第12回ケア塾茶山『星の王子さま』を読む(2018年8月8日)
※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)
※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表)
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はじめに
西川:
今日は12回目ということです。Ⅺ章になりますね。まず僕が読みます。
二番目の星には、うぬぼれ屋が住んでいました。
「これは、これは。称賛者(ファン)が一人やって来たぞ!」と、王子さまの姿に気づくなり、うぬぼれ屋は遠くから叫びました。
それというのも、うぬぼれ屋たちにとっては、自分以外の人間はみな自分の称賛者(ファン)だったのです。
「こんにちは」と王子さまは言いました。「ヘンテコな帽子をかぶっているんですね」
「お辞儀をするためさ」と、うぬぼれ屋は王子さまに答えを返しました。「拍手喝采をされたときに、お辞儀をするためなんだよ。ただ、残念なことになあ、このあたりは人っ子ひとり通りかからないんだ」
「えっ、なんですって?」と王子さまはきき返しました。うぬぼれ屋がなにを言っているのか、よく分からなかったのです。
「手と手を打って、拍手をしてごらん」と、うぬぼれ屋は勧めました。
王子さまはパチパチ手と手を打って、拍手をしました。すると、うぬぼれ屋は帽子をちょこんと持ちあげ、へりくだったお辞儀をしました。
「これは、王様を訪ねたときよりも、おもしろいや」と王子さまは心のなかで言いました。そして、もう一度、パチパチ手と手を打って、拍手をしてみました。うぬぼれ屋はもう一度、帽子をちょこんと持ちあげ、お辞儀をしました。
五分間も同じことを繰り返していたら、王子さまはつまらなくなってしまいました。
「で、今度は帽子が下に落っこちるには」と王子さまはたずねました。「どうしたらいいの?」
けれども、うぬぼれ屋には聞こえませんでした。うぬぼれ屋というのは、ほめ言葉しか決して耳に入らないものなのです。
「ほんとうに君は、わたしを心から称賛しているかい?」とうぬぼれ屋は王子さまにたずねました。
「『称賛する』って、いったいどういうことなの?」
「『称賛する』というのはねえ、わたしがこの星でいちばんハンサムで、いちばんおしゃれで、いちばんお金持ちで、いちばん頭がいいって認めることだよ」
「でも、あなたはこの星で独りぼっちなんでしょう」
「お願いだからさ。なんでもいいから、わたしを称賛しておくれよ!」
「ぼくはあなたを称賛する」と王子さまは、少し肩をすくめて言いました。「だけど、こんなことをして、いったい、あなたには、なにになるっていうの?」
そう言い残して、王子さまはその星をあとにしました。
「おとなたちというのは、やっぱり相当変だなあ」ともっぱら心の中で言いながら、王子さまは旅をつづけました。
(※「いったい、あなたには、なにになるっていうの?」の部分は、第1刷では「いったいなにがあなたにはおもしろいの?」)
最初、僕は、ここにそんなに話すべき内容があるかなと思ってました。次の、飲んべえのところとかビジネスマンのところは結構ある。だから、今日はもうビジネスマンのところまで行くかなと思ってたんですけど、電車の中でじっくり考え直してみると、やっぱりそうじゃないんじゃないかと思えてきました。
前回から言ってますけど、『星の王子さま』の小惑星をめぐるところは、いわゆる純真無垢で物事の本質を見抜く王子が、いろんな小惑星に住んでいる大人たちの愚かさを嘲け笑う。そういうものだって通常理解されています。それはそれで、まるで間違ってるわけではないとは思うんです。
たとえば、この前の星にいた王様だったらまったく力もないのに権力欲をもっている(まあ、前回お話しした通り、僕は彼が権力ではなく「権威」を大事にしてるんだと思っていますが)。そして、この星のうぬぼれ屋は、虚栄心だとかうぬぼれのような人間の悪徳、愚かさの擬人化として、捉えられることが多いわけです。次の星の酒飲みは怠け者、怯懦(きょうだ)、アディクション、依存とか。さらにその次の実業家、ビジネスマンは欲。物欲だとか。
こんな感じでいろいろ言われている中にあって、虚栄心なんていうのはすごく分かりやすいと思っていたんですけど、ほんとにそうでしょうか。
何度も言いますけれど、王子は最初から賢かったわけではありません。星めぐりは、キツネから「大切なことは目には見えない」という知恵を得る手前の話なんです。だから、彼が見落としているところをもうちょっと大事にしないといけない。
そうじゃないと、ものすごく普通の道徳っぽくなるんですよね。「力もないのに王様ぶってもしゃあないやろ」みたいな話になってしまうし。こんなたったひとりぼっちの星で「自分が一番この星で立派なんや」みたいなこと言っても仕方がないってことになる。それだけが分かったところで、この本を読む意味がどれだけあるのか。
まあ、子どもの目で見たときにどうかは別として、少なくとも僕たちも人生の中で、様々な経験を積み重ねて大人になっているわけです。その分、箱の中のヒツジがそんなに簡単には見えなくなっているわけですけど、かわりに大人のなかにある矛盾が自分の中にもたぶんあるんです。だからそこをもう少ししっかり考えていったほうがいいんじゃないかなって、僕は思っています。
うぬぼれと自尊心と自愛心
西川:
というわけで、じっくり読んでみましょう。まず「うぬぼれ屋」。フランス語で「ヴァニトゥー」(vaniteux)っていう単語が使われています。これは辞書で引っ張ってみても基本「うぬぼれ」とか「虚栄心」とか、やっぱりそういう意味みたいです。『ロワイヤル仏和中辞典』では「虚栄、見栄、うぬぼれ、慢心」が一番目。でも二番目に、「文語体で」という注釈つきですが、「無意味さ、儚さ、虚しさ」という意味が出ています。これは日本語にはないですね。
旧約聖書の伝道の書で、「空の空、すべて空なり」というところが「ヴァニトゥー」を使ってるんですよね。これは「色即是空」の「空」っぽい。フランス語の虚栄というか、うぬぼれと、日本語の「うぬぼれ」とは若干違うんだなっていうことだけはちょっと気にしてもいいかもしれません。
さて、「うぬぼれ(自惚れ)」を日本語でどう書くかというと、「自」らに「惚」れるって書くんですよね。「己」(おのれ)に「惚れる」と書いて、「おのぼれ(己惚れ)」とも言うわけです。最近は「おのぼれ」よりも、「うぬぼれ」のほうが一般的ですが、要するにどちらも自分に惚れるということです。他にどういう関連した言葉があるかと言ったら、たとえば自尊心、自愛心。いっぱいあります。
虚栄ではなく、うぬぼれということを考えてみると、人にいわゆるうぬぼれがなかったら生きていけるかと言ったら、これはすごいしんどいことです。「はたして自分はこの世に生まれてきて、生きているだけの価値があるんだろうか、生きてていいんだろうか」と思った時に、まったく自分に愛するべきところが感じられず、自己価値観もまったくないとしたら、これはものすごい生きにくいです。生きられない。人がある意味で平然と生きていられるのは――もちろんみんながみんな平然として生きてるわけじゃないと思いますけど――、どこかで「自分がいてもいいんだ」という「うぬぼれ」の気持ちがあるからに違いないんですよね。
うぬぼれについてもう少し考えてみましょう。たとえば自尊心と自愛心。自尊心は「自分が尊い」というか「自分を尊ぶ」というか「自分が他よりもまさっている」ということですよね。そういう意味での自尊心と自愛心は違うと思うんです。自愛心は「自らを愛する」ということです。「自分を愛しい」と思う。『日本語大辞典』で調べてみると、「自尊心」や「うぬぼれ」についての用法が出てくるのはかなり近世になってから。でも「自愛」という言葉は『老子』[*1]にも出てくるぐらい、かなり古い言葉なんです。「自らを愛する」というのはね。
[*1]『老子』:中国の春秋時代の思想家・老子が書いたと伝えられる書。『荘子』と並ぶ道家の代表的書物。上篇(道教)と下篇(徳経)に分かれ、あわせて81章から構成される。
そこら辺も含みながら、ちょっと考えてみたいんです。ここで、うぬぼれ男は、徹底的に笑うべき存在のように読むのが普通だと思われています。でも、そんなに笑うことができるでしょうか。人間にとって、特に「自分にとって」と考えたほうがいいかもしれませんね。僕はやっぱり自分のことをうぬぼれ屋だなと思います。このうぬぼれ屋のことを笑いさってしまえるような人間ではないです。
