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第22回ケア塾茶山 『星の王子さま』を読む(2019年6月12日)
※使用しているテキストは以下の通り。なお本文中に引用されたテキスト、イラストも基本的に本書に依る。
アントワーヌ・ド・サン=グジュペリ(稲垣直樹訳)
『星の王子さま』(平凡社ライブラリー、2006年)
※進行役:西川勝(臨床哲学プレイヤー)
※企画:長見有人(ココペリ121代表)
はじめに
西川:
それじゃあ、ぼちぼち始めましょうか。今日で22回目。128ページまで進んできました。大きな山場のところが一つ過ぎましたね、
「君が君のバラのために失った時間こそが、君のバラをかけがえのないものにしているんだよ」
このキツネの言葉が、僕が『星の王子さま』をケア論として読むって決めた時の一番の理由です。自分が、何かのために誰かのために失った時間こそが、相手を自分にとってかけがえのないものにするっていうこと。それとそのページのうしろにある次の言葉。
「君が自分でなじみになったものに対して、君はずっと責任があるんだからね。君は君のバラに対して責任があるんだよ……」
これは僕にはまだわからないんです。ずっと考えてますね。「かけがえのないものになった」はわかるんですけど、自分でなじみになった、別の翻訳では、「君が自分で飼いならしたもの」に対してずっと責任があるっていうのが。「責任」も、どう捉えるかによって、色んな解釈があるかなと思いますね。
自分自身が誰かのために失った時間てあるのかなあ、って考えるわけです。なくもないか…と思ったりもするんですけど。そうやって、なじみになったことはあるんでしょうけど、それが自分の人生のなかで、抜きにはできない誰かになってることもあるんでしょうけど、そんな相手に対して「ずっと責任がある」というふうには、僕は、生きてないですねえ。
でもその「責任」が、相手と自分の関係を維持するだとか、相手の生存というか相手の望みを叶えることに関して自分が責任を持つとかという意味であれば、確かにできていないんですよ。まあ、「責任」がどういうことを指してるのかって考える必要があるのかもしれません。
『星の王子さま』のストーリーそのものは、バラのために自分の命を捨てて、自分の星に、バラのもとに戻るわけですよね。それに関して王子は、今回の時点では「そうだ。そのとおりだ。俺もそういうふうに生きよう」とは考えてないですね。
ただ、「自分の時間を失う」ということについては色んなところで出てきます。まあ、相手のためによかれって自分のなかで決めたことは、相手のために時間を失ってない。
稲垣さんは「時間を失う」とここを翻訳されてますけど。「費やした」とか「使った」という翻訳のしかたがほとんどです。「使う」であれば、看護でも介護でもそうですけど、相手のためにこうすればいいと思って、職務として、相手のために自分が動くっていうことです。でも、そもそもそれがいいとケアする側が考えているのであれば、それは決して自分の時間を失ってない。
たとえば、いくら自分がよかれと思って、「こういうふうにすればこの人が望ましい状態になるだろう」と自分が苦労しながらやったところで、いっこうに効果が現れないとします。
言ってみたら、ケアが失敗したようなそんな環境でも、そこから立ち去らずにそのことを続けて、しまいには何で自分がそのことをやってるかを自分のなかに理由を見つけられないような状況であって、徒労感に襲われるようなことがあっても、相手との関わりをやめない。そんなところまでいければ、「相手のために自分の時間を失った」ということはできるかなと思いますけど。
通常、職業的に看護とか介護とかの場合、看護、介護とは、客観的、科学的に見て根拠があり、成功の目処が立ってるっていうことです。むやみやたらにやるんじゃなくて、こういうふうに自分が相手に関われば相手がこういうふうに、世間なりそれから本人が望んでることが実現するか、もしくはケアの文脈のなかで望ましいとされるような結果を生むだろう、というところでやるのが通常なわけです。
「やってもやってもだめだ」っていうケアは、基本、認められてないんです。そういう時にはね、やっぱり、「相手のために自分の時間を失う」とはなってないんじゃないかな。
人生のなかで、人と出会ったりだとか人と共に時間を過ごしたりっていう時に、「相手のために時間を失う」ことは確かにあるだろうなって思います。それこそね、重い障害を持った子どもが生まれて、普通の子育てよりはずっと苦労するとします。
