見出し画像

第20回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2019年4月10日)

※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。

アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)

※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表) 


はじめに

西川:
 はい。始めましょう。今日は114ページから。一番盛り上がってるところですが、そのまえにちょっと聞いといてください。 

 舞鶴にある『グレイスヴィルまいづる』っていう特別養護老人ホームにダンサーの砂連尾さん[*1]と一緒に通い始めて、10年になります。そこの特養の広報誌[*2]に毎月400字のエッセイを書いてます。400字ってのがなかなかやっかいやね。

 それで、最初の頃は砂連尾さんのダンスワークショップの様子を書いたりしていました。それは砂連尾さんの本[*3]が、晶文社から出たんですけどそこにもちょっと載りましたね。

 最近はダンスワークショップについて書くよりも自分の身辺雑記みたいなこと書くようになってます。そこに「午前3時半の星空」というタイトルでエッセイを書きました。それをちょっと最初、読ませてください。

[*1]砂連尾さん:砂連尾理(じゃれお おさむ)1965年生まれ、振付家、ダンサー。立教大学 現代心理学部・映像身体学科 特任教授。近年はソロ活動を展開し、舞台作品だけでなく障がいを持つ人や老人との作品制作やワークショップを手がけたり、ジャンルの越境、文脈を横断する活動を行っている。

[*2]特養の広報誌:グレイスヴィルまいづるが毎月発行していた広報誌『グレイス村だより』。2020年4月で連載は終了した。アーカイブの一部はこちらから。https://totsutotsu.amebaownd.com/

[*3]砂連尾さんの本:『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉: ダンスのような、介護のような』砂連尾理著、 晶文社,、2016年。「とつとつダンス」は京都・舞鶴の特別養護老人ホームで、ダンサー・振付師砂連尾理主催で始まったダンスワークショップの総称。お年寄り、ホームの職員、地域住民らが参加するワークショップとダンス公演。

 年上の友人から便りが来た。白内障の手術を受けて驚くほど見えるようになったという。ことに、夜空の星の多さに、帰り住んだふるさとへの誇りと愛が増したらしい。三重県桑名市に移り住んだ老夫婦が営む農家民宿に泊まってきた。
 「何もないところですがゆっくりしていってください」とご主人。手作りの野菜料理をたっぷりいただいて、早くから寝てしまった。午前3時半、目覚めて庭に出た。「満点の星とはこれか」と納得した。しばらく眺めていると、さらに微かな星の光が届けられる。来てよかったと思う。
 朝食のとき夜中の感動を伝えると、ご主人は「午前3時頃の星は、なににも増して澄んでいますからね」と答える。夜の底に輝く星の数々。日中の太陽で隠されていた小さな宝石群が姿を見せる。実は昼の空にも星は存在するが、気づかないだけだ。年を重ねて人生の輝きが衰えたときにこそ見えてくる星空もあるだろう。そう思うと、これからの楽しみが増えた。

 「本当のことは目には見えない」という言葉が『星の王子さま』にはありますが、目に見えるときもあるんです。昼の星は見えないけど夜には見える。同じ夜でも午前3時半みたいなね。そういう時にこそはっきり見えてくるものもある。

 人生も自分に勢いがあって、自分の人生を考えるときに、自分が中心に光り輝いている時ってやっぱりあると思うんです。青春時代というか若いときってたぶんそうなんです。

 人の世話を受けずに自分でガンガンガンガン人生切り開いていこうとしてるときは、恐らく、自分の人生の中心にあるのが自分で、その光ってすごいと思うんです。そういうときには、周りにいてる人たちの小っちゃな支えとか、ほんの少しだけれども、なくすわけにはいかんような関係が、目に入らないんですね。

 自分が自分の人生の主力エンジンでなくなってくるとき、「自分の力だけで自分の人生、前に進んでる」と思えなくなってきたときに、通常、「老いの衰え」というか「自分の衰え」っていうかたちに囚われる。やがては自分が消滅するということで、何かものすごく切ない気持ちにも襲われるんです。 

 人の活動が周りに感じられない夜の午前3時半の、夜の空に初めて、しばらく眺めていると、届けられる微かな星の光みたいなふうに、色んなものが見えてくるんだと思うんです。今でも僕そんなに見えてませんけど。

 でも以前に比べると、みえてくるようになってきました。僕もそれなりに上昇志向強い男ですから、「准看護師になったら看護師」とか、40過ぎても大学行ってとか。そうやっているときにはやっぱり自分が中心に輝いてたんですけど、少しづつ、なんかそうでなくなってきました。違う光景が自分を包んでるなということに気づきはじめてるっていうのが少しあります。

 これから先はさらに「元気に元気に!」じゃなくて、さらに自分がかつてはできていたことができなくたったりだとか、本当にほんの些細なことでも自分にありがたみが増してきたり、ってなっていくんだと思うんです。そういう意味では、あの星空に「ああ、いいなあ」と思った気持ちが自分の人生にこれから待ってるのかもしれんな、みたいな気がします。

キツネの登場

西川:
 今日は、114ページのきつねとの出会いのところです。『星の王子さま』の中では名場面、一番有名なところですよね。だからページのボリュームもけっこうあります。この後に王子とパイロットが井戸を探しにいって、井戸の水を飲むところが、いわゆるクライマックスになります。

 と、そのときでした。キツネが姿を現したのは。
 「こんにちは」とキツネが言いました。
 「こんにちは」と王子さまはていねいにあいさつを返し、後ろを振り向きましたが、なにも目には入りませんでした。
 「ぼくはここだよ」と声が聞こえました。「りんごの木の下さ……」
 「君はだれだい?」と王子さまはききました。「君は、なかなかすてきだね……」
 「ぼくはキツネさ」と答えが返ってきました。

 「おいでよ。ぼくといっしょに遊ぼうよ」と王子さまはキツネをさそいました。「ぼくはとってもさみしいんだ……」
 「ぼくは君とは遊べないよ」とキツネは言いました。「なじみになってもらっていないからね」
 「そう。ごめん」と王子さまは答えました。 
 けれども、少し考えたあと、王子さまは言葉をつぎました。
 「『なじみになる』って、いったいどういうことなの?」

 はい。ここまでで、いったんやろうと思います。

 これまで、王子は自分の星を出てからさまざまな小惑星を、巡ったり、地球にたどり着いてからも、ヘビだとか、本当に見栄えのしない小っちゃな花と出会ったりだ、山の上に登ってこだまといろいろやり取りしたり。それからついこの間は、5000本のバラ園に行って「この世にたった一輪しかない花を宝物にしてたつもりだったのに、僕はたいした王子じゃなかったんだ」みたいな感じで、泣き出してしまっていました。

 前回も言いましたけど、「王子」って、自分のことを名乗っているのは、ここが初めてです。でそれが誇り高い意味じゃなくって、「王子じゃなかったんだ」っていう、失望というか。自己価値観の低下の極みだった。

 それまでは、<だから>大した王子になろうとしてたわけです。そこでキツネと出会うわけです。

 星を出ていくとき。ここですね。59ページのところですけど、3行目、いろんな小惑星を回るときに書いてあります。10章の頭。

なにか役に立ってあげられることはないか、なにか勉強になることはないか。そう思って、王子さまは手始めに、そうした小惑星を訪ねて回ることにしました。

 バラとのいざこざがあって、自分の星をあとにするわけです。そのあと王子は何を考えていたのかっていうと、「何か役に立てる人間になる」でした。何かを勉強して、自分をより高めるという方向にいった。そういう意図があって、旅を続けていたわけです。