だから、王子のような心持ちにはなれないんです。これ読んだ時に「つらい」とまではいかないけど、ウッてくるものが、ただ笑い飛ばすわけにいかないところがあります。
「これは、これは。称賛者(ファン)が一人やって来たぞ!」と、王子さまの姿に気づくなり、うぬぼれ屋は遠くから叫びました。
たとえばこれね。近くにやって来て初めて分かるわけじゃないですよ。遠くからですよ。姿が見えるなり言ってるわけです。つまり待ち望んでいた。常に遠くまで、要するに自分をほめたたえるであろう人、要するに自分が立派だっていうか自分を認めてくれる、自分を承認してくれる人が欲しくて仕方がないわけです。だからものすごい遠いところでも気づくわけですよね。
その気づき方が、「ファンだ」と決め付けてるっていうところが、まあ言ってみたらおかしいっていうか「奇妙なやつだな」と思う反面、なぜそれだけ、そんなふうにしてでないと彼は生きていられなかったのか?って思いますよね。
この小惑星をめぐる星っていうのは、ぜーんぶちっちゃい星の中にたった一人の住人が居るだけなんです。要するに「孤独」と出会う旅なんですよね。だから、いわゆる地球にいっぱいいるうぬぼれ屋とはちょっと違うわけです(もっと深くまで読めば地球でも同じかもしれませんけど)。
そういうことを考えると、ここでも「うぬぼれ屋はものすごくそういう人に焦がれてたんや」と読み取ろうと思ったら読み取れるわけです。たぶん、そういうことを書きたいから、サン=テグジュペリはこういうふうにきちんと書いてるわけですよね。
それというのも、うぬぼれ屋たちにとっては、自分以外の人間はみな自分の称賛者(ファン)だったのです。
「僕たちはそんなことないわな、自分はね」と思ってるけれども、本当にそうですかと問いかけているわけです。自分の人間関係を仔細に見つめていったときに、自分をまったく認めない、自分を貶めるような言動・振る舞いしかしない人と人間関係を作っているでしょうか。決してそんなことないですよね。やっぱり自分のことをどこかで認めてくれてるというか、自分にプラスの感情を抱いてくれてる人とやっぱり関係を作って、自分たちは社会生活をやっているわけです。
決して「お前なんか何者でもないよ」とか「お前なんて最低だよ」なんて言う人とは付き合わないわけです。社会で必ず出会うのにね。でも基本は「ファンだ」と思うほうが人生生きやすい。「世界中の人はみんな俺を蔑もうとしている」みたいな気持ちだったら、この世の中なかなか生きていけない。「どちらとも思えない」と言っても、これも不安で仕方がない。
よくマズロー[*2]なんかで言われてるような基本的欲求として承認欲求がありますね。要するに「自分が認められる」、人間に対するというか社会、世界に対する基本的信頼感。「世界は私に優しいはずだ」「人々は私に優しいはずだ」ということと「自分以外はみんな自分のファンだと思っている」ということは、程度の差こそあれ、これはものすごく大事なこととして、僕たちが安心して生きるために必要なわけです。
[*2]マズロー:アブラハム・ハロルド・マズロー。アメリカ合衆国の心理学者。ピラミッド型の図で表現される欲求段階説などで有名。マズローが提唱した人間の基本的欲求を、高次の欲求からならべると、・自己実現の欲求、・承認(尊重)の欲求、・社会的欲求/所属と愛の欲求、・安全の欲求、・生理的欲求、となる。
帽子は誰のため?
西川:
それと挨拶もみておきましょう。挨拶を王子がするかしないか、どちらがするのかっていうことですけど、王様のときは「おや、家来がやってきたぞ」とさみしい王様から声かけてました。うぬぼれ屋に関しても向こうから声かけられてる。その次は王子から挨拶もなしに話しかけてますね。
このあとゆっくり考えてもらいたいんですけど、呼ばれて答えることと、自分の関心から相手に声をかけることは、やっぱり、人の出会い方として違うわけです。本来は、声をかけられた時には、応答するという応答責任を負うています。相手の呼びかけにどういう意味があるかをまずは理解しなきゃいけない。
「そこで、なにをしているんだい?」と王子さまは酒飲みにききました。
でも、酒飲みの星では、いきなり酒飲みに対して「そこで何してるんや?」って挨拶もなしに聞いてるわけです。こういう出会い方とこれまでとは違います。「家来がやって来た」とか「ああファンがやって来た」とかは、それほど普通ではありませんけれども、向こうから声かけられ、それに対してどう答えるかという話です。やっぱりちょっと違うんですね。
まあそれはそれとして、「こんにちは」「ヘンテコな帽子をかぶっているんですね」「お辞儀をするためさ」ということですね。僕は「お辞儀をするためさ」は、結構大事だと思っているんです。ヘンテコな帽子をかぶっていて、うぬぼれ屋で、とにかくパチパチ手を叩いてくれたら「ありがとうございました」とものすごい丁寧にお辞儀するわけです。ほめてくれたら「ありがとう」って必ず応答するわけですよ。「いやほんとにありがとう」と言っているわけです。
単純に「自分が一番えらいんだ」と自分勝手に決めて人を見下すんじゃなくて、拍手されたら「ありがとう」と返す。お礼を言うために常に帽子を持ってる人なんです。
そう考えてみると、先生とか何とかって言われても別にありがとうも何も言わないでふんぞり返っているえらそうなやつっていっぱいいますよね。そういう意味ではうぬぼれ屋といっても、パチパチって拍手したら必ず「ありがとう」ってお辞儀する礼儀をわきまえた人なのかもしれない。決してそんなにひどいやつじゃない。自分一人で、夜郎自大になって「俺が一番えらいんだ」って思い込んでる人間じゃないんです。拍手をされたら、必ずそれに対して「あ、そんなふうに思ってくれるのかい、ありがとう」と返せる人なんですよ。
「ただ、残念なことになあ、このあたりは人っ子ひとり通りかからないんだ」
「えっ、なんですって?」と王子さまはきき返しました。うぬぼれ屋がなにを言っているのか、よく分からなかったのです。
うぬぼれ屋のその気持ちを王子は分かっていないんですよ。「お辞儀をするためさ」「ただ、残念なことになあ」「僕は待ってるんだよ、僕のことを認めてくれる人を。そして認めてくれたら、それに『ありがとう』って言うために、ずっと、ヘンテコって言われようと帽子をかぶって待ってるんだ」「だからずいぶん遠くから君が来た時に、でもすぐ分かった」みたいなことです。
そういう人を求める、で、もし認めてくれたらすぐにでも挨拶するという気持ちで一人住んでいる「うぬぼれ屋」と呼ばれる人の気持ち。その言っていることが王子には分かっていないんです。となると、何を分かるべきだったのか?ということですよね。
ここでもやっぱり大切なことはさっと読むだけでは分からない。自分で考えないといけない。その意味で、うぬぼれ屋の星にいる間に王子が分かるようになったかと言うと、結局分かってません。ここではそのうぬぼれ屋をバカにしている王子の側から書いているわけだから、「あ、うぬぼれ屋ってほんとにバカだね」と読めるけど、それではだめなんです。
「地理の勉強は本当に役に立ちましたよ」「中国とアリゾナを一目で見分けることができましたからね」「そんな必要ないでしょ?」という件について、前もお話ししましたけど、文章の通りに読むと引っかかってしまいます。本当に大切なことは書いてないんですよ。
うぬぼれ屋はいったいどういう人で、どういう気持ちでこの星に住んでいるのか。王子はそこにやって来たけれど、うぬぼれ屋から声かけられたという意味では、自分の関心じゃなくて、相手に「応答する責任」がそこで生じたわけです。王子の気ままな見物だとかじゃなくって、相手から話しかけられた時にいかに応答するべきかという責任がここで生じているのに、彼はうぬぼれ屋の言ってることがやっぱり分からなかったわけです。そんなふうに読んでいくとこの章の雰囲気が随分変わるかもしれません。
「手と手を打って、拍手をしてごらん」と、うぬぼれ屋は勧めました。
王子さまはパチパチ手と手を打って、拍手をしました。すると、うぬぼれ屋は帽子をちょこんと持ち上げ、へりくだったお辞儀をしました。
「これは、王様を訪ねたときよりも、おもしろいや」
王様を訪ねた時にも随分大切なことを王様は言っていたわけです。でもそれについて、王子は権威と権力とをごちゃ混ぜにして「こんな何にも権力を持ってない王様が権威ぶって話するのはつまらない」「バカだ」って、そこを立ち去った。
今度は「こっちのほうがおもしろいや」と言ってるけど、そのおもしろさっていうのはものすごい皮相的なおもしろさしかないわけです。だから五分も経ったらもう飽きちゃう。