その苦労は、いわゆる子どもがだんだんちゃんと歩けるようになったとか、話ができるようになったとか、字が書けるようになったとか、どんどんしっかりしてくるみたいなものではないでしょう。いわゆる定常発達の子どもを育てる時に、親が「やっと苦労が報われた」みたいな、そういう意味での結果は、なかなかもたらしてくれないわけです。そういうかたちでの苦労を生きてる人もいらっしゃいます。
僕の場合には、「時間を失う」ことが、自分の人生のなかの、どういう時期の、どういう関係なのかまだまだわからない。でも、これはすごく大事なことだと僕は思っています。
いわゆる専門職というか役割として、世間的にも評価されているような、うまくいけば自分の手柄にもなるような看護なりケアとは違うあり方がある。そしてそれがその関係をかけがえのないものにする。この言葉は、もう一度じっくりと考えなおしてみる必要があるんじゃないかな。そう思ったのが、この本をケア論として読んでみようと思った理由です。
転轍手との会話
西川:
さて、今日のところは挿話的に扱われているところです。本筋の『星の王子さま』のストーリーからは、「取ってつけたようなところ」というのが、多くの人の意見みたいです。そこもちょっと読んでみて、みんなに色々考えてもらいたいなと思います。
「こんにちは」と王子さまが言いました。
「こんにちは」と転轍手が答えました。
「ここで何をしているの?」と王子さまはたずねました。
「汽車の旅客を選りわけているのさ、千人ずつまとめてね」と転轍手は答えました。「旅客を乗せた汽車をおれは送りだしているのさ、右の方向へやったり、左の方向へやったりしてな」
窓から光のあふれる特急列車が、まるで雷のような轟音を響かせながら、転轍小屋をガタガタ震わせました。
「転轍手(てんてつしゅ)」って普段の言葉ではしゃべりませんし、そもそも転轍手自体が日本にはたぶんいませんね。転轍小屋もない。これ、英語で「switchman」かな。単線の線路があって、右と左に分かれる。これを「ガッチャン」と右に行ったり左に行ったりさせるレバーがあるんですよね。今は自動化されてますけどね。
僕なんかが住んでた汐ノ宮では、そのもうちょっと手前から単線になっていて、古市っていう駅あたりでガッチャンってやってました。転轍小屋がそのちょうど分かれ目の所に建ってて、列車が来たら「あの列車はどこそこ行きやから」ということでレバーを「ガッチャン」みたいなね。そういうことをやってた人が転轍手ですね。
ここでもこれまでと同じように、王子さまと誰かとの出会いですけども、王子さまから挨拶をしてますね。王子がだいぶ変わってきてます。「ここで何をしているの?」って好奇心満杯なのは相変わらずなんですけどね。
汽車の「旅客を選りわけてるんや」みたいな話しをしてます。もうちょっと先まで読みましょうか。えっと、特急列車が出てくるっていうね、こういう、スピードのところが出てきますけど。
「急いでいるんだなあ」と王子さまは言いました。「あの人たちはなにを探しているのかしら?」
「乗せている機関士にしたって、それは分からないさ」と転轍手は答えました。
今度は逆の方向に向かって、別の光の特急列車が轟音を響かせました。
「もう戻ってきたのかな?」と王子さまはたずねました……。
「汽車も旅客もさっきのとは違うよ」と転轍手は答えました。「さっきのと入れ替わりにやって来たのさ」
「あの旅客たちには気に入らなかったの? これまで自分たちがいたところが」
「自分がいるところは、だれだって気に入らないものだよ」と転轍手が言いました。
三つ目の光の特急列車が轟音を響かせました。
「今の旅客たちは、最初の旅客たちを追いかけているの?」と王子さまはききました。
「あの人たちはなにも追いかけちゃいないさ」と転轍手は答えました。「あの汽車の中で旅客たちは眠っている。さもなければ、あくびをしているのさ。子どもたちだけが、汽車の窓ガラスに鼻をつぶれるほどくっつけて、外を見ているんだ」
「子どもたちだけが、自分がなにを探しているか、分かっているんだね」と王子さまは言いました。「ぼろ切れでできた人形のためにだって、子どもたちは平気で時間を使ってしまう。おかげで、その人形はとても大切なものになるんだ。だから、人形を取りあげられたりすると、子どもたちは泣いてしまうんだよ……」
「子どもたちはいいなあ」と転轍手が言いました。
「ぼろ切れでできた人形のためにだって、子どもたちは平気で時間を使ってしまう」って、どっちのセリフだと思います?王子のセリフか、転轍手のセリフか。「子どもたちだけが、自分がなにを探しているか、分かっているんだね」は、「王子さまは言いました」って書いてありますね。「子どもたちはいいなあ」は転轍手が言ってるんですけど、この真ん中にあるセリフだけはどちらのセリフかはっきり書いてないんです。
稲垣さんはかなりきちっと訳す人なんで、原文でもたぶん書いてないんだと思います。どっちやと思います?