 つまり「大した王子」になりたいと思ってるわけですよね。つまり、自分のことを少なくとも「王子」だとは思っていたわけです。そしてその王子はたった一輪の花が宝でした。だから、地理学者と会ったときにも「バラについて書かないんですか」みたいなことを、堂々と言ってのけたわけです。まあ「いや、はかないものは書かないからね」みたいな感じで退けられてしまうんですけど。

 でもよく読みこんでみると、そのとき自分を単なる「王子」ではなくて、うっすらと「大した王子」と思っている節があります。その根拠になっていたのが、自分のバラが世界でたった一輪のはずだという認識だったわけです。

 ところが地球にやってきてこの5000本のバラを見たときに、それが、ガラガラっと崩れてしまう。オンリーワンやと思ってたものが、決してそうではなかった。たくさんのうちのたった一つにしか過ぎなかったって思ったときに、彼の、自尊心というかそういうものが崩れてしまうわけです。

 ここは、自尊心と自愛心の違い[*4]を考えたほうがいい。自尊心というのは自分のこと、自惚れに極めて近い感情です。自己肯定感といっても「自分はより優れている」と、何かと比べてより優れているという理由付けがあって自分を意味がある存在やと思ってるわけですね。「自愛」というのはまた別のことやと思うんです。これはルソー[*5]が『エミール』[*6]にも書いていたと思うんですけど。

 とにかく自尊心がへし折られるわけです。それで、情けなくも泣き崩れてしまうっていったときに、キツネが姿を現す。だからこの、絶望の淵に立たされた王子が変わるための重要人物、キーパーソンとしてキツネが現れる。

[*4]自尊心と自愛心の違い:ルソーによると、自尊心は人と比べたときの自分。自愛、自己愛は自分を大切にする心。ルソーはどちらかというと自己愛を重要とした。→編者

[*5]ルソー:ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年6月28日 - 1778年7月2日)フランス語圏ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家。先駆のトマス・ホッブズやジョン・ロックと並びルソーは、近代的な「社会契約(Social Contract)説」の論理を提唱した主要な哲学者の一人である。-wikipediaより

[*6]エミール:『エミール、または教育について』(フランス語: Émile、ou De l'éducation)は、教育の性質と、それを「最高かつ最も重要」であると考えたジャン・ジャック・ルソーによって書かれた人間の性質に関する論文である。「サヴォア司祭の信仰告白」と題する部分のために、『エミール』はパリとジュネーブで出版禁止とされ、初版刊行の1762年に公開の場で焼かれた。フランス革命の間に、『エミール』は新しい国の教育制度となるもののヒントとして役立った。-wikipediaより


キツネの挨拶

西川:
 さて、『「こんにちは」とキツネが言いました』ということです。これもキツネのほうから挨拶をしていますね。きちんと向こうから挨拶をしてくるのはほとんどないですよね。キツネは何かを述べ伝えに来てると考えることができます。

 王子が何かを求めてとかっていうんじゃなくて、王子が挨拶をしたから返事をしたというんじゃなくて、王子に自らの存在を向こうから示してきてるわけですね。

 だからそういう意味で何かを述べ伝える者としての登場の仕方としては、やっぱ適切なわけです。こういう細かなところに、サン=テグジュペリはけっこう気を使ってるので、そこもきっちり読むべきかなと思います。 

 なので返事のやり方が大事です。『「こんにちは」と王子さまはていねいにあいさつを返し、後ろを振り向きましたが、なにも目には入りませんでした』 この、姿を現したんだけれども声から始まって姿が目に入らないていうのは、パイロットが王子に起こされたときと同じです。

なんと、明け方、不思議な小声にぼくは起こされたのです。こんな声が聞こえてきました……。
「すいません……、ヒツジの絵、かいてよ」

 要するに姿を見るより先に「すいません、ヒツジの絵、かいてよ」という声で、王子との出会いが始まっています。キツネの場合もそうなんです。

 このことの意味も大事です。「見る」は、見る側の指向性の範囲の中に入れへんかったら見えてきません。自分が見てるところにその人がいなかったら見えないんですよ。要するに、見るものの意思っていうか行為に左右される。

 ところが声は前からも後ろからも聞こえるわけです。見えてないところからも来る。そういう意味でもうまったくの受動になってしまうわけです。

 しっかり聞く場合には話は別ですけども、少なくとも見るっていうことと聞くっていうこととは、そういう違いがあります。声は向こうから訪れてくる。そのときに王子の作為はもうほとんど入ってない。

 これは言ってみたらね、神からの使いがなにかを伝えに来るときとほぼ同じような感じですね。だから自分がなんかを望んで来るというよりも向こうからやって来るというかたち。それがここでもやっぱ繰り返されてるということです。 

「ぼくはここだよ」と声が聞こえました。「リンゴの木の下さ……」

 りんごの木は聖書にありますね。アダムとイブがヘビにそそのかされてりんごの木の実を食べて、それで知恵がついたとたんに、アダムとイブは自分たちが裸であることを恥じて、エデンの園を追い出されるっていう話あります。

 知恵の象徴です。人智の象徴。その知恵を表すりんごの下にキツネがいる。だから、新しい知恵を述べ伝えにきた、そういうメタファーをここに重ねて読むことは、キリスト教の文化圏の中では、ごくごく普通にされると思います。

 聖書的な常識がない日本でこれをいきなり読んだときには、りんごの木であろうが栗の木であろうが別に関係なさそうなもんですけど、ヨーロッパ、とくにフランスみたいなカトリックの強いところでは、りんごの木にキツネが現れるっていうのは、そういう意味合いが感じられるわけです。

「君はだれだい?」と王子さまは聞きました。「君は、なかなかすてきだね……」

 っていうのがすぐに入るところが面白いところです。単純に「誰だい?」って聞いてるんじゃなくて、「なかなかすてきだね」っていうような、質問だけじゃなくて自分の気持ちを伝えるみたいなところがあります。

 このあと、「ぼくといっしょにあそぼうよ」「ぼくはとってもさみしいんだ……」って続きます。ここでもういきなりキツネに対して、王子は自分の気持ちをどんどんどんどん伝えているわけです。それはある意味、泣き伏して自分というものに一番つらい思いをしたときでした。でも、このときのキツネの返事が「ぼくは君とは遊べないよ。なじみになってもらっていないからね」っていうやつです。

 この「なじみに」が翻訳によって違うところです。英語版だと、「アプリヴォワジー(apprivoisé)」って書いてある横に「ドメスティック(domestic)」って書いてあります。仏和辞典で「なじみ」というのを引っ張ると、この、「ドメスティック(domestique)」というか「親密」とか「家族的」とかっていうような感じの、こっちの単語が出てくると思うんです。

 「飼いならされてないからね」とかいろいろ翻訳はあるんですけど、稲垣さんは、これを「なじみ」というふうに訳しました。その理由は、『「星の王子さま」物語』[*7]に詳しく書いてあって、ちょっと専門的になりますし、フランス語やってる人の中でも意見の違いがあると思うんで、僕はそこには立ち入りませんけれども。でも、この「なじみになる」という翻訳が、僕がこの『星の王子さま』をケア論として読めるんじゃないかと思った一番の理由です。

[*7]『「星の王子さま」物語』:稲垣直樹著、平凡社新書、2011年。

認知症ケアと『星の王子さま』

西川:
 認知症ケアについて僕はここ20年ぐらいずっと関わってるわけですけど、なじみの関係を大切にすることが認知症ケアの基本と言われているんですよね。認知症によるさまざまな認知機能の低下があって、知的な機能の低下があって、新しい環境とかに即順応できない。認知症の人はそういう困難を抱えてるわけです。だからそういう人にとってはエピソード記憶として言語化できなくても自分の体に馴染みのあることだとか、それからなんか見覚えがあるという程度でもいいんです。

 要するにそういう、身体に染み込むような記憶、身体的な記憶っていうものを基盤にした関係づくりが非常に大事になってくる。もうこれは、臨床ケアのもう鉄則なんですよね。認知症ケアのキーワードになる「なじみ」がですね、この星の王子さまにも出てくる。

 その認知症ケアでは「なじみの関係が大事です」とだけいって、「なじみ」についての説明はないです。もう普通の一般的な日常用語として、「なじみってわかるでしょう」っていう感じでもうサーッと通り過ぎられるんですけれども、「いや、馴染みの関係って、一体何なんやろう」と問いかけたときに、一つは『星の王子さま』の中で、こういう考え方があると受け取ることができるんじゃないか。ここが僕が最初『星の王子さま』をケア論として読む可能性があると思ったところなんです。

B:ちょっと、質問いいですか?ここって「顔見知り」みたいな訳し方でもいいんですか?