確かに、うぬぼれ屋はパチパチってやった時にへりくだった態度でお辞儀するけど、そのときの帽子は自分のおしゃれのためでも何でもないんです。自分が一番格好いいことを示すためのものでもない。拍手をしてくれた人に対して、ちょこんとあげてお辞儀をするための帽子だったわけです。
だから、「これは自分に対してのお辞儀だ」と、王子がそのことの意味を考えれば、今、そのうぬぼれ屋と自分との間で何が起きているのか、それに自分がどのような責任を今取ろうとしているのかたぶん分かるんですけど、単なる自動人形のように「パチパチと叩いたら、あ、帽子あげる」みたいなに、人間関係のことを思っていないわけです。
パチパチってやったら帽子をあげる。それだけの機械的なものの連続として捉えてる。それは最初はおもしろいかもしれないけれども、全然深みのないことですから、あっという間につまんなくなってしまう。
称賛されたい
西川:
ここでも王子は、うぬぼれ屋との出会いの中にひそめられている人間の哀しさだとか、そういうことに気づくことができなかったわけです。うぬぼれ屋の哀しさを癒すために、自分の拍手がどんな働きをするのかにも気がつかなかった。単純に相手が帽子を持ちあげるという動作にしか目がいってないわけです。
「で、今度は帽子が下に落っこちるには」と聞いてるのは、「じゃあ、もう帽子が上がるのもつまんないから、次落っこちるのには?」と言ってるわけですよ。
要するに王子は帽子しか見てない。「ヘンテコな帽子だね」と拍手をすれば、その帽子がちょこんと上げられるとか。ともかく帽子しか見てないわけですよ。うぬぼれ屋って呼ばれている彼と出会っているし、彼の帽子が何のために、誰のために用意されたかっていうことをきちんとうぬぼれ屋は言っているのに、王子はよく分からなかった。「それでじゃあ次落っこちるにはどうしたらいいの?」なんて尋ねているわけです。
けれども、うぬぼれ屋には聞こえませんでした。うぬぼれ屋というのは、ほめ言葉しか決して耳に入らないものなのです。
こう書いてありますけど、「これ、うぬぼれ屋でなくってもそうだよな」って思いませんか?人からこう悪口言われたりしても、それは悪口だって分かるけど、耳に入ってきて自分の腑に落ちるかといったら、なかなか落ちないですよね。そんなに簡単に落ちるもんじゃない。
ところがほめ言葉はほとんど抵抗なしに入ってきます。「優しい人ね」「うん、そう?」みたいな(笑)。ところが「あんたって無責任ね」とか言われたら、「いやー、そら無責任なところもあるけれど、実はこうこうこうこう」とかって、どんどんどんどん自分の気に入らないことに関しては、内側から外に放り出そうとするのが、自分の心の安定を保つためにもぜひとも必要なことです。だから自分たちも同じくらいほめ言葉しか耳に入らないんだと思います。
結局、王子の「上っ面のパチパチ」が称賛の拍手じゃないことをうぬぼれ屋は見抜きます。
「ほんとうに君は、わたしを心から称賛しているかい?」とうぬぼれ屋は王子さまにたずねました。
うぬぼれ屋はバカじゃないんです。うぬぼれ屋はただ単純に拍手をしてもらうような、表面的なことだけを求めているんではないんです。もちろんそれも欲しい。でも五分間パチパチやってくれても、結局王子は「次は帽子落っこちるにはどうしたらいいの?」みたいなことを聞いてきます。うぬぼれ屋が待ち望んでいる、もうほんとに欲しくて仕方がない、他者からの承認みたいなことには全然縁のない拍手だっていうことは分かってきます。
だから「わたしを心から称賛しているのかい?」「称賛するっていったいどういうことなの?」というやり取りが出てくるわけです。 そして、この後がみんなからうぬぼれ屋が思いっきりバカにされるところですね。
「『称賛する』って、 いったい どういう こと なの?」
「『称賛する』というのはねえ、わたしがこの星でいちばんハンサムで、いちばんおしゃれで、いちばんお金持ちで、いちばん頭がいいって認めることだよ」
「でも、あなたはこの星で独りぼっちなんでしょう」
これはどうでしょう?「一番」に彼はこだわっているわけです。王子はそれに「あなただって独りじゃないの」と皮肉っぽく返してるわけです。さて、僕たちっていうか、自分はどうでしょうか。
たとえば、「ハンサム」「おしゃれ」「お金持ち」「頭がいい」を、「うーん、いや別にそういうことじゃないでしょ」と思うかもしれないけど、「称賛する」とか「ファンができる」のはどうなのかなあ?やっぱり芸能界もそうですけど美男美女ってファン多いですよね。
「おしゃれ」もそうです。雑誌みても「こうすればおしゃれになる」みたいなことがいっぱい書いてあるわけです。「これよりもこっちのほうがおしゃれ」「どっちのほうがいいか」「できることなら一番」みたいなことやっぱり僕たちは考えています。
「お金持ち」もそうですね。「金持ちになる」ことを大きな声で言いたくはないけど、心の中ではやっぱ思ってたりします。心の中というか「抜きにはできない」みたいな気持ちはやっぱりある。
「頭がいい」もそうですね。「心根の優しい」「心のきれいな子」だと、あんまりファンにならないんですよね。「頭がいい」ことのほうが、圧倒的にやっぱり称賛されることが多いわけです。
「称賛」というときに「一番」がやっぱり必要になってくるような社会の中に、僕たちは気がついたら生きてるんじゃないかなあって思います。
そして、これがおかしいと言うのなら、じゃあ、どう言えばいいんでしょう。「その人が○○なとき称賛する」といったときに、訳知り顔に「こんなつまんないこと言って」と言うことは簡単です。代わりに何を入れればいいんだろうと考えてみたときに、思いつくことがあるかどうかです。これはまたみんなで考えてみたいですね。
自尊心と哀しみ
西川:
「でも、あなたはこの星で独りぼっちなんでしょう」とあります。独りぼっちだから一番に決まってます。一人の時には上から数えても一番、下から数えても一番なわけで、トップであり、べったでありっていうことなんです。
でも「一番」が本来意味を持つのは「誰かと比べる」ときです。比べるっていう意味なんですね。だから一人の場合には比べるものがないということなのかもしれないけれど、たった一人の星でもそうやって自分を自分だけでは満足できないわけです。
先ほど、自尊心と自愛心は違いますよね、という話をしましたけど、自尊心、「自分が尊い」というからには、誰かよりも自分のほうが尊いと思ってるわけですよね。でも自愛心というのは自分が好きなんです。自分のことを愛してるんです。これ全然違います。自尊心だとかうぬぼれはやっぱり誰かと比較して、そしてそれにまさって自分のほうが、ということなんです。
それには、そのことを人に認めてもらうのか、もしくは自分でそう思い込むのか、とかいろいろ差がありますよ。自分で本当はそれほどじゃないと思ってても、虚勢を張る。虚栄心ってそうです。「嘘」の「栄」。自分でも嘘だって分かってるけれども、それをありのままに認められない。「いや、僕は立派な人間なんですよ」は虚飾なんですよね。
自分のこと素直に言えない。自分のことをもっとよいように言ってしまう。どうしても自分のことをそのまま素直に認めて素直に表現できないのが虚栄心なんですね。そういう意味で自分のことを、要するに自分の真実が分かってるわけですよ。「自分はほんとは大したことがないんだ」っていうことを分かってるから、虚栄心になる。
そう考えると、虚栄心はある意味で自らの至らなさだということを意識している人の最後のあがきみたいなもんです。「窮鼠猫を噛む」じゃないですけど、追い詰められて、自分より相手のほうが大きい、自分はだめだって思ったときに、最後の反撃みたいに「や!」って、猫に飛びかかる追い詰められたネズミのように、自分はいつもは猫に食われる立場なのに、そのことも忘れてしまうというか分かっていてもその猫に対してでも飛びかかっていく。自分の実力以上のことをどうしてもやってしまう。まあそういう意味では弱者の最後の反撃なのかもしれない。
だからこれを笑い飛ばすのは、もう弱肉強食、いわば冷酷な原則であって、それは外すことができません。でも、人が生きるというのはそういう物理法則みたいなものだけで決まっていないわけです。どこかで反転するかもしれない。
それを、まあ、虚栄だとか虚飾だとか言うこともできるけれども、それはね、なんかいい言葉がないかなと思うんですけど、僕には「最後のあがき」しか言葉が出てこない。
何で言葉がないかというと、弱者の最後の反撃っていうのはあえなく潰されることが多いからです。そんなに世間的に奨励できるようなことではない。「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」のほうが世間知としては立派かもしれないけれども、時には、いくら自分が弱くても愚かであっても、でも自尊心というかたちで反撃することもあるわけです。