A:王子さま。
B:僕は転轍手やと思います。
C:王子かな。
D:転轍手。
E:王子さまだと思う。
F:王子さま。
西川:
やっぱり転轍手という意見もありますね。王子がぼろ切れでできた人形のことを知ってるかどうか、今までの話だとちょっとよくわからないので、地球の人である転轍手の方がわかってるような気もしますしね。
「子どもたちはいいなあ」っていうのも、直前の話を受けての「いいなあ」かちょっとよくわかりません。王子の「子どもたちだけが、自分がなにを探しているか、分かっているんだね」というセリフの理由だと考えれば、王子さまの言葉としてスムーズに流れます。王子の言葉かなあ、と思ったりしますけど。
確かに、「ぼろ切れでできた人形」、要するに役にたたないというか、そんなに大したものでもないものに対して、平気で時間を使ってしまうところは、先ほど言った、「君が君のバラのために失った時間こそが、君のバラをかけがえのないものにしているんだよ」の部分と響き合うような中身ではあるとは思います。
歩くことと列車に乗ること
西川:
転轍手という仕事は、転轍手に言わせると「汽車の旅客を選りわけているのさ、千人ずつまとめてね」ということでした。千人ていうマスですよね。それで、一人ひとりの旅客の顔なんてどうでもええわけですけども。
「汽車の旅客を選りわけている」に続いて、その次の言い方は「旅客を乗せた汽車をおれは送りだしているのさ」。旅客よりも汽車のほうが、重点なんです。もちろん、転轍手の仕事って、本来汽車の動きを変えるわけですから、こっちのほうが真実に近づいているんですけれども。
その汽車と旅客の関係については、「なにを探しているの」「乗せている機関士にしたって、それは分からないさ」って言ってますね。つまり乗せられてる人間はもっとわからないと言ってるわけです。
彼はどこか目指している人たちの支援をしてるわけじゃないんです。「右行くか左行くか選りわけてる」だけ。実際には時刻表にもとづいて、やってきた汽車を、「この時間にやって来た汽車は右、この時間に来たやつは左」って、時刻表に応じて、汽車を選り分けてわけです。
そういう意味では、転轍手の仕事が旅客にとってどういう意味があるかとか、機関士にとってどういう意味があるのかという部分には結びついてません。だから、転轍手の仕事の非人間性、人間関係切れたところでの仕事であることを転轍手自身に説明させてるところなんです。
ぼく、四国遍路に行ってからつくづく思うんです。歩くことと電車に乗ってどこかに行くのはまったく違う経験だなあって。移動という意味ではどちらも同じように思うんですけど、歩くことは生き物としての本質である「動く」ことにつながっているように思います。列車に乗って移動するのは「移送されてる」みたいに思います。列車のなかにある荷物と同じなんですよ。
なかで動く必要もない。動く意思だとか努力だはどこそこの電車に乗ることだけ。行き先は決めてるわけですけど、それは「何時何分に来る電車に乗る」だけで、「時刻表に応じて、右、左」にやる転轍手の仕事とほぼ同じなんです。
乗り物ができて以来の人間の移動のあり方が問われているわけです。王子は最初ものすごいスピードでやってくる特急列車に対して「急いでいるんだなあ」とか、それから「もう戻ってきたのかな?」とか、出ていったのは自分たちのいる所が気に入らなかったのかな、とか、「今の旅客たちは、最初の旅客たちを追いかけいるの?」って、汽車が動いてることの理由に旅客たちの気持ちを読み込もうとしています。
これ考えてみれば普通のことなんですよ。人が移動するにはそれなりの理由っていうものが、その人間の側にあるはずなんです。だからものすごいスピードで走ってたら、急いでるに違いないと思うし、次にやって来たら、「ああ、今の旅客たちは、最初の旅客たちを追いかけてるの?」って思うし。
でも、転轍手は「そういう旅客たちの意思だとか考えなんて関係ないぜ」って冷たく言ってのけるわけです。王子はやっぱり王子の文脈で、始めて見たかもしれないそういう特急列車について、転轍手に対して説明を求めているんだけど、思ったような答えは全然返ってこない。