西川:仏和辞典で引っ張ると、「飼いならす」ですねぇ。人間と人間の関係だとあんまり使えないんです。キツネが野生でしょう。だから、「犬がなついてない」ていう、「なつく」と訳してたりもしてると思います、

C:ふーん。

西川:一番最初の翻訳者の内藤濯(ないとうあろう)[*8]さんは「飼いならす」と訳しています。別にそれも間違いとはいえないわけです。野生動物と人間とは普通には友達にはなれないので。でも「飼いならす」っていうと、なんかものすごいこう上下関係感じるでしょ。

C:ああ。

[*8]内藤濯:(ないとう あろう、1883年7月7日 - 1977年9月19日)フランス文学者、評論家、翻訳家、エッセイスト。フランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『Le Petit Prince』(直訳すると「小さな大公」)を初めて『星の王子さま』と訳したことや、1908年に雑誌『音楽界』の中で「印象主義の楽才」として日本に初めて作曲家のクロード・ドビュッシーの作品を紹介したことで知られる。- Wikipediaより

西川:139ページ(稲垣直樹著『「星の王子さま」物語』を読んで説明)。「ぼくは君とは遊べないよ。なじみになってもらっていないからね」のところ。「動物であるキツネを目的語として想定して、アプリヴォワゼ(apprivoiser)っていうのを使っている」とありますね。だから「飼い馴らす」でよさそうに思えるが、「この語にサン=テグジュペリが独特の意味を籠めていることがすぐに分かる」と続いています。「きずなを結ぶという意味だ」とキツネが後に説明していますから。

 さらにキツネは、お互いに相手がかけがえのない存在であると認識し合うことだと続けています。こうなると、人間同士の対等な関係を想定しているのであって、「(動物を)飼いならす」や「(人を)手なずける」などという主従関係ないし上下関係は当てはまらないことになるわけです。

 また、ある程度教養のあるフランス人ならば、語の形から、すぐに語源的なこの語の成り立ちが思い浮かぶ。接頭辞 a- +古典ラテン語のprivatusと、古典ラテン語にまで遡らないにしても、次のことぐらいは字面を見ただけでわかる、ないしは想像がつくと。

 つまり、接頭辞a-は「行為の方向・開始」を表し(『「星の王子さま」物語』P143〜P144より)、その次のところは「個人的な、プリヴェ(privé)」と書いてある。語源的には「(相手を)個人的なものにする」「(相手を)自分の個人的な領域に入れる」となって、主従関係とか上下関係は必ずしも前提になっていないことが理解される。(『「星の王子さま」物語』P144より)

 ということで。「飼いならす」って仏和辞典で調べると出てきますが、語源的に見ると、「個人的なものにする」「個人的な関係になる」ことのほうが、意味としては強いと読むことができるわけです。さらに、あとでキツネがいろいろしゃべることを勘案してみると、主従関係じゃなくて対等の関係でお互いがかけがえのないものになるって言ってるわけです。

 「飼いならす」より「なじみ」を訳語に選んだ、稲垣さんの理由は以上の通りです。今まで、ほとんどの訳者が「飼いならす」と訳していたものを「なじみになってないからね」と訳したっていうことですね。

 

「人間」とは?

西川:
 で、次です。

 「君はこのあたりの人じゃないね」とキツネは言いました。「いったい、なにを探しているの?」
 「人間たちがどこにいるか探しているんだよ」と王子さまは答えました。「『なじみになる』って、いったいどういうことなの?」
 「人間たちはねえ」とキツネは言いました。「鉄砲を持っていて、狩りをするんだ。なんとも困ったものだよ! でも一方で人間たちはニワトリを飼ってる。ニワトリがいなかったら、人間たちはいいことなしさ。君、ニワトリがほしくて、やってきたの?」
 「そうじゃないさ」と王子さまは答えました。「ぼくは友だちがほしいんだよ。『なじみになる』っていったいどういうことなの?」

 ここ、完璧に、王子とキツネの話がかみ合ってないですよね。かみ合ってないところがまた面白いとこなんですけど。『「君はこのあたりの人じゃないね」とキツネが言いました』というのも面白い。「このあたりの人じゃないね」なんて言うのは都会的ではないです。

 狂言なんかでは「我は、なんとかのかんとかに住まう、何々と申す」って必ずいいます。「このあたりに住まう、なんとかである」「太郎冠者である」とか名乗るセリフがありますけれども。人はそもそもそんなに住んでるところからそんなにうろちょろしないのがこれまでの人間のあり方だったわけですよ。ところがそういう根無し草的な生き方、デラシネ[*9]的な生き方は、都会的な生活が表に出てきた近代以降の話なんですよ。

 とにかくキツネの場合は、このあたりの人じゃなかったら、それは「何か探しに旅してきた人や」となったわけです。「単なる異人」というよりも「何かを求めて旅をしてる人」。このあたりもけっこう面白い話やなと思います。まあこれも今の社会では、そう簡単にはピンとこない話なんですけど。

 王子の返事は「人間たちがどこにいるか探しているんだよ」だったわけですけど、この「人間」が一体何なのか。以前、ディオゲネス[*10]の話もしたりしたと思いますけど。ともあれ、こうやって最初は「何を探しているの?」って言って、まあ一旦答えてるんです。今までとはだいぶ違うところです。

 これまでは質問されたことに答えなかったりしたからね。「いったい、何を探してるの?」って言われても「なじみになるって、いったいどういうことなの?」って問い返してたのがこれまでの王子だったんですけど、ここでは一旦答えてるんです。友達になってほしい、一緒に遊んでほしいと思っているときは、返答の仕方変わるってことですね。

[*9]デラシネ:フランス語で根なし草、転じて故郷や祖国から離れたもしくは切り離された人を意味する。-wikipediaより

[*10]ディオゲネス:古代ギリシアの哲学者。黒海沿岸のシノペの生れ。アンティステネスの弟子でキュニコス学派の代表的人物。禁欲・自足・無恥を信条とし,因襲から解放された自由生活を実践。樽(たる)に住む極端に簡素な生活はアレクサンドロス大王に羨望(せんぼう)されたという。裸同然の風体,公衆の面前での性交,白昼に明かりを手に〈人間はおらぬか〉とよばわったなど,奇嬌な言行にまつわる逸話が伝わる。-コトバンクより

 王子の「人間たちがどこにいるかを探しているんだよ」に対する返事にキツネのおもしろい人間観が出てますね。「ニワトリ飼ってるとこだけが、ええってことやから、人間のええとこっていったら、ニワトリを飼ってるとこ…ていうことは、人間を探してるっていうことは人間が飼ってるニワトリを探してるんやろ?」って、キツネはキツネなりの価値観で「人間を探してる」ってことの意味を解釈して答えてるわけです。

