
美しいを巡る旅
美しいを訪れることが好き。
今回は水の旅。
そしてたまたまの紅葉の季節。
7年前も奈良にいたねと思いながら。
でも今回の始まりは京都。
美味しいと美しいをたっぷり堪能。
やりたいことがわからなかった7年間
結局今でもわからない。
私にとってのやりたいことって
夢中になって夢の広がる中をひたすら歩くことだった。
その対象が見つからないと思っていた。
夢中になることも減っていた。
可能性の扉を感じてそこに突き進むのが大好きだったのにそれが全く心を揺さぶらなかった。
可能性を探すのは今も無意識にしている。
でも突き進めるものを見つけられない感じ。
進み方も成長の仕方も学び方も変わったのだと気がついたのは数年前。
ただ味わうだけでいい
やりたいことがわからない焦燥感の中にいるなら
今できることをやるだけでいい。
そこにやる気とかモチベーションとかも要らなかった。
何らかの感情を起爆剤にして生きてきたから その熱さがないのが手応えなくてわからなかったのだろう、と今なら思える。
今できることをただ行う。
その中から現れる気づきに委ねて試行錯誤する。
それだけでよくて
何かしら無理に引っ張ら必要はなかったのかもしれない。
それすら、体験したからわかることかもしれない。
体験することを減らしなるべく無駄を減らして生きることを良しとしてきた先祖のやり方、いや母のやり方の終わり。
無駄な体験なんて何一つないと知ったのは最近。
確かに戦前までの人生50-60年で終わる時代は無駄をやってる暇なんてなかったのかもしれない。
経済的な理由もある。
何かを切り捨てないと生きていけない。
そう思っていた。
地球を知り歴史を追いかけ、感情を知り、とさまざまなことを知っていくと無駄は何一つない。
自分の人生を振り返って
『これは無駄な体験だった』と思い込み.ややもすれば憎んでいた自分の体験を 拾い上げ大切に丁寧に紐解いていく。そこにあったたくさんの気づきは、その後の人生にどれほど役に立っていたことだろう。
何も無駄なことはなかった。
そう気がつくと 自分の深いところの何かが溶けていく。
美しい季節の中で 過去が変化していく。
現れてくるのは
悩みながら、ずっこけながら、それでもひたむきに生きた自分への愛おしさだけ。