千人も人が乗っているはずやのに、その旅客たちのことはまったく話題にあがってこないし、それを運転してるはずの機関士についてもわからない。ただ、行き先を決めるのは、時刻表どおりにスイッチを右に左にって、選り分けてる自分の仕事にかかってるだけ、という話になってるわけです。
効率性を求めるシステム
西川:
ここらへんに、現代文明に対する批判が読みこめるというのは、多くの人たちが言ってることですし、そうなんですけれども…。
今われわれは、酔狂に四国遍路出かけるとか、ハイキングするとか、登山するとか、日常と違った何か意味を探そうと思った時に、自らの足で歩くことをしようとするわけです。
それ以外だと、われわれだいたいこの「旅客」になってるわけです。旅客になると、鉄道みたいなシステマティックなものに組み込まれて、自分が行きたいようには行けなくなります。何時発、何時着っていうふうに、もう自分の意思とは違う。時刻表に則ったかたちで動いてるだけで、機関士の「この客たちをどこそこに連れていってやろう」みたいな思いなんて関係なく(まあ、思ってるかもしれませんよ)、基本はそんな思いよりも、「何時何分にどこそこを通過して」っていうことだけを気にしていないと列車としては機能しないんですね。
そういうシステムのなかで人はものすごいスピードで長距離を移動して大勢の人たちが行き交っているんだけど、そこに生きてる人たち、実際に居場所を移ろうとしている人たちの思いなんていうものは、まったく反映されていない。
多くの人はそのほうが効率がいいし正確だってことで、電車に乗ったりバスに乗ったり自分で車を運転したりするわけです。車にしても今は自動車専用道路を走るのが普通です。道なき道をっていうのはもう遊び、趣味の世界でね。四駆で何か走るっていうのは、そういうスポーツやとか遊びでやるけれども、日常のなかでそういう道なき道をわざわざ踏破するなんてことはしてませんね。
高速道路なんか特にそうですけど、もう、いったん走りだしたら止まれない。止まるところも指定されてるわけですし、出るところも指定されてるわけです。だから自分で運転しながら自分の思うようには全然運転できないわけです。
そのことに対してわれわれは不自由感だとか、自分の意思がないがしろにされてるとは思わずに、そういうシステムに乗っかってることがもうごくごく当たり前になっているわけです。でも、その背景にあるのは、効率性であったり正確性です。それを追い求めていくと、システム依存みたいなかたちの社会になっていきます。
それがいいか悪いかは、ここでサン=テグジュペリは特別に言ってませんし、彼自身がスピード競争の一端を担っていた側面があります。郵便物を運ぶ飛行機の飛行士として、また、そういう飛行会社の幹部として、列車輸送に勝つための夜間飛行を、郵便事業のなかに取り入れたり、できるだけ短時間で大陸間を結ぶための新しい空路開発に携わったり。
ヤクザな商売というか、冒険的な職業として飛行機乗りは思われてたわけですが、その背後に蠢いていたのは、社会が効率化へ向かうためにシステマティックに郵便航路を開拓し、全世界を覆い尽くしていくような網の目を作っていくことです。企業戦士として彼は猛烈に仕事をやっていたわけですね。
ただ、そのことについてはあんまり書いてないですよね。ほかの作品のなかでも書いていない。自分がパイロットとしての前人未到の境地のなかでどんなことをやってきたのかとか、はじめて鳥の視点から人間の大地を見た時にどういうふうに映るかっていうようなことを、書いてるわけです。
でも一方で、『星の王子さま』の転轍手の話にあるような、スピード重視、効率重視、正確さ重視の交通網のシステム化の流れに対しては、一定の批判的な気持ちがあったということが、この挿話のなかで明らかになっているように思います。
「ここ以外ならどこへでも」という欲望
西川:
「自分がいるところは、だれだって気に入らないものだよ」ってのはよく言われる言葉ですね。「ここ以外ならどこへでも」っていう欲望は…、人間のからだを持ってるかぎり、からだのある所が常に「ここ」なわけですから、消しようのない、無限に続いていく欲望みたいなものになってしまうわけですけど……。こういう欲望がいつ生まれたのか。