 「人間探してるんや」と言ったって、キツネにとっては、人間は鉄砲持ってるときには厄介だけど、ニワトリを飼っているときだけは、なんとかキツネたちにとって意味のある存在なわけです。だから「人間を探してる」王子はすなわちキツネと同じようにニワトリを探してるんだろ?となったわけです。

 ここはディスコミュニケーションのように見えるけれども、キツネがものすごい真摯に答えてることがわかります。なぜ王子が人間を探すのか?という理由を考えているわけですよ。

 でもまあ、話としては食い違ってるわけです。王子は「そうじゃないさ」「ぼくは友だちがほしいんだよ」と応えています。「人間」を「友だち」に言い換えてますね。「食べるためのものじゃなくて友だちがほしいんだ」と。「人間を探すっていうのは友だちを探すことなんだ」と。だからこれ面白いですよね。

 「人間とは何か」っていうときに「友だちです」っていうような定義は普通ないじゃないですか。「ホモ・サピエンス、知恵ある者」とかですよね。そういうふうに人間を定義したくなるけれども、ここで王子は「人間を探してる」に「いや、ニワトリを飼ってるあれか?」と返されたときに、「いや、友だちを探してるんや」と応えているわけです。「人間とは友だち」と言ってるわけですよ。何か動物とは違った能力を持った、動物界の中でのトップ、神の似姿としての人間。そういう人間のイメージを語ってるんじゃなくって、「友だち」なんですよ。

 和辻[*11]の『人間の学としての倫理学』[*12]にもありますけど、「人間」という言葉そのものが、中国語から日本語になってきたわけです。もともとは「じんかん」と漢字読みで普通に読んでたそうです。それって「世間」という意味なんです。「人がいてる」っていう。

 世間を表す「人間」「じんかん」という漢字が、日本にやってくると「あの人間は」っていうふうに「ある個人」を指すことにも使われるようになってきた。ここが、ものすごく面白いところです。

 人間の学としての倫理学。「倫理」の「倫」というのは「友」です。友だち同士のあいだの、大切にしなければならないことをどう考えるかっていうのが倫理学なんです。でも、「人間の学としての倫理学」って言ったときに「人間というのは個人を指すこともあるけど、本来は共同的な存在という意味が人間という言葉にはあるんや」と、和辻は論を進めていくんです。

 まあそれと同じようなことをここで王子が言っていると、読むこともできます。でも「なじみになるって、いったいどういうことなの?」って、同じく自分にとってわからないことは、問い続けます。

[*11]和辻:和辻 哲郎(わつじ てつろう、1889年3月1日 - 1960年12月26日)日本の哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られ、その倫理学の体系は和辻倫理学と呼ばれる。日本倫理学会会員。兵庫県出身。- Wikipediaより

[*12]『人間の学としての倫理学』: 和辻哲郎 著、岩波書店"


「…」に何入れる?

西川:

 「みんながふだんは思ってもみないことなんだ」とキツネは答えました。「それはねえ、『きずなを結ぶ……』ってことだよ」
 「きずなを結ぶ?」
 「そうだよ」とキツネは言いました。「君はまだぼくには、ほかの十万人の子どもとまるで違いがない子どもさ。だから、ぼくは君がいてもいなくても気にしない。君のほうでも、君はぼくがいてもいなくても気にしないだろう。ぼくは君には、十万匹のキツネと同じような一匹のキツネさ。だけど、君がぼくのなじみになってくれたら、君とぼくとはお互いになくてはならない者どうしになる。君はぼくにとって、この世でたった一人の子どもになるし、ぼくは君にとってこの世でたった一匹のキツネになるのさ……」

 さて、王子は「なじみって何?何?」って訊くわけです。人間のときでも「友だち」の話が出てきてましたけど、ここでは、「十万人の子ども」、「十万匹のキツネ」が、「たった一人の子ども」になったり、「たった一匹のキツネ」になる話をキツネは始めます。

 キツネと出会うその寸前、王子がなぜうつ伏して泣かなきゃいけなかったかといったら、「たった一輪だけ」と思っていたバラが、この庭だけで5000本ものまったく同じバラがあるっていうことにものすごく傷ついたからですよね。「たった1本、たった一輪の花」と思ったのが、この庭だけで5000本もあるっていうことに傷ついたわけです。

 だから「事実、ある」ということ。実際、子どもは10万人以上、もっといるでしょう。キツネも十万匹以上いるかもしれないけど、目の前にいるその子どもなり、キツネが「10万人・匹の他と変わらない者ではなく、自分にとってたった一人の子ども・キツネ」に「変わるんだ」ということ。そのことを、「きずなを結ぶ」ことの説明、すなわち「馴染みになる」ことの意味として、キツネは語ってきているわけです。

 この話はさっきその「ぼくはたいした王子じゃないんだ」という、一番王子が傷ついた事柄の核心に迫る答えになってますね。「1本やと思ってたのが5000本あった」という事実でへたっていたわけです。ところが「きずなを結ぶ」と、たとえ10万人の子どもがいても、ほかに10万人子どもがいても、もう「ぼくにとってこの世でたった一人の子どもになる」って言われたわけです。

 これは王子にとっては、何というか、喉から手が出るというか、「えっ!」って。ひょっとしたら、一番その自分が倒れ込んだ、その理由そのものを変えてくれるかもしれない。そういう話であることがすぐわかるわけです。

「少しわかってきたよ」と王子さまは答えました。「花が一輪咲いていて……。その花はぼくのなじみになってくれたと思う……」

 次に続くこの部分。みなさんに聞いてみたいんです。「花が一輪咲いていて……」の「……」に、いったいどんな言葉が入ると思いますか?それと「その花はぼくのなじみになってくれたと……」の「……」。何が入っていたと思います?どうでしょう。別に正解があるわけじゃないんです。ここでみんながどういう想いを込めるか。

 Aさん、どうですか。

A:そうですね。「花が一輪咲いていて【どこにでもあるような花だった】」「その花はぼくのなじみになってくれたと思う。【だから世界で一つだけのお花になったんです】」そんな感じですかね。

西川:うん。どうなんやろうね。

A:これは花が主語になっているんですよね。

西川:うん。

A:
 「自分が花をなじみにした」んじゃなくて、「花がぼくのなじみになってくれたと思う」って言ってる。これ、手なずけたと訳したら「花がぼくをてなずけた」とかっていうことになっちゃうから。

 僕、この話に、人間はあんまり出てこないけど、王子さまもたくさんいる人間の一人ですよね。花はあんまり経験があるようには書かれてないけど、もしかしたらほかにも色んな世話をしてくれた人間がいてたのかもしれないですよね。

 だから王子さまも最初はたくさんいる中の一人の人間にすぎなかった。でも、王子さまが世話をしてくれたことによって、花にとって王子さまが世界で一人の人間になったんじゃないかな。王子さまが自分のことじゃなくて、花のことを語っているところが、僕は王子さまちょっとわかってきたな、みたいな感じがしましたね。

西川:なるほど。他はみんなどんなの考えますかね。

E:色んなことが頭に浮かんで、言葉にできない。そんなイメージがあります。何か言葉をはめるというか言葉が単純に出てこなかったのか。言葉にならなかったんだろう。

西川:
 うんうん。ここね、案外さらっと読み飛ばすかもしれないけど、ものすごい、読まないといけないところだと思います。読みこまないといけない。「少しわかってきたよ」と言っているんですよ。何がわかったんかな? 

