の直通番号でな」
と言ったので、医学の専門知識を持ち合わせていない私にもお婆さんが助からない事だけは察せられた。
「ねぇ洪さんさ、警察が来るまでの間に“あの人”に事情を訊いといた方がいいんじゃないかな?」
警察署への連絡を終え、やっと一息ついた私に、珍しく残業していた総務課の主任が声をかけて来た。
“あの人”とは言うまでも無くお婆さんを調剤薬局の店先まで運び、その事を我々に通報してきた男の事でありまして、奴は受付ロビーの長椅子に座って寛いでおりました。
でも、事情を訊くのは一介の出入り業者に過ぎない私の任ではなく、どちらかと言えば病院の正規職員の、それも総務課の主任である貴方のすべき事じゃありませんか?……喉まで出かかったその台詞を、私は呑みこみました。ここが出入り業者のホロ苦いところでありますわね。
さて、男から聞き出した“事情”というやつが更に奇っ怪でありましてね。
男が自転車で現場から帰宅する途中に公園がありまして、道路から見える位置のベンチにお婆さんが横たわっていた。
男が自転車を降りて近寄り声をかけますと弱々しい声で、具合が悪いから病院へ行きたい、と言う。
「救急車を呼ぼうとは思わなかったんですか?」
「それは思い浮かばなかったねぇ」
「近くに公衆電話は?」
「うん、あったよ」
……自分で歩く事が難しいお婆さんを病院へ連れて行こうとするなら、最も手っ取り早いのが119番通報で救急車を呼ぶ事の筈ですが、男にはその発想が無かった、と言います。
男の身の上話は割愛しますが、男は携帯電話を持っておらず、だとすれば近くに公衆電話があったならそれを使えば無料で救急車を呼ぶ事は出来た筈なんですがね。
そしてここからが更に理解に苦しむところで。
男はお婆さんを病院へ運ぼうとしますが、自力で歩くどころか立つ事すらままならない彼女の為に『何か無いか?』と公園周辺を探索。
すると『おあつらえ向きに』とある建築会社の資材置き場で車椅子を発見し、そこの管理担当者に直談判して借り受ける事に成功、それにお婆さんを載せて病院を目指した、と言うのです。
その車椅子。新品とは言わずともかなりの“美品”でありまして、何処ぞの資材置き場にうち捨てられていた物とは思えないんですがね。
しかし何のアテも無く辺りを彷徨っていたら偶然資材置き場に出会して、と言いましても『オウム事件』を契機に当局の規制が入り、今時外部から中の様子が見える資材置き場なんて存在しない筈なんですが、男はそこで“おあつらえ向き”に車椅子を発見するなんのは、
何たる強運!
としか言えませんわね。
しかし強運は長くは保たず下り坂でつんのめり、お婆さんがズリ落ちてしまって万策が尽きてしもうた、と。
さて、ここからが最も我々の疑惑を深める部分でありまして。
お婆さんを車椅子に乗せて病院を目指す道中、二人は立ち往生するその直前まで、色々と【話をしていた】と言うのです。
しかし、若杉ナースによりますとお婆さんの身体は処置室に運び込まれた時点で【既に硬直が始まっていた】そうで、つまり我々がお婆さんと遭遇するよりもっと前の時点で彼女はお亡くなりになっていた、と考えざるを得ない訳ですわね?
だからこそ車椅子が下り坂の勾配に負けて前のめりに傾いた際に、お婆さんは肘掛けを掴むなり両脚を踏ん張るなりして自身の身体を支える事無く、車椅子の外にこぼれ落ちた形で発見された。
そして若杉ナースによれば、お婆さんの背中やお尻、両の腿裏…即ち後ろ半身全体に夥しい打撲痕があった。
つまりは激しく【暴行もしくは虐待された痕跡】があったのだそうで、それが直接的死因につながるかはともかく、そんな状態で和やかに会話が出来るか?と言われれば…答えは自ずから「No!」ですわ。