人類の歴史のなかで、それほど長い歴史は持ってないはずだと思います。本来、人間って定住生活できなかった、か弱い生き物です。群れをなしながら次々と自分たちが生きられる環境を探しながら放浪していたわけです。やがて知識が増えて天体の運行から、時の流れやとか暦を作って、暦を作ったら予測ができるようになる。「あとどれくらい日が昇り沈んだら、寒い冬が来る」とか、「あとどれくらい経ったら、この作物が実る」とか、っていうかたちで、1年間の計画が立てられるようになるわけです。
それまでは、「今ここ」に、自分の獲物がいるのか。それから食べられる物が生えてるのかっていう、「今ここ」だけでやっていたわけですから、それがなくなったらそこは捨て、次なる所に自分たちの生きる糧を求めながら移動した。それが人間だったんです。そこに加わった人間の知恵が、まあ言ってみたらプロメテウス[*1]ですけど、「予め知る」っていうことです。
[*1]プロメテウス:ギリシア神話に登場する男神で、ティーターンの一柱。イーアペトスの子で、アトラース、メノイティオス、エピメーテウスと兄弟であり、デウカリオーンの父。ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。
「予め知る」、いわば先行知、のちに科学と呼ばれるような知識のあり方を身につけてきた時に、そこに定住して計画的に農耕だとかそういうことをはじめたことが文明の始まりなわけですね。だから、人間が「ここ以外ならどこにでも」という欲望を持ったのはだいぶ後です。
今すぐに結果が得られなくても、そのさきの収穫を見越したりというかたちで。今すぐ結論が出ないことに関しても、さきの見通しを立てて無駄なことはしません。うろうろ歩いてる時は、結果は常にその時になってみらなわからへん。餌場がどこにあるのかはわからない。
季節の観念もない時には、嵐が多い季節がだとか、寒い冬が来るだとかもわからずに、ただただ自分のまわりの状況の変化にうろたえながらなんとか生き延び続けてきたわけです。失敗も多かったでしょうし、長く生きることもできなかった。それがだんだんだんだん危険も予知し、または自分たちに与えてくれる収穫を予め計画のなかに入れていくようになる。
人間の文明的な社会の礎は、定住社会から始まるんでしょうけれど、それが長く続いてきたあと、それこそ18世紀の中頃から蒸気機関とかそういうことで人間の移動が飛躍的に発達した時に、「ここ以外ならどこへでも」という欲望が出てきた。19世紀、20世紀、サン=テグジュペリなんかでも貴族の末裔ですけど、封建制では、ずーっと先祖代々貴族だし、先祖代々農民だったわけですけど、そういう定住生活が社会の制度のなかでもガチッとおさまってきて、だんだんだんだん近代になってくると。
すると、個人というものの流動性とか、都市みたいな個人の集住しているような地域があちこちにできて、そこが近代的な産業の中心地になってきたりすると、人はどんどんどんどん動くようになっていくわけです。そこで、近現代独特の「ここ以外ならどこへでも」という欲望も始まってくる。そんなふうに読んでもいいんですけど。
列車からの風景
西川:
でも、実は、そうやって…どっかにもあったけど「人間には根がないからね」って言われてるような状況になった時に、凄まじいスピードで大勢の人が移動してるんやけれども、それが実は旅客の意思やとか機関士の意思ではなくて、時刻表と時刻表に則って転轍するだけのスイッチマンの働きっていうかな、そういうものに管理されているんだっていうふうに読み取っていくこともできるかもしれません。
そういうなかで旅客たちは、「今ここ」でない所、自分のいる所じゃない違う所に行こうとしてるんですけれど、車中では寝ているし、さもなければ、あくびをしている。で、子どもだけが「汽車の窓ガラスに鼻をつぶれるほどくっつけて、外を見ている」。ここにもまた、子どもと大人との対比みたいなんが出てくるんですけど、その時に「ぼろ切れでできた人形のためにだって、子どもたちは平気で時間を使ってしまう」と続きます。
「ぼろ切れでできた」は大人から見た価値判断なんでしょうけど、だから、「そんなものに何を使ってるんや」、「無駄使いや」と、大人から見れば思ってしまうんですけれども。そのおかげでその人形はとても大切なものになるんだ、みたいな話で、先ほどのバラの話とまあ結びつくっていうふうに読めるかなって思います。