 最初の頃、第8章ぐらいから「すっかり花に心を奪われてしまいました」(P.49)って経験をしてるわけですよね。でも、「なんかやっかいな花だなあ」と思ったりして。まあでもこういろいろ、花のことが好きになってしまって。でもやがて、とんでもない花かもしれないと思い始め、「王子さまはたいそうみじめな気持ちになっていきました」(P.52)っていうことですよね。この、後ろのほうはだいぶ後になってからの王子の反省です。星にいたときのことは52ページの後ろから2行目までで終わりです。

 「深刻に受けとめ、王子さまはたいそうみじめな気持ちになっていきました」(P.52)。だから後に飛行機乗りのぼくに語った「花の言うことなんかに耳を貸さなければよかったんだ」という知恵はまだありません。キツネと出会ったときにはないんですよ。

 星を出てきたときもみじめな思いをして出てきたんです。深刻に受け止めて。花が一輪咲いていて、王子さまはその花に心を奪われて。奪われて、いろいろ世話をするようになった。でも彼女のわがままに「なんかとんでもないやつかな」と思いだして、すごく悩みだして、もうなんかすごくみじめになってしまった。で、出ていってしまった。っていうのがこのときの気持ちです。バラを好きになったことが自分の幸せにつながらなかったんですよね。翻弄されてしまった。

 でも、そういうことがあったとしても「その花はぼくのなじみになってくれたと思う……」とここで初めて思ってるんですよ。キツネとのやり取りがあったここで。

 98ページで「はかない花をたった独りで置いてきた」っていう反省を王子はしました。地理学者に「あの花は、はかないんや」って聞いて、王子さまは自分の星を離れたことを後悔したんです。「ぼくはぼくの星に花を独りぼっちで置いてきてしまったんだ」(P.98)って、言ってるわけです。それからその山の上で、こだまと話をやってきたとき。フッとこう、バラのなんかよかったところがシュッシュッと出てきてるわけですよ。

 山の上のときには、「ここでは向こうから話しかけてくれる人は誰もいない」「何か言っても同じことしか返してこない」「さみしいな」ってなっている。そうすると、「あの面倒な花やと思ってたあの花、実はいつも向こうから声をかけてきてくれてたな」って、バラの優しさに、このとき、気がついてるわけですね。

 でも、まだ「なじみ」とは思ってないです。この世でたった一輪の花とは思ってはいないんです。なぜなら、5000本のバラを見たとたんに、「たった一輪の花やと思ってたのに5000本もあるやん」って言って、ガタッと落ち込んだわけですから。

 キツネと出会って、「きずなを結ぶ」話を聞くまでは、バラのことは思い出せたとしても、「たった一輪のバラ」、「かけがえのないバラ」としては思い出せてないんですよ。でもこの話を聞いたときに「その花はぼくのなじみになってくれたと思う」と言っているんです。

 つまり、バラに対する思い、考え方に、すごく成長、飛躍があるんです。ここをどう読み解くかはものすごく大事なところです。だって、ついさっきまで、「どこにでもあるバラやったんや」ってバラのことを、もういっぺんドーンと突き落としてるわけですから。

 でも、その理由、なぜ「その花はぼくのなじみになってくれたと思う……」と思ったのかについては書いてないわけですよ。キツネが言っているのは一般論です。「きずなを結べばこうなる」っていうことを言ってるわけです。

 でも、もう王子は「その花はぼくのなじみになってくれた」と気づいてるわけです。でも、キツネは、ものすごい重大な、重大な王子のバラに対する、想い方の変化には全然気づいてない。当たり前ですけど。

 

かけがえのない人がいなくなった後で

西川:

  「そうだろうね」とキツネは答えました。「地球上では、なにが起こったっておかしくないからねえ……」
 「違うよ、地球上なんかじゃないよ」と王子さまは言い返しました。
 キツネは、はてな? と思いました。
 「地球じゃない星でのことなの?」
 「そうだよ」
 「その星には、狩人たちはいるの?」
 「いないさ」
 「そいつはいいや! で、ニワトリは?」
 「いないさ」
 「願ったり叶ったり、ってことはないんだなあ」とキツネはため息をつきました。

 このあたりは、ちょっとした、息抜きみたいな文章です。これ、サン=テグジュペリのずるいとこですよ。本当はものすごい変化が王子の中で起きてるのにそのことについて説明するような話が出てこない。

 どんなことを考えて気持ちが変わったのかって。思いません? 

 例えば「この世に一人だけや」と思ってた「この人こそが僕の愛する人や」とか思って、恋愛でも結婚でもしたとします。でもいろいろあって別れてしまった。一時期つらい。そこで「いや、彼女もいろいろいる女の人の一人や」とあきらめるのが普通です。次の人が現れたら「この人でもいいや」って昔の人のことを忘れたりするのは普通なんですよ。

 だから王子もある意味ではバラに対して徐々にそういうふうな心持ちになっていたのに、こう結論づけた男が、なじみの話と、きずなを結ぶ話を聞いて「少しわかってきた」って言ったわけです。ぜんぶは言葉にできなかったけど「その花はぼくのなじみになってくれたと思う」といった。ものすごい変化が起きてるわけですよ。 

 色んな出会いと別れが人生の中にあって、別れた人のことをいつまでも繰り返し繰り返し思うのは消耗するだけだし、もうすっぱりと忘れて、過去を精算、整理するかたちで生きるやり方。これももちろんあるんです。僕自身も今までそういうかたちで色んなことを忘れようと努力していたこともありました。

 でもね、「ぼくはこの世にたった一輪しかない花を宝にしていると思っていた。ところが実は、どこにでもあるようなバラを一輪持っていただけなんだ。」「ぼくは大した王子じゃないんだ」(P.114)というこのセリフと同じで、ものすごく大事で愛していた人と別れてしまったあと、自分の気持ちを落ち着かせるために「あのときちょっと…俺はちゃんとわかってなかったんや」「あのときはたいした結婚生活でもなかった」「たいした恋愛でもなかったんや」「本当の恋愛はこれからや」ってけりをつけてしまうと、相手の人を貶めるだけじゃなくって「僕も大した王子じゃなかったんだ」っていうことになるんです。自分の人生を否定することになってしまう。

 一度愛した人のことをそういうふうに「実はたいしたことなかったんや」って切り捨てることは、自分の人生まで切り捨てることになる。だから、簡単に整理せずにかけがえのなかった人は、かけがえのなかった人としてそのまま受け止める。僕が『星の王子さま』から一番学ぼうとしてるのはこれです。

 かけがえのないと思っていても、もう目の前にいない、もう関係を持てないってなると、「いや、あれは昔の話や」とかっていうふうに切らざるをえなくなるねん。でも、心の痛みを感じないようにしてしまうと、そのときその人と一緒に暮らし必死になっていた自分の人生まで否定してしまうことになるんです。

 決して人だけを忘れるっていうことはできなくて、大切な人のことを「大切だった人」というふうに切り捨てる、相手だけを切り捨てることはできなくて、自分も必ず一緒にそのとき死んでしまうみたいなところがある。
 

麦畑に風が吹く音だって

西川:
 次にいきましょう。

 それから、キツネは本題に戻りました。
 「ぼくの毎日の暮らしは、同じことの繰り返しなんだ。ぼくはニワトリを追いかける。人間たちはぼくを追いかける。ニワトリの一羽一羽がみんな似たり寄ったりなのさ。それに、人間の一人ひとりもみんな似たり寄ったりさ。だから、ぼくはちょっとばかり、つまらないのさ。でも、もし、君がぼくのなじみになってくれたら、ぼくの毎日がパッと明るくなるだろうよ。ほかのだれの足音とも違う足音を、ぼくは聞き分けるだろうよ。ほかの人の足音が聞こえたら、ぼくは地面の下にもぐってしまう。君の足音が聞こえたら、ぼくは思わず巣穴の外に出るだろうよ、まるで、音楽に呼びだされたみたいにね。それにだよ、見てごらんよ。あそこに麦畑が見えるだろ? ぼくはパンなんか食べない。小麦はぼくには、なんの役にも立たないのさ。麦畑を見たって、ぼくはなにも感じない。そういうことって、さびしいよね。でも、君は金色の髪をしている。君がぼくのなじみになってくれたら、すばらしいことになる。小麦も金色だろ。だから、小麦を見れば、ぼくは君のことをきっと思い出すのさ。そうなれば、ぼくは、麦畑に風が吹く音だって好きになるだろうよ……」
 キツネは言葉を切りました。そして、じっと長いあいだ、王子さまを見つめたのです。