それは哀しいし、愚かなようにも見えるだけれども。愚かさと哀しみっていうのは、表裏なんですよ。本当に愚かだなと思っているのに愚かなことをするのは、非常に悲しい存在だから愚かなことをせざるを得ないわけです。そこを見抜けるのかどうなのか?それが僕はやっぱり成熟したものの見方かなと思うんです。
「お願いだからさ、なんでもいいから、私を称賛しておくれよ!」
ここではっきりするのは、うぬぼれ屋と言われているこの人が、自分一人で自分を称える、閉じた自尊心の持ち主ではないということです。片っ端から自分以外のものを見下し嘲り、「自分が一番えらいんだ」って思ってるような自尊心の持ち主では少なくともない。他者からの承認を求めている。でこの他者からの承認を求めるっていうことは決して悪でもないし、人として生きるからには、人の弱さっていうものを知ってる人間にとっては当たり前の姿なんですよ。
当たり前の姿なのに、何て言うんかな、それが表現としてはピエロみたいなおかしみにしか見えないんだけど。そのおかしみの裏にある哀しみを見抜くだけの目が、この王子にはやっぱりないわけです。
「ぼくはあなたを称賛する」と王子さまは、少し肩をすくめて言いました。
肩をすくめて言うのは「もう仕方ないな、こいつ」ということですよね。本当に侮蔑的な態度です。「もうこの人には言っても仕方がない」と完全に相手を見下してる。これだけ他者の承認を必要としている人と出会っているのに、王子がしたことはこういうひどいことなんです。
「だけど、こんなことをして、いったい、あなたには、なににおもしろいっていうの?」
王子には、これが分からないし、それから自分がこの人に何をすべきかも分かってないわけです。心ない拍手であっても彼のどこかを支えるかもしれない。一人では決して満たされることのない。独りぼっちでいてる間は決してその帽子は持ち上げられることがない。
待ちに待った帽子をあげて、丁寧にお辞儀をするという人との関係に、うぬぼれ男はやっと出会えるわけです。でもそのことの意味が王子には分かってない。だから僕から読めば、非常に不幸な出会いです。
「おとなたちというのは、やっぱり相当変だなあ」ともっぱら心の中で言いながら、王子さまは旅をつづけました。
さっきの王様のところも、それからこのうぬぼれ屋のところも、次の飲んべえのところも、最初のバラを星に置いて出ていく時もそうですけど、彼の別れはなにか相手にとっても、王子自身にとっても無残なものなんです。何にも賢くなってないんですね。経験がきちんとした役に立ってない。学ぶべきところで学んでないんです。
本当はもっと心を開いて、相手の身になって考えれば分かるはずのことを分からずに、ただ相手を批判する、非難するかたちで離れていってるわけです。自分の星を出ていった時にだって、「このバラあんまり謙虚じゃないな」とか言いながら、「わがままな言葉に振り回されて」「とんでもないかもしれない」と思って出ていくわけですし、王様についてもそうでしたね。
でもこれが少しずつ変わっていく。たぶん、これが変わっていくからこそ、僕はこの読み方を強く主張しているんです。サン=テグジュペリも星の王子さまが変わっていく、成長していくことをきちんと念頭に置いて、ここでは愚かな王子を書いてるはずなんです。
ところがサン=テグジュペリが愚かな王子を書いてるはずなのに、普通の読者は「愚かなのは大人たちだ」と思ってしまう。そこが、サン=テグジュペリの『星の王子さま』が一筋縄ではいかないところです。何度も読むに耐えるだけの奥深さっていうのは、やはり説明的な文章じゃないです。一から十まで全部言ってくれません。ここから読む人が何を考えるのかっていうことで、少しずつ扉を開けていく。
だから選ばれた読者にだけ開かれるところがあります。やっぱりこう何度も何度も繰り返し繰り返し読んで、そしてわがことに引き寄せながら考えていくと、素直に笑えるようなギャグではないですよね。そこから見えてくるものが何なのかということです。
ともに居させてくれている
西川:
「自愛心って何なのかなあ」とか「自らを愛することができない人が他人を愛することができるか」という議論もありますし、「いや、自らを愛することと他人を愛することとはやっぱり根源が違うでしょ」という考え方もあります。
「自分を愛せない人がどうやって人を愛せるか」「自分が悲しいことを経験したこと、悲しんだことのない人間が、どうして人の悲しみがわかるか」みたいな言い方と同じように、「自分を愛したことがない人間は、人を愛することできない」という論法もありますね。
でも「悲しい思いをしたことなかったら、決して人の悲しみって分からないのか」と言われると、これこそ当事者主権の考え方になっちゃうわけです。障害を持つ人間というか、社会から差別されてる人間の気持ちは、その人間にしか分からない。いや、確かに一方ではそうなのかもしれません。
釜ヶ崎の本田哲郎神父さんは、「分かると思ったけど、やっぱ結局分からん」って(笑)。「日雇い労働者の気持ちになろうと思って日雇い仕事もしてみたけど、だからと言って、自分は要するに神父に戻るねん」「そんな人間が日雇いやったところで、やっぱ分からん」と。
それが心底分かった時に「同じじゃなければ、彼らのことを理解できないのか?」「理解ていうのは同種のものでしか理解し合えないのかっていうと、そうではないかもしれない」「丸ごと理解するっていうことに関しては不可能かもしれないけれども、それが必要でないかもしれない。分からないけども付き合う、嫌いだけれども大切にするっていうようなあり方のほうが大切じゃないか」と本田神父の場合は変わっていくわけです。
そうやって釜ヶ崎に行って、ものすごい衝撃を受けた。まあフランシスコ会[*3]の人ですから、もともと清貧の思想を持っていた人なので、自らの権威やとかそういうものをこうひけらかす人ではなかったけれども、でも「自分は良い子症候群だった」みたいことを思い知らされるわけです。その中で釜ヶ崎に身を投じるけれども、「違うものは違う」「愛そうと思っても愛せない人たちもいる」となる。
その時に「離れるんじゃなくって、たとえその相手のことを好きにならなくても、相手のことが分からなくても、相手を大切にするというかたちで自分はこの場にいることができるかもしれない」と思った途端に、「自分をそこに居させてくれているみんなの」――「先輩、仲間たち」っていう言葉づかいを彼はしますけど――、「彼らからの愛というものを自分は感じるんだ」と。
[*3] フランシスコ会:13世紀のイタリアで、アッシジのフランチェスコによって始められたカトリック教会の修道会の総称。
阪大に行った頃に釜ヶ崎でいろいろ活動していると、マスコミから取材来ました。「西川先生はどんなこと考えて、こういう活動をされてるんですか?」「西川さんがやってるような対話的な活動で、孤立しがちな西成の労働者がやっぱり絆を作ったりっていう、そういうことを考えておられるんですか?」とか聞かれたり。「いやいや、そんなんじゃないです。よく僕みたいな人間を相手にしてくれてるなと思いますよ」とか答えたりしました。
「手にマメ一つ作ったことないような甘っちょろい男が『先生』って呼ばれてるのに、おっちゃんたちは『先生』って呼んだり、そのうち『西やん』って呼んでくれたりって僕をちゃんと迎え入れてくれたんだ」「僕が向こうの立場なら到底できません」。だから「変えられたのは自分だ」みたいなことを言うわけです。でも、そういうコメントは、もう全然一切載りませんね。
やっぱり世間では、あくまでもそういう釜ヶ崎の日雇い、路上生活者は「助けられるべき存在」になっているわけです。そこになんか先生とか言われている人、神父という人、お金持ちがそこにやって来る。そしてそこにはやっぱりものすごい人道的な心がある。みたいなストーリーしかやっぱり理解できないわけですよね。
この『星の王子さま』の星めぐりのところも、王子がものすごく純粋無垢な人で、小惑星にいる大人たちはみんな見下された人たちという理解になってしまう。だからやっぱり逆転して読むような見方を身につけないといけない。
だってほんとにうぬぼれ屋も、王様も、みんな僕たちの社会にいるわけですよ。王様の場合は、年老いて力がなくなっても権威たるべき生き方の一つのモデルなわけです。「力のある時だけが権威っていうものじゃない」という。ほんとの権威は、力をなくした時にこそ理に適った権威になる可能性があるわけですから。
このうぬぼれ屋のものすごい軽薄に見えるような姿の背後には、人を求めて、はてしない、決して自分だけでは知足できない、そういう人間の存在の哀しさ、不完全さみたいなものを読み取れるかどうかです。それを僕は大事かなと思っているわけです。
事実は人をささえない
西川:はい、うぬぼれ屋のところをとりあえず読んでみました。次にいってもいいんですが、ちょっとここでみなさんに意見とか感想とか、「いや、ここはこう読むべきじゃないですか」とかありましたら、いろいろ話し合いたいと思います。
A:
今、聞いてて思ったんですけど、王様のときはこの空の星とかを指して「この一切を私は支配してる」「宇宙全体の王でもあった」みたいなことを書いてありましたけど、このうぬぼれ男は「この星で」って言ってますよね。この違いは結構あるような気が。
でも一人しかいない中では称賛すること、一番ということもないけど、逆に一番下もないから、そこでこう気持ちを落ち着けるかたちをとる人もいますよね。
これ王子さまはよそから来てるわけですよね。よその人にこれきいてるってことなんですよね。「この星に君が来てるから、この君と比べてどうだ」と言っているわけじゃないですよね、この「この星で一番」って。
西川:うんうん、「わたしがこの星で」ですから。
A:
比べる人を普通は求めるんじゃないかと思うんです。自愛というかうぬぼれだったら。そうじゃなくて「一人しかいない」と言ったらここで、「一人、いやそんなことないんだ、他にも人がいるんだ」となるわけじゃないんですよね。
一人だってことをたぶん、自分でもさっき「孤独だ」とかって言ってたけど、自分一人しかいない状態でこの自己愛、「私はこの星で一番だ」ということを持ち続けているメンタリティって、たしかにちょっと表面的に見て、いわゆる普通僕らが言ううぬぼれとかとはちょっと違うなあと思って、認識をやっぱり改めなきゃいけないなあと思いました。
西川:うん。だから、この人は自愛心じゃないんです。やっぱり自尊心に頼っているんです。でも僕たちも普通は自愛心より自尊心に頼って生きてますよ。「あいつよりマシだ」みたいなね(笑)。
A:
やっぱり比べるの大事で。僕ちょっと一時期、一時期でもないな、今でもあるな、やっぱりコンプレックスが強いところがあるので、そういう時に「自分っていうのは全然決定的に他の人と違うものだから、自分と他の人を比べることなんかできるわけはない」っていう論法をよく使うんですけど。うん。
「比べることができないんだから、そんなもうどっちが、他の人よりも僕を優先する理由なんかない」とか、あるいは「他の人と横並びにされて並べられることなんかができる存在じゃないんだ」みたいなことを言うことがあるわけですけど。そういうかたちでこう自分の特異性みたいなものをこう描くと、ほんとにちょっとその後が続かない。他の人たちと健全に関係を結べていけないので、未来がないわけですよね。
仲良く周りの人たちと支え合って暮らしていく、みたいなかたちができなくて、ほんとにその、この王様みたいじゃないけど、全世界を全部自分の力で引き受けて支えるみたいなものすごい存在になれないと、この中でうまく生きられなくて。
そう思ったらやっぱり人と付き合わなきゃいけないわけです。そうなると他の人と同じように仲間に入れて横並びにしてくれてるとか、比べる比べないとか、あるいは優れてる優れてないとか、そういう中でじたばたするしかないかなあ、みたいなところにいつも戻ってくる。
そういうようなことを僕、ちょっと失敗したりだとか怒られたりだとか、なんか人よりもすごく劣ってるなあと思って絶望した時とかには、今言ったような思考パターンにぐるぐる回っていくことがあります。それに比べるとなんか、このうぬぼれ屋は強いなあという気もする。
西川:というかファンを待っているんです。滅多に来ないわけですけど。
A:ですよね。なんか外部から来た人でいいんですよね、それがね、なんか。うぬぼれてて一番だから、自分よりもなんか劣ってる人が来てくれて、「これで自分が一番になった」みたいなかたちを待ってるわけではないってことですよね。
西川:そうです。拍手してくれた人に「ありがとう」って言うために帽子かぶってるわけですから。人をおとしめて、というか、あなどって、「自分のほうがえらいんだ」という人じゃないんです。
A:うん。でも実際ほんとにこの星にこの人しかいないんだったら、実際この星で一番ハンサムで、おしゃれな、服を着てて、金持ちで、頭もいいですもんね。
西川:そうです。
A:それは事実ですもんね。
西川:でも事実は人を支えない。だからさっきあなたがおっしゃったように、「自分が他の人たちと比べようがないユニークな独自の存在だ」ということは事実です。事実ですけれども、その事実はその人を人間社会の中では支えないんです。
A:そうなんですよね。
西川:事実はそうなんですよ。
A:
うん、その比べられないはずのものを、お互いに違うはずのものなのに、なんか横並びにする基準を作って、その中で僕もいて、「できてるでしょ」とか「できてないでしょ」とか、「君より僕」とか「僕のよりも君のほうが」みたいなことを言いながら生きるっていう事実。その中でやっぱり、「他の人よりも君のほうがいいね」みたいなことを言ってくれる人がいたりとかするなんていうことが、僕をやっぱり支えてくれるわけですよね。
ただ「他の人も君も一緒だよ」と「みんな大事だから、他の人が大事なように君のことも大事なんだよ」みたいなんじゃ救われないことがあるわけですよね。「すぐれてるから」とか、「君のことが好きだから、他の人よりも君のことが特別なんだよ」ってなって初めて支えられるというところがある。
西川:
ありますねえ。いや、僕だってそうですよ。でも「うぬぼれ男がいい」といってるわけじゃないんですよ。「うぬぼれ男の側面が必ずあるでしょ」「他人のそんな側面、笑い飛ばせないでしょ」って。笑ったとしてもそこには必ずペーソスっていうか、自分の哀しみに気づくわけです。
その哀しみで絶望してしまうのではなくて、「人間ってね、ほんとに仕方がないんだよ」みたいな寅さんみたいな笑いがある。ほんまに笑わなしゃあないねん。だから笑いというのは、人を嘲る時の笑いっていうのもありますけど、その自分のどうしようもなさを笑うということもあるわけです。ようやくのところでそのバランスを取って生きていける。そのピエロ的なところも人間ってあると思うよね。
無条件のプレゼンス
B:
最初読んだ時、西川先生ずっと言ってましたけど、やっぱり承認欲求のこと、すごく思いましたね。インターネット、SNSとかやっててすごく思うんですけど、みんなまあ投稿する。すごくおしゃれな場所で、まあたとえばおしゃれな飲み物飲んでます、みたいな。
これってまさしくこのことだと思うんです。「いいね」がすごく欲しいんですよ。やっぱどんだけの人が「いいね」を押してくれるか。
西川:そうだよね!あれは「パチパチ」ですね。 SNSやってるやつ、みんなうぬぼれ屋だよなあ。
B:だから生きていくためのほんとに必要不可欠なものになってますよね。やってない人少ないと思います。まあこの世代の人はね、ほんまみんなやってると思いますし。
西川:
だからどうしてもね、不可欠なものではあるけれども、「これだけでいいか?」ということがまたありますよね。 不可欠ではあるけれども、まあ必要であるけれども十分ではたぶんないんです。
自尊心だけを満足させられた。そんなことはほとんど不可能だと思うけど、一瞬はできるんですよ。一瞬、自尊感情を満足させることはできます。「フォロワーが何万人」とかいってるやついるじゃないですか。「よかったね、パチパチパチ、僕ももう一つプラス」みたいな(笑)。でも、「いつまでもそれじゃあだめでしょ」と言いながら、じゃあ、じゃあ何が必要なのか?
B:ねえ。だから、言ってましたけど、そのうぬぼれ屋っていうのは「空(くう)」って読むって。
西川:うん、「空しい(むなしい)」。
B:ほんとに、相当空しいですよね、だから。一瞬だけですよね。でまた次投稿するわけですよね。で、それがつまり「一番」という言葉にもつながるのかなっていう気もするんですけど。
西川:「一番」というのは序列の話です。自分が変わらなくても、自分よりすぐれた奴が出てきたらすぐにべったにでもなるんです。
B:
そうなんです。だからそれはもうはてしないもんなんですよね、たぶん。僕はそういうふうに「一番」というのを感じました。何て言うんですかね、もう埋まらないもんですよね、だから常に埋まらない欲求的な、欲求があるんやなあっていうのがまず、すぐ浮かびました。
それと後、『星の王子さま』は常に星に一人ですよね。その設定って何なんやろう?