 僕は、このキツネの麦畑のところが大好きなんです。ものすごく好きですねえ。

 要するに「君となじみになる」ことが「君とぼくとの間ですばらしいことが起きる」だけじゃないってことです。今までまったく価値がなかったような麦畑が「金色だ」ということだけで、ぼくにとってすばらしいものに変わる。かつ、金色という色が見えなくても麦畑を感じさせるような風の吹く音だけでも、ぼくは幸せになると言ってるわけです。どんどんどんどん広がっていくんです。

 だから「なじみになる」ことは、互いが個人的なかけがえのない関係になり、だんだん「世界は二人のために…二人だけが世界」みたいに閉じられたものになるわけではないんです。キツネがいっているかけがえのない関係になるということはそういう狭いものじゃないんです。

 なじみになることによって、その人にまつわるさまざまなことがすべて明るく素晴らしく感じ始められる。これがすごいところなんですよ。それで、そうすると、今目の前になじみになるその人がいなくったっていいわけです。かけがえのない間柄になって、きずなを結んでなじみになっても、その人が目の前にいないことだってあるんですよ。でも「麦畑を見ても君を思い出す」。見なくても、麦畑を吹く風の音でも相手のことを思い出すことができるんです。

 だから、世界がすべて君と関わりのあるようなものとして、明るくなって、自分の周りに現れてくるって言ってるわけです。もう別れてしまい、離れてしまったバラのことを「バラはぼくをなじみにしてくれた。ぼくとバラとはなじみだった」と思うこと。それは、今すぐにバラと豊かな関係がたとえ実際に結べないとしても…結べないとしても、今目の前にそのバラがいないとしても、世界は明るく変わるんです。

 われわれは、実際に関係を持てない…、関係が切れた人間について「どこにでもある愛やったんや」「どこにでもある恋やったんや」って流してしまいがちです。たった今、自分が身をひたしている関係だけを「かけがえのないたった一つの」と思いがちなのがわれわれですが、そうしてたら、もう過去がぜんぶ消えてしまうし、世界も常に相手が目の前にいてお互いが「かけがえのない相手や」ってずっと言い合うような関係でないかぎり、だめということになるんですよね。

 キツネが教えてる「きずなを結ぶ」というのは時間とか空間を越えるような、関係がどんどんどんどん広がっていくような、世界の色を塗り替えるようなものとして語られているわけです。


「なじみになる」ために

西川:

 「ねえ、お願いだよ……ぼくのなじみになっておくれよ!」とキツネはたのみました。
 「そうしたいのは、山々だけど」と王子さまは答えました。「ぼくには、そんなに時間がないんだ。ぼくは友だちを何人も見つけなければいけないし、たくさんのことを知らなければいけないんだ」
 「自分がなじみになるものしか、人は知ることがないんだよ」とキツネは言いました。「人間たちには、なにかを知る時間なんかは、もうなくなっているんだ。人間たちはお店屋さんで出来合いのものを買う。だけどねえ、友だちを売っているお店なんて、ありっこないだろ。だから、人間たちには、もう友だちができないのさ。もし、友だちがほしいなら、ぼくのなじみになっておくれよ!」

 ここの「自分がなじみになるものしか、人は知ることがないんだよ」っていうのは深い言葉だとは思うんですけど、これがどういう意味か、みんなのいろいろな意見聞いてみたいですね。

E:僕もここは、すごく思うとこがあって。人ってたくさん友だちがいることより、一人の人と費やした時間のほうが何か深くて意味がある気がします。実感としてもありますし、そこらへんを読んでて思いますね。とくに時代的に。インターネットで誰でも友だち増えていく時代なので。

西川:
 うん。「なじみになるものしか、人は知ることがないんだよ」から「人間たちには何かを知る時間なんかは、もうなくなっているんだよ」と続くわけですから、「なじみになる」には「時間がいる」ということです。まあちょっと先のほうになりますけれども、127ページ。これも有名な言葉ですね。

 「君が君のバラのために失った時間こそが、君のバラをかけがえのないものにしているんだよ」

 バラのために失った時間。なじみになるには相手のために自分の時間を失うわけですが、「失う」と訳してるのも、稲垣さんの独特のところなんです。「むだ使いする」とか、何かそういうふうな訳になってるところが多いんですけど、稲垣さんの訳では、ちゃんと理由があって「時間を失う」となっている。相手のために、なじみになるために、自分の時間を失わなわないといけない。

E:つまり命を…削ってるとも言うんですかね。

西川:いや、そういうことじゃないと思いますね。たとえば、「何々のために」「相手に気に入られるため」の肩揉みの時間がありますね。これは、「相手を喜ばすために」「ありがとう、と言ってもらうために」だから、実は時間は失ってないんですよ。

E:うんうん。

西川:
 でも、何も返事をしてくれない人、いくら言葉をかけても返事をしてくれない人に心を込めて言葉を選びながら話しかけること。これはもう時間失うしかない。何も返ってきませんから。

 肩もみの時間のような見返りあるような交換の場合は…ギブアンドテイクだったらどれだけ時間がかかったとしても、時間失うことにはならない。この場合は時間は有効に使われてるんですよ。タイムイズマネーみたいな。そうじゃなくって、見返りがないのに相手のために自分の時間を失う、費やすということが、馴染みになること。

 さて、いわゆる今のケア論で考えた場合、ケアする側の中に根拠とか目的を置いてしまうことになるので時間を失ってはいません。見返りを求める以上、馴染みの関係にはなれないとぼくは思います。

 そうではなくて、弱いものに従う。うまくいくとはかぎらないのに従うというような。これは「自由」だからこそできるわけです。そのあたりは難しくなるのでここでは話しませんが、まあこういうケアのあり方を考えるときに、普通のケア論とは違うようなのがいっぱい出てきます。

 たとえば、大阪から東京まで移動するとします。新幹線に乗っている間、パソコン開いてコチョコチョコチョコチョやったりとか本読んだりとかしますよね。これは自分の時間です。自分のためにやってるわけで。時間は失っていません。

 「本読んどこう」とか「仕事の準備しよう」とか、ぜんぶ時間は自分のために使ってるわけです。でもこれは大阪から東京までのこと何一つ知ることになりません。何一つ知ることにならない。

 それから、自分の家から駅まで歩くとき、「何時何分の電車に乗るために」と間に合わすように自分の歩き方を決めて歩いてるとき、その道は十分に自分の知るものにはならないです。

 そうではなくて「あ、こんなところに」と思ったときに、「1本電車遅れるかもしれないけれど、そこにちょっと佇んでみる」としたときに、初めて、足元に咲く花と馴染みになる。そのものを知る機会が始まるわけです。

 その意味で、今の僕たちは行動にすべて自分なりの理由があるわけです。だから人のために失うことができない。自分のしなくてはいけないことがあって、次から次へと動いていくと、何かに足引っぱられたら、それだけで腹が立ってくるわけです。

 「電車、来えへんやんけ。30分も止まりやがって」ってなる。自分が予定してる通りにならないから。でもそのときは失いたくないと思ってるから、ある意味でせっかくぽっかり生まれた空白の20分に何かが得られるということもないわけです。「自分の時間を取り戻そう」ばっかり思ってるから。

 何かのために自分のこの時間を失ってもいいっていう気持ちがない。自分の意図ではないもの…、つまり周りから訪れてくるものをただ待つみたいな。自分から取りにいくんじゃなくって待つ、みたいなことがない。「待つ」って、ほんまに自分の時間を無駄にしているわけです。

 「お待たせしてすみません」て言いますね。だから「待たせる」って悪いことなんですよ。相手の時間を無駄にしてることやから。でも「待つ」っていうことのなかで始めて見えてくることがある。だから、「待つ」ことがこのあとキーワードになってくるんですよ。

 「待つ」ということ。そのために自分の時間を失っていく。それが物事を知るっていうことなんです。それが相手を知るためにはどうしても必要なんです。そういう話になってきます。 

 だからこれ、格言的に読んでも、まあ「何かしゃれたこと、言うてんなあ」と思うけど、自分の具体的な、人生とか、暮らしの中とか、これに当てはまるようなことがどこにあるのかを探すことが大事だと思いますね。

愛する人はたまたま?