西川:何でしょうね。
B:
僕は東京に行った時にめちゃめちゃ孤独を感じたんですよ。それは人がたくさんいるからすごく感じたもんだったんですね、その時は。こんなに人がおるけど、まあもちろんそれは承認欲求的なもんだとは思うんですけど、誰も僕を知らない、認めてない。
その設定のほうがより孤独を感じたわけですけど、まあ星には一人しかいないっていう設定は何なんだろうかなってのもちょっと分からなくて。分からないって、わざわざそんなこと考えないんですよ。こういう話し合いやからこそ、なんかふとそんなことを思いましたけどね。
西川:
まあこれは群衆の中の孤独ではないですよね。だから孤独が、必ずしも孤立とか孤絶ではないんですよ。うーん、どう言ったらいいかなあ。人をね、求めてはいるんですよ、王様も、それからこのうぬぼれ屋も。求めてないのはね、飲んべえとビジネスマンと、みたいな感じですよね。点灯夫も別段求めてないと思う。
だから一人でいるという事実と、それが孤独なのか、それとも孤立っていうか人を求めている、すごいさみしさ、孤独、独りぼっちなのか、それとも一人で生きてるっていうような…、まあ僕も何回も書いたりしゃべったりしてますけど、やっぱり違うわけです。うん。
外から目に見える状況で「星に一人」というのが、「孤独だ」とか「部屋の中でたった一人死んでて見つかった、孤独死だ」と言いますけど、目に見える孤独死よりも、いっぱい取り巻きがいる中で亡くなる人が孤独ではないかと言うとそうでもないかもしれない。だからほんとにどこでそれを見抜くのか。
このうぬぼれ男もやっぱり空回りしてる部分あるわけですよ。どこが空回りしてるのかということを見抜かなきゃいけない。帽子を上げること、変な帽子をかぶってることは別にこれ悪いことではないと思うんです。
「称賛するというのはね」というこの後ろの文章です。この「一番」という、自尊心に関わるような競争的な自尊心に関わるところと、それからその「ハンサムで、何とかで、かんとかで」って、僕たち基本的に認めてるじゃないですか、これ。
でもそうじゃない何があるのか?。たとえば称賛するとか相手に感心するだとか、相手の存在に感動するっていうことですよ、「素晴らしい!」というのはいったい何なのか?。
鷲田先生なら「条件をつけるな」って言うと思います。無条件のプレゼンス。「あなたがいるということ、そのことが私にとっては驚きであり、喜びであり」ということでない限り、何らかの条件をつけた限り、「心が美しい」とか云々って言ってもだめなんです。
「こういうのは物質的な価値観でこういうのはだめですよ」「もっと精神的なものを大事にしなきゃ」と言ったってだめなんです。精神的なものだってやっぱ計れるものというか条件ですよね。
だからそういう「条件をつけない」ことが大事かもしれない。じゃあ条件をつけない承認っていったい何なのか?。他者からの承認を求める承認欲求があるけれども、その承認欲求を僕たちはついつい「あなたがいいわ」「いいね」というプラスの評価を受けることが承認だと思っているけれども、本当の承認っていったい何なんだろう?。
「お前なあ!」と言うのも、これ承認してるんですよ。ここにいなければ「お前なあ!」って言えないわけですから。つまり言ってみたら、「何かが起きる」ということです。「何かが起きる」とは出会いなんです。自らも何かと会う存在だということ自体が、人から承認されることです。
だから「自分は誰かに会うだろう」と思うだけでいいんですよ。「自分は一人ではない。今は一人のように見えても、誰かと会うはずだ」って。出会う存在を、そのまんま丸ごと承認することが必要かもしれない。だから僕たちもそうなんですよ。「こういう人だから」じゃなくって。通り過ぎられるかもしれない。
「出会う」という経験は、相手が必ず認めてくれて、そこでいったん立ち止まって自分のほうを見てくれないと、起きないわけです。それは「何やこいつ、変なやっちゃな」でもそうなんです。「認める」というのはそういうことなんですよ。スーッと通り過ぎたりだとか、見かけて離れるっていうのもそうですけど、そうじゃなくって「出会う」。「出会う」とは、自分も「会う者」として認められることです。それには向こうから認められるだけじゃだめで、こっちも認めないといけない。
僕はいつも言うんですけど、「目が合う」というのは、いくら見られてても自分が見つめ返さない限り、起きないわけです。「見る」と「見られる」、この二つ、能動と受動がお互いの間に同時に起きる。これ誰もコントロールできないんですよ。どちら側も。
そういう出会いの奇跡の一端を、誰かと出会うことによって、自分が担う。この考えは「関係の中でしか自分も相手も生まれてこない」と思っていないと出てきません。要するに他者を承認するとき、「他者の属性の何を称賛するのか」と言ったらだめなんです。逆に「自らの属性の何を認めてもらおうか」と言ってもだめなんです。承認とは「出会い」「出会う」ということですよ。出会う事実、出会うことの奇跡みたいなものです。
称賛するとか言ったときには、「自分の何が」とか「相手の何が」とか、自分の属性であったり相手の属性であったりを言うわけです。「ハンサムだとか金持ちだとか、そんな表面的なことに」と言うけど、「本当は心の美しさ」といったとしても、全部一緒ですよね。だって属性の話だから。
そうじゃなくて、「そういう他者の属性、自分の属性って個体的なところでものごと考えるんじゃなくって、出会いそのものの中に、そういう自分たちを超えた何かがあるんだ」、「もうすでにお互いがそれは認められているんだ」という考え方を、鷲田先生ならもっと上手にそう言うと思います。僕は臨床哲学で鷲田さんから教えられたのはそのことなんです。
ケアについても、どうしても「自分のケアはどうなのか?」「自分のケアは正しいのか正しくないのか」と自分のことを批評しますよね。「この人にはどんなケアが必要か」というかたちでこの人を評価しますよね。だからやっぱりそういうところでは本当のケアというか人との関わりはやっぱり見ることができない。
それをすべて見渡すような視点はわれわれ人間にはないわけです。でも、ないと分かりつつも生きてる。分からないけれども生きてるという矛盾には、少なくとも自覚的にあり続けたいです。
やっぱり人間はつらいからね。どうしたところで分かりやすい方向に、言葉もそうですけど、いってしまう。必ず分かりやすくなるんですよ。そこを、できるだけ言葉と闘いながら真相を探っていく。哲学は言葉でするわけですけど、でも言葉に頼らない、言葉と常に対峙する。論理にも頼りますけれど、論理に頼りきってしまわない。
まあ言ってみたらね、こんなふうに、あらかじめ負けがわかっているような、決着がつかないような勝負に挑むのがまあ哲学なんじゃないかなと思うわけです。わけ分かんないですけど(笑)。
丸ごとの承認を
D:
四国遍路に初めて行った時に、三十日ぐらいの時に坊主の人に夕方出会ったんですね。駅に野宿しようとしてた時。その時に、その人がなんかもう二、三分話しただけで、「ホラ吹きだな」と分かる感じの人で。「いや俺は一日六十キロぐらい歩ける」とか「托鉢したら二、三万はもらえる」とか(笑)、そう言うんですよ。
「ああ、ああ」って別に反論はせずに聞いてて。「コーヒー持ってるから、じゃあ飲め」とか言われて、「いやちょっと僕飲んだら眠れないので、いいです」って言っても、「いや飲め。いや眠れるから飲め」(笑)ってずっと言ってくるんです。ほんまなんかめんどくさいと思って(笑)。
まあ次の日はちょっと「一緒に行く」みたいな話になったけど、「いやいや、僕はちょっととてもそんなスピードでは歩けないので、先に行ってください」と言ったんですよ。その日はわりと坂道っていうか下りが多かったのもあって、僕も足痛いんだけど四十キロぐらい結構行けて。ちょうどそこにこう善根宿[*4]っていうか泊まれる所があったんです。
そこに入ったら昨日の駅の人がいて、「あ!」みたいな感じで。「いやなんか、今日はその、本来ならもっと行けるんだけれども、まあたまたまちょっと話とかがあって、ここに泊まってるんだ」とか言ってきて。「何でこの人ともう一回会うのかな」って、僕にとってなんかものすごい思い出だったんです。
あとで、いやあ、なんかもう四国遍路の中で一つの出会いって言ったら、あれが結構大きいかなと思って。あからさまじゃないけれども、自分もああいうことじゃないかっていうのは、なんかすごく思えてきて。「あ、自分結局あんなことばっかりしてるんじゃないかな」みたいな。それが、思い出してきましたね。
僕はなんか四国遍路をして、それまで全然生きていけるという感じがしなかったんだけど、「いや何となく大丈夫なんかな」みたいな感じになったんです。四十日ぐらい歩いたらですかね。