B:反論でも何でもないですけど、バラならバラとか、王子もそうだし、キツネもそうだし、属性については語らないじゃないですよね。「馴染みになる」というときに、何か、属性が関係ないんだなという印象がありました。

西川:属性というのは?

B:その人の性格とか人格というそういうことは問わないんだな、ということなんですが。「その人がどんな人物だから」とかじゃないっていう。

西川:そうですね。「好きだから」「好きだから面倒見る」っていうのは、自分の時間失っているわけじゃない。自分の「好きや」っていう気持ちを満足させるためにやってるから。ある意味受け取るものがある。

B:僕は「愛する価値があるかどうか」をその人がどんな人物であるかでいつも判断しているところがあって。だからちょっともやもやしたんです。

西川:
 そうですね。だって、つまらんやつとはもう友だちになりたくない。でも「この人が素敵だから」「この人が賢いから」「この人の側にいればいろいろ教えてもらえるから」っていうのはぜんぶ自分の時間を失うことにならないんです。

 後から詳しく出てきますが、結局、自分の時間を相手のために失うということが大事なんですよ。一番最後に言いたいことは、馴染みになるためには、自分の時間を失うことが必要だということなんです。もっといえば、相手のために死ぬということなんです。サン=テグジュペリの言いたいことは。

 このことがいいか悪いかは別にして、サン=テグジュペリが言いたいことは、そういうことなんです。だから「相手が自分にとってどれだけ価値がある人か」とかは関係ないんですよ。

A:ということは、ある意味、誰でもいい?

西川:誰でもいいけど、誰にでもできるわけないじゃないですよね。

A:じゃ、誰にするかはたまたまでいいんですか。

西川:うん。たまたまになりますね。だからしんぼうが必要。それは考えてやることじゃないと思うんです。

自分の中に理由がない行為

西川:
 パスカル[*13]がパンセ[*14]の中で言ってるけど「神を信じるためには、どうしたらいいでしょうか」「行ってひざまずけ。そして祈れ」と。神への信仰とは何かとか考えるんじゃなくて「まず教会に行ってひざまずけ」って言うんですよ。サン=テグジュペリが言いたいこともそういう感じです。

 自分にとって、確実に神がいるかどうかもわからないのに、とにかくひざまずくことの繰り返しの中で、初めて神とのつながりができてくるっていう考え方なんです。

 僕たちはどうしても常に理由を自分の思考の中に置いときたいわけです。自分の行動の理由がぜんぶ自分の考えの中にあるのが個人主義。今の考え方です。前に言ったように、自由とは自らの中に理由があるという考え方なんですけど、サン=テグジュペリはそういうふうには考えていません。

[*13]パスカル:(Blaise Pascal) フランスの思想家、数学者、物理学者。数学的確実性を信じ、懐疑論に反対。のち宗教的回心を経てヤンセン主義に共鳴し、イエズス会による異端審問を批判した。思想的には現代実存主義の先駆とみなされる。数学では、円錐曲線論・確率論を発表、物理学では、流体(液体・気体)の圧力に関する法則「パスカルの原理」を発見した。主著「パンセ」の「人間は考える葦である」ということばは有名。-日本国語大辞典

[*14]パンセ:晩年のブレーズ・パスカルが自らの書籍の出版に向けて、その準備段階で、思いついた事を書き留めた数多くの断片的な記述を、彼の死後に遺族などが編纂し刊行した遺著。- Wikipediaより

B:最近、人が集まるときって、目的を持って自主的に選択して集まる関係が増えたと思うんです。このことに興味があるから行ってみるとか、何か得られるものがあると思ってかもしれません。でも、そうしたときにはやっぱり何か友だちできにくい。そんなジレンマがあるような気もします。

西川:
 それだと、その集まりが自分にとってつまらないと思ったら逃げるし、離れるでしょう。期待したものがなかったら、もう来ない。

 だからキツネは「人間たちには何かを知る時間なんか、もうなくなっているんだ」と言ってるわけです。なじみになるには「時間」がいる。その「時間」は「相手のために自分の時間を失う」という時間。この辺はこのあとではっきりしてきます

E:つまり好きかもしれない人に会いにいって時間を費やすのではなくて…、

西川:それは自分の中にちゃんと理由があるでしょう。

E:そういう理由がなく…、

西川:そう。

E:いわば、たまたま出会って、それがずっと続いてるうちに…、

西川:
 どちらかというと、そうです。

 たとえば、隣におばあちゃんがいるとします。家から出てきてふらふらあやしい感じです。そして、別に放っててもいいんですけど、ゴミ箱持って歩いてパアッとコケた。でも、自分にはバスの時間がせまっています。自分が助けようとは思っていないわけです。助けると完璧に自分の時間を失うことになるから。でも、よいしょっと助けると。みたいなことを続けるっていうことでしょうか。

E:うーーん

西川:
 王子は最初の出会いでバラのことを「素敵なバラだなあ」と思ってるわけです。バラのためには何をしてあげてもいいなあと思っている。ところが「何かちょっと勝手なやつやなあ」と思い始めるわけです。ひょっとするととんでもないやつかもしれない。僕のことを翻弄してるだけやん」。要するにバラのことを「自分にとってよくないやつや」と思ったわけです。わかります?

E:うん、うん

西川:
 「何か僕みじめになってきた」「こんなみじめな気持ちになるんやったら、出ていこう」っていうわけですよ。「自分にとってよくないやつや」と思ったら、関係をやめてしまった。これは「かけがえのない関係」「なじみの関係」ではないんです。

 でも、自分の中で納得できるできないっていうこと以上に、バラに水をかけてあげてましたよね。水をかけてバラが喜ぶのを見て「ああ、僕も嬉しい」ということではなくて、「わがままなこと言うなあ」と思いながらも、「ああ、ガラス? 覆い? ああ。ほんとに、何て手間がかかるんだ」と思いながら、でも話聞いてやったりとか。でもこの関係こそがもっとも大事やったんやなって、あとで気づくわけです。

 「僕たち本当に愛し合ってて仲もよかったんだ」ではなくて、「あんなにひどいことを言ってもけんかしてても、やっぱり聞いてくれてたな」とか。そっちのほうなんです。

 コンスエロ[*15]とサン=テグジュペリの話もよく言われますね。あの二人もぐちゃぐちゃな、いつも手つないで仲いい夫婦じゃなかったんです。色んないざこざがあり、『星の王子さま』もコンスエロに対して向けて書かれてるという説もあります。本当、そうだと思いますよ。