「それって何でかな?」と思った時、四国遍路を歩いてたら、その遍路の格好していたら、いつも声かけてくれない人とかがすごい親切にしてくれるんですね。僕、地元愛媛なんで、遍路さんも見ています。でもそういうすごい優しさを別に普通の生活をしていたら体験しないわけですよ。
だけど、関われるきっかけさえあれば、ものすごく人は人のことを思いやったり親切にするんだなというのが、四国遍路をした時にほんとに分かって。
自分が間違った道へ行った時だけちょっと後ろから声かけてくれる人とか。見守ってくれてるんですよね。それはなんかすごくこう自分の世界観を変えたというか。まあ人間観みたいなところが変わったんだろうなって思いました。
うぬぼれ屋の「一番の金持ちだと思ってくれ」も、やっぱりこう出会いを求めてるんかな。今知ってる中で一番欲しいものがこれなんだけど、でもそれすらも変えるような出会いをほんとは求めてるような気がしました。でも王子はもう初めからバカにしてるから、そんな出会いなんか起こるはずもないのかなっていう。うん。
[*4] 善根宿:修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。
西川:
まあもう一つは、うぬぼれ屋自身が「称賛してもらいたい」というところがほんとには分かっていないかもしれない。ほんとはね、何かをじゃなくて「丸ごと」を肯定してもらいたいんです。
でもそんなこと言ったって相手分からないでしょ? だから「ハンサムだ」とかは、世間の価値観に合わせてるんですよ。そうじゃないかなあって思いますね。だからさっきのおっちゃんにしたって、「俺は六十キロ歩けるよ!」とか「托鉢で三万もらう」とか、要するに自分の身体的能力だとか、それからお金だとかそういうことですよね。やっぱり。
それは基本的に遍路してたら、逆に「まあ毎日三キロしか歩けませんね」「いや金はほんとにないですよ」とかいったりしますよ。これはありすぎてもだめなんですよね。「金なんか一切いらないよ、もう貯金で全部あるから」でもだめなんです。
行乞(ぎょうこつ)(※5)というか、そういうこともしながらとか、さまざまなやり方があるじゃないですか。だからそれは分かりやすい話なんだよね。遍路仲間に「僕はね、バラの花が大好きなんだよ」と言ったって自慢にならないんだ。でも本当は、自分というものを認めてもらう時には、そのことも含めて認めてもらいたいわけですよ。
[*5] 行乞(ぎょうこつ):乞(こつ)を行ずるの意。仏語。十二頭陀(ずだ)の一つ。僧侶が乞食(こつじき)を行なうこと。托鉢(たくはつ)。
「バラも好きだけど、僕ねえ、家にいるヤモリがね、可愛くてね殺せないんだ」「ええ! ヤモリ?」みたいではなく、「ヤモリもいいよね」って、そういうこともほんとは全部認めてほしい。でもそんなこと求めても社会の中では無駄だって分かってるから、相手が認めてくれそうなことをやっぱり言っちゃうんです。
最初の象を飲み込んだ大蛇ボアの絵の話にもありましたね。みんなに「それは帽子だろ?」って言われたから、トランプのブリッジだとかゴルフだとか政治向きのこと、ネクタイのこととかしゃべってたって。そしたら相手は「もの分かりがいいやつだ」って言ってくれたって。やっぱり僕たちの社交的な言葉っていうのは、どうしてもそういうところに流れてしまう。まあそういう言葉を使うことが、すなわち大人になるということなんですよね。いつまでたっても「これ怖くない?」って言ってたら、もう大変なんです。
大人の世界では通用しないけれども、でも大切なこととして心に秘めておく。やっぱり忘れちゃいけないでしょって僕は思います。ほんとはね、大人になる時に、僕たちいろんな思いっていうものを、「これは大人の中じゃ通用しないんだ」と思って、自分だけの宝箱に入れたかもしれない。まだそのことを覚えている間は良かった。でもそれをどこに隠したか、そこの中に何を入れたかも思い出せない状況になってるかもしれません。だから少なくともそれを思い出すきっかけに『星の王子さま』はなると思います。
サン=テグジュペリは、自分の幼い時に書いた戯曲だとか、お母さんから来た手紙だとか、自分のデッサンだとか、まあ子どもの頃遊んでたガラクタを、全部大きな櫃というか、でっかい箱があるんですけど、それに全部片っ端から入れていたらしいんです。それで時々帰っては全部一人で散らかすのが、一番の自分の楽しい時だったそうです。「僕の宝物はこれだけだ」って感じで。
コンスエロは嫁さんにそれを託すんです。「決して開けないでくれ」みたいな。でも、コンスエロは全部開けて売っちゃうんですけど(笑)。ま、彼は四十四歳で亡くなる寸前まで、そうやって自分の故郷(ふるさと)に、子ども時代の宝箱を入れてて、そのことを思い出すような文章も書いてるんですけど。
だから、きっと僕たちもいろんな大人の世界では通用しないと思った言葉だとか、否定されてしまったこととか、でも大事だと思ってることをどこかにしまったんですよ。どこかにしまったんですけど、そのしまったことも忘れているか、しまったことは分かっているんだけど何をしまったのかを忘れてしまったとか。もう一度それを思い出すことも必要なんじゃないかと思いますね。
言葉と意味と
E:そんな難しいことはあんまり分かんないですけど、王子さまが去って行った後のこのうぬぼれ屋のおじさんはさみしいなあと思いましたねえ。
西川:さみしいでしょうねえ。
E:
ねえ、またさみしいなあと思って。なんかそれがちょっと、うーん、みたいに、そうやって今ね、読んでくれたように読むと、そうだなあと。ただ「変わった人」と思ったら、読み進めれるんですけど、出てくる人たちみんなね、こうさみしいなあと思ったり。
ちょっと話違いますけど、自尊心で言えば、今の職場で困っていることは、みんな自尊心というかプライドというか、称賛を求める人たちが多くて、トップの管理職の人は悩んでます(笑)。そんなめんどくさいことにもやっぱり大勢いたらなるんだなって思って。
西川:そうやねえ。「でも、ほめてあげたいけど、帽子持ってないじゃん」とか言って(笑)。
E:「でも私、帽子じゃないけどこんなんがある」とかね、みんなそれぞれ言い出すんですよ(笑)。めんどくさいと思いながら、そんなんもあるなと思って。
西川:「だけど、こんなことをして、いったい、あなたには、なにになるっていうの?」って、この言葉さえなかったら、もうちょっとうぬぼれ屋はほっとした気持ちでいたかもしれませんね。
E:そうでしょうねえ。
西川:
王子のことばは、たしかに一部当たっていることは当たっているんですけど、核心をえぐっていない。相手のことを分かってないんだから。ほんとに核心をえぐるような、グサッていうか相手が変わるぐらいの、自尊心じゃないところで自分が生きるっていうこと、出会えたことが素晴らしいじゃないかというところにまでいけば良かったんでしょうけど、やっぱり表面的な批評家的な態度になっている。この出会いはそれほど実り豊かなものにはなってないです。それはどちらにとっても、そうなんですよね。
しかし、こんな可愛いうぬぼれ屋いないですよね。「お願いだからほめてくれよー」とか言ってしまう(笑)。
F:この最初に、「手と手を打って、拍手をしてごらん」って、形から入らせるところがすごいおもしろいなあと思います。それを繰り返し繰り返しやらせて、そのあとで「ほんとに心から称賛してるの?」って聞くのが(笑)。なんかおもしろいなあと思って。形を教えて何度も何度もやってるうちに、元からファンだと思いたいから、心がこもってるはずだと思いたいってことなのかなあ。なんかここがおもしろいなと思いつつ、何だかちょっとよく分からない。
西川:
あ、なるほど。なるほどねえ。いやでも「パチパチって拍手してごらん」と形から入るというのは、非常にフランスのモラリスト的という感じもしますね。パスカルなんかも同じようなこと言ってます。
「信仰っていうのはまず跪いてお祈りを捧げるところから始まる、形から始まる」と。「別に心から始まらない」と言うわけです。うん。まあそういう伝統があるんですよね。フランス文学というかフランス思想の中に。
だから、まあ言ってみたら正しいといえばこれ正しいんだよね(笑)。だって、称賛することがどういうことかは分からないけど、称賛するにはどうすればよいかということは分かってるわけですから。
僕たちは子どもの時からいろんなことを身につけていきます。まず「身につける」。「いただきます」とか何とか。最初に意味は分からないですよ。言葉の意味も分からない。
まずは形というか振る舞いから身につけて、そのあとで「そのことの意味は何だろう」と言葉を覚えたり。言葉は目に見えないですから。目に見える自分がやれる振る舞いから、この世界というか世間の中に参入していくんです。
だから非常に分かりやすいですよ。「そうじゃなくって」ってという身につけ方。「お箸はこう持つの」とか「靴はそこで揃えるの」「こう揃えるの」とか。それは、人がちゃんと教えることができる。でも、心の持ちようなんて見えないから、どうしようもないんです。