 サン=テグジュペリはコンスエロ以外の女性たちに匿名で、執筆を支援したりって、支えられていた男性だったそうです。でも、その人たちについては、悪口もいいことも書いてない。

 コンスエロに対してはものすごい複雑な気持ちを持っていたので、まあいってみたらバラみたいなもんです。心を奪われたけど、一緒に暮らすとどうもうまくいかなかったみたいで何度も離婚の危機になったり、別居したり。

 愛がいったい何なのかについて、サン=テグジュペリは、この中でやっぱり考えていると思います。

[*15]コンスエロ:コンスエロ ド・サン=テグジュペリ(Consuelo de Saint-Exupéry)サン=テグジュペリの妻。 19011年4月16日エルサルバドル生まれ、1979年5月28日フランスで死去。「星の王子さま」のバラのモデルとして知られる。

世界を変える

C:それは言葉で言うと何になるんでしょうか。僕は愛の話なのかなとか思ってたんですけどどうなんでしょう。例えば、夫婦がいて、まあ好きで結婚したのかもしれないけど、だんだんなあなあになっていって、「だけどそっからが愛だよ」っていう話かと思ったんだけど。死ぬまで一緒にいたことの美しさみたいな。そういう話なのかなと思ってたんですけどちょっと違うのかな。

西川:違いますねぇ。

C:うーーん

西川:
 そんなオシドリ夫婦みたいなことを言ってないですよ。麦畑の話が僕はすごいと思っているんです。なにせ目の前にいなくたっていいんだから。「君となじみになる」ということは、「金色の髪をしてる君となじみになるっていうことは、ぼくにとっては小麦畑が特別な意味を持つようになる」ですから。

 だから、ハイヒールの音をたてる女の子となじみになれば、世界中のハイヒールの音が「ぼく」にとって意味があるようになったりだとかってありえますよね。ぜんぶ変わるわけです。

 昔、なじみになれた誰かにお茶を入れてもらったことで、今度はどういうところでもお茶を入れてもらうたびに、それを思い出すものになってくる。世界中がぜんぶ変わります。

 これは後ろのほうにもありますけど、「ぼくは星に帰るよ」「どの星って君には言えないけど、でもあの満点の星ぜんぶが、ぼくやと思ってちょうだい」となるわけです。満点の星の中、一つだけですよ、星の王子が帰ってるのは。でも、みんなの星が笑いだすか泣きだすかということになってる。 

 サン=テグジュペリは、1対1の関係、ペアの関係がどれだけ深まるかとか、どれだけ接近するか、という観点で「なじみ」とか「愛」とか語っていません。どこまで世界が変われるか。世界の様子がガラッと変わるような秘密が、最初の「なじみ」の関係を作っていくというところにあるんですよ。それはものすごい努力が必要になる。「しんぼう」が必要になる。

A:バラ自体にはあんまり関係のない話かもしれないですよね。

西川:
 だから一般論になっていって、個別の関係じゃなくなってくるわけ。

 「自分がなじみになるものしか、人は知ることはないんだよ」ってとこもありますね。自分が知ってるつもりでいてることが、「知る」というのが何なのか。例えば、「ポトフを知ってる」ということでも「食べたから知ってる」というレベルと、これを作ろうと思って、いろいろ下ごしらえやったりとかいろいろやって、自分の時間をポトフのために使った中で、じゃがいもを知り、それから何々を知り、火をつけて、沸騰を注意深くみつめて、味を確かめ、ポトフのために自分の時間を失った人の「知ってる」は
、たぶんまったく違うと思うんです。

C:うーん

西川:
 でも、そうなると、「知る」というのは、いくらでも深めることができるわけです。「何かを知る」っていったときに、どのレベルで知ってるのか。「なじみの関係で知る」ときにはそれは「かけがえのない」ものなんです。

 そうやって一生懸命、自分の時間を費やして作りあげたそのポトフの出来っていうのは、買ってきたものでは替えられないものなってるわけ。そう言えるような「なじみの関係」で知ってるものが僕たちにどれだけありますかねぇ。

 まあ『星の王子さま』をこれだけ時間かけて読むというのも、なじみの関係になりつつあるのかもしれませんけど。そうだといいですねえ。

相手を失うことは自分を失うこと?

西川:
 「失う」という言い方がされてるから、損得勘定で言うと損になるということですよ。損得勘定で得を取るようなかたちでの時間の使い方ではないんです。別にぜんぶがぜんぶサン=テグジュペリが言ってることが正しいわけじゃないです。ただ、ここでは、サン=テグジュペリが言おうとしてることはそういうことでしょう、という読みをしているだけです。

 僕にとっては、別れた妻たちだけじゃなくて、要するに自分の中で、過去にしてしまっていた愛とか人間関係を、いとも簡単に整理つけると、自分の人生はほんまに完璧なんです。でもそうはいかないですよ。

 相手のことを忘れたら、相手と同時に自分のことも忘れてく。当たり前の話です。一番最初の妻と何年間か結婚生活したんですけど、思い出すのがつらくて。忘れたい忘れたいと思ってた若い時期があったんです。でも忘れられない。でももうさすがに、もう40年近くなって忘れることが多くなってきたけど、相手のこと忘れてるだけじゃないんです。それは自分のことも思い出せないということです。

 彼女が笑ってる顔を思い出せない、彼女が泣いてる顔を思い出せないということは、その前で彼女を笑わせて、泣かせた僕のことも思い出せない。自分も一緒に消えてなくなってしまうんですよ。人を忘れるということの怖さを、50過ぎてぐらいからぼちぼち感じはじめてきました。

 もうだって、先に長く生きるよりも、後ろを振り向いた時代のほうが長いから。「自分にとっての人生というのは、人生とは何なのか」って、未来に対しての問いは、もうあんまり問いかけないですよ。

 「今までの自分の人生は何だったのか」って振り返ろうとしたときに、苦しいからって忘れようとしてたことは、なくなってしまうんですよ。まだ生きてるのに、生きながらもう消えていってしまってるような感じがあったり。そういう恐ろしさを感じてて。

 でもこの『星の王子さま』の中に「忘れちゃいかんのや」っていうメッセージを、ものすごく僕は感じるんです。ものすごく感じる。「なし」にしちゃいけないと。でもそのためにどうするのかについて全部は書いてくれてないけど、その手がかりはあるんじゃないか。

 最初はケア論のつもりで、高齢者介護、馴染みの関係とかを解くために読み始めたつもりだったんですけど、だんだんどうしても自分の人生と絡まりまくって、「ああ…」という感じですよね。

 まあ、サン=テグジュペリ自身が自分の人生の中における愛、愛情関係っていうものをもう一度見直そうとっていうのもあるでしょ。

B:人生の意味とかですよね。サン=テグジュペリの探究の物語として読めます。

西川:
 うん。でも、この本が難しいのは今日読んだところは探求の途上ですよね。地球に来て、キツネ来て。でも、これが終わった、つまり探求が終わった最終状態の王子が一番最初に出てますよね。

B:ああ、そうか…

西川:
 そう。王子の姿が時系列に並んでないんですよ。入れ子になってるんです。読むときに注意しないと、最初のひと目で箱の中にある羊を見抜く王子みたいなあるじゃないですか。でも、王子がどうやってそんな王子に成長したのか、変化したのか、については簡単にはつながらない。だって、最初の王子というのはけっこうな俗物ですよ。一人で住んでるときの王子は自己完結してるし。 

 色んな読み方があると思います。ただ、僕にはもう自分の人生に引きつけて読まざるをえないなあと思うようなことがいっぱいある本です。それでいて、ほんまに大事なところはわざと書かない。サン=テグジュペリの技が光ってるんです。そこがすごいとこですよね。「

いいなと思ったら応援しよう!