そういう意味では身体から入るっていうこのうぬぼれ男はちゃんと賢い(笑)。いや、おもしろいですね。
G:
私はほんとにかわいらしい人だなあと思ってここは読みましたね。うーんと、その五分繰り返したら王子さまがこう飽きてしまったっていうのが、何だろう。
王子さまは子どもじゃないんでしょうけど、ほんとの子どもだったらもう、ずっとずっと「もう一回、もう一回」って、永遠と思えるぐらい繰り返して要求するんじゃないかなと思って。
たった五分でもうつまらなくなってしまうって、王子はどういう人なんだろうなと思って、読んでたんです。まあただ、うーん、愛おしいような感じには見えるけど、たぶん私は五分じゃこれ見てて飽きないだろうなって思いながら読んでたんですけど、でもはたしてこれを一日中されたとしても、やっぱりどこかで飽きるだろうなって思ったら、結局私も王子さまと一緒かなあ、みたいなことを自分が思ったり。
西川:
「これは何を意味してるんだろう?」みたいなことを考え出して、答えがつまらないと思ったら飽きちゃうんでしょうね。熊楠[*6]なんて粘菌をじーっと見て、二晩でも三晩でもいてるわけですよね。熊野の山奥で、じーっと粘菌を見ているわけですよ。
だから、彼はいつも顕微鏡を覗いて「この顕微鏡を見てたら飽きない」「全然飽きない」「宇宙見てるんと一緒や、曼荼羅だ」みたいなことを言っているわけです。そこに汲めども尽きないようなものを次々と見出せれるかどうか、ですよね。
熊谷守一[*7]がこうやってじーっと蟻見てるみたいに。放哉にも石ころの話があります。あの人、石ころをじーっと見ているんです。たぶん僕は見れませんね。でも見れないのはやっぱり知恵がついたからですね。「これは石だ」とか「あ、それは蟻だ」とか。やっぱり言葉を持つと、ある程度もう決めちゃうわけです。言葉は変化しませんから。
たとえば「川」という言葉。川は流れてるんですよ。ずーっと流れてる。一瞬たりとも同じじゃないですよ。だから「川」という言葉でもって概念でもって固定化して切り取らない限り、目の前には常に移り変わっていくその現象があるだけです。
だからそれを丹念に見ようと思ったらいくらでも見れるはずです。ところが「川」と思った途端にもうそれは「川」なんですよ。そういう意味では僕たちは言葉をもって、なんか「分かろう」と「分けた」途端に、もうそれは違うんです。
飛んでる蝶はいくらでも見てられますけど、標本になった蝶はそんなにいつまでも見れない。飛ばないからね。もっとも、蝶の標本の場合は好きな人いくらでもいるでしょうけど。
ともかく、本来、生き物の生きてる姿っていうのは飽きようがないんだけども、何か固定されてしまうと、まあそこには人が飽きてしまうみたいなところがあるのかもしれないですね。うん。
[*6] 熊楠:南方熊楠(みなかた くまぐす)、1867-1941、和歌山県生まれ。博物学者、生物学者、民俗学者。生物学者としては粘菌の研究で知られている。
[*7] 熊谷守一:くまがい もりかず、1880-1977、岐阜県生まれ。画家。自然の中に身を置き、自らの感じるものを「モリカズ様式」と呼ばれる独自の様式で数多く描いた。
哀しみに手を差しのべる
C:先ほどのあの、この本の中の話じゃないですけど、そのお遍路さんに行った時にね、そのホラ吹きというか(笑)。なんかでも逆にそういう人に会ったのに、「自分もそういう同じことをしてるんじゃないか」と思ったというのが、なんかちょっとドキッとしましたね。なんか誰かそういう人に会った時に「ああ、つまらないな」って思うんじゃなくて、まあ程度は違うけど、自分のことをそうやって省みれるというか、なんかすごいなと思いましたね。
西川:
まあ、人に聞こえる言葉でしゃべるか、それとも自分の中でしか聞こえない言葉でしゃべるか、という違いはあるでしょうけど。「いったい、あなたには、なにになるっていうの?」と、王子は言い残してるわけですよ。もうなんか捨て台詞なんですけど。
そこに「『おとなたちというのは、やっぱり相当変だなあ』ともっぱら心の中で言いながら」とあります。だから、王子の台詞というのは誰かに投げかける言葉と、それからもっぱら心の中で言う内言の二つがあるわけです。でもね、これも言葉なんですよね。
Dさんがさっき「自分もそういうことやってんじゃないかな」っておっしゃったのは、同じように誰かに「俺は何キロ歩いたぜ」とか言っているわけじゃないけど、たぶん「今日はこれだけ歩けた」とか、やっぱり自分の中で「今日はあれを我慢できた」とか「今日はちょっとつらくても頑張った」とか言うことがあるということです。
やっぱり、自分で自分を励ますような言葉なしに人って生きられないじゃないですか。「くそ、負けるか!」とか、なんかあるじゃないですか。これが自分を責めるような言葉ばかりになったら、もうほんとに生きていくのは大変です。
そういう意味では、ある意味ホラ吹きみたいな言葉を「人に聞かせてはまずいから」ということで、少なくとも自分の内にしか聞こえない言葉ではあるけれども、やっぱり発しないと生きていけない。
それを心の中だけじゃなくて、人に言わないとだめなぐらい空虚さ、虚しさ、弱さが手に負えなくなった人が、人から見えすいていると思われるようなホラにでも、愚かに見えても頼らないと仕方がない生き方になるのかもしれません。
だから僕はこう、そういう愚かさの向こうに見えるそのいかんともしがたい哀しみだとか、どうしようもなさみたいなものに、それをズバッと言っても仕方がないですけど、どこかで心をこう差し伸べる。そういうことがやっぱり大事かなって思うんです。
ここでの王子のようにですね、「なにになるっていうんだい」みたいなことをなんか皮肉って帰って行くというのは、「うーん、何だこのクソガキ!」っていう感じですよね。
A:このうぬぼれ屋、こう「手を叩きなさい」って言って叩かせてますよね。僕やったらなんかね、「叩いてください」って言われてないのに叩いてくれたら、なんか承認欲求満たされた感じするんですけど。「叩いて」って言って叩いてもらっても、あんまり満たされない感じがするんですけどね(笑)。
西川:ねえ。まあ一気に求めてないんじゃないんですか?(笑)
B:
そもそも王子って「なにになるっていうんだい?」みたいな性格でしたっけ?なんかその、「これやったらこうなる」っていう、そういうのを求めるキャラやったかな、って今ふと思ったんですけど。
「なにになるっていうんだい?」っていうのは、つまり意味を求めてるわけじゃないですか。そんななんか意味求めるキャラやったかな?ってふと思ったんですけど。もっともっと無知というか、ピュアというか。
西川:いや、いや、やっぱりあの、バラと出会う前に小さな星を自分が管理してるでしょ、毎日毎日。だから、こう掃除するのは火山が噴火しないように、とかね。こうやって摘むのはバオバブで星が破裂しないように。もう極めて大人ですよ。
B:なるほど。そういう意味ではすごく。
西川:
何のために自分がこれをしているのか、いうことについては常にきちんと言える人なんですよ。だからバラとの関係が彼の中では説明がつかなくなるわけです。覆いもしてあげる、水もちゃんと毎日あげる。でも相変わらずバラは、素敵だけどわがままばかり言うし、「このトゲがあるから」とか「トラが」とか。だから「いや、うちトラなんかいませんよ」。それ、「草なんか」って言ったらパチンッてやり返されるわけでしょう。
「いったい何なんだ、このバラと僕との関係は?」「僕がこうやって愛してることは彼女にとっていったい何なんだ?」みたいに、分からなくなっちゃうんです。そして分かることしか我慢できない。
B:なるほど極めて合理的というか、説明がつかないと分からないっていう、そこか。
西川:
うん。王子はそういう所にはいられなかったんです。まあ僕の読み方だと王子を片っ端からなんか皮肉って、「みんなが『王子さま素敵』って言ってるけど、こんなバカはいないよ」みたいな話をしてるわけです。
でも最初のうちはそうなんです。そういうメリハリがあるんです。もう最初っから王子ってもうものすごく純粋無垢な人としてあって、ずーっとそうで、と見るのは、やっぱり平板な読み方じゃないのって思いますね。
で、ここがどんなふうに変わるのかとかって読むのが『星の王子さま』の読み応えじゃないでしょうか。でもね、それはいくら文章を読んでもたぶん分からないのかもしれません。何て言うのかな、自分に思い当たる節ができないと読めない。
はい、もうみなさん、お酒も出てますし、これぐらいで勉強は終わりにして。勉強というか何というか、はい。ありがとうございました。
一同:ありがとうございました。
西川:やっぱり全然やっぱり予想と違ってね、「ビジネスマンまでいく」とかって言ってたけど、うぬぼれ屋で終わってしまいましたけど(笑)。
(第12回終了)