みんな、列車とか乗ってる時、外見ます? 地下鉄じゃ外も見ようがないんやけど。ねえ、地下鉄なんてね。新幹線もほとんど外、見れないですもんね。自分の日常の、移動というか移送されてる体験とかをちょっとずつしゃべってもらってもいいかなと思います。
「いやいや、電車の旅は楽しいよ」っていう鉄ちゃんはたぶんいるでしょう。そういう人たちの列車の乗り方と、こういう退屈な「あくびするか寝ているんだ」という乗り方の違い。いやー、最近は寝てる人よりもスマホ見ている人のほうが多いけどね。前に10人座ったらほとんど10人がスマホ見てますね。
B:本を読んでる人、いないですね、最近はやっぱり。
西川:うん。何か変人っぽいもんね。カミュ[*2]とか出して『異邦人』[*3]読んでたらね。
参加者一同:(笑)
西川:プレミアムカー[*4]でも外の景色は一緒だと思うんですけど。怒られそうですけど。
A:まあでもこのへんだと車窓は家ばかりだしね。やっぱり地方に行って、何かこう雪景色とかね、異空間に行けば見てられますけどね。やっぱり「洗濯物干してる」みたいなぐらいしか(笑)、あんまり目に止まらないかもしれませんね。
[*2]カミュ:アルベール・カミュ(Albert Camus、1913年11月7日 - 1960年1月4日)フランスの小説家、劇作家、哲学者。
[*3]『異邦人』:アルベール・カミュの小説。1942年刊。人間社会に存在する不条理について書かれている。カミュの代表作の一つとして数えられる。1957年、カミュが43歳でノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われる。- wikipedia
[*4]プレミアムカー:京阪電車の座席指定の特別車両。
西川:
ぼくは、窓際というか、ドア側に立つことが多いです。まあ疲れてる時は座って寝てますけど。「移送されよう」みたいな感じでね(笑)。でも立つ時はドアを変えますね。「今日はこっち見ていこう」とかって。
でも、阪大でお世話になった中岡先生[*5]は、帰る時、必ず「いや、西川さん、これは何両目の何番目の扉がいいんです」っておっしゃってましたね。乗換考えると一番便利だったんですね。ぼくは「はあー」「そんなこと考えてるんですか」みたいな感じでしたけど。中岡先生は「いや、そのほうが便利でしょ」って。「めっちゃ合理的や。理性の人やな」と思ったもんです(笑)。
[*5]中岡先生:中岡 成文(なかおか なりふみ、1950年 - )は、日本の哲学者。大阪大学名誉教授。専門は、臨床哲学、倫理学。ヘーゲル哲学から出発して、西田幾多郎、田辺元、三木清などに取り組み、鷲田清一らと共に臨床哲学の運動を起こした。- wikipedia
無駄な時間をなくすとは?
D:
ちょっと、別の観点になりますけど。「子どもだけが、自分がなにを探しているか、分かっているんだね」っていうのは、ちょっと…変だなとも思って。一般的には車窓の風景と目的地って無関係ですよね。これが一点と。
もうひとつの疑問。車窓を見るかスマホを見るかに、そんなに本質的な差があるのかとも思って。スマホって一つの窓ですから。スマホのなかに見たいものを見てるんであれば、それはそれなりに自分の欲するものを知ってるとも言えなくもないんじゃなかろうか、という気もしました。
C:ぼくは電車乗っちゃうと、何か自分の時間は止まったままだなっていう感じがあります。歩いて行くほうが時間がかかって損だと思ってたんですけど、歩いて行ってみると、何か…自分のなかの時間は動き続けているみたいな。むしろ「得してるんじゃないかな」みたいな感じも最近あります。
西川:手持ち無沙汰にはならないわな。
C:そうですね。
西川:歩かなあかんから(笑)。
C:色々、発見するし、何か。
西川:
やっぱりみんな自分の時間を大事にしたいんでしょう。自分のしたいことがしたいわけです。移動そのものは自分のしたいことではないので関心がないわけです。電車に乗ってるけれども、目的地に着くことには関心があるけど、そのあいだの風景には関心がないわけですよ。
だから外を見るよりも、自分が「見たい」スマホを見ることで、自分の無駄な時間を埋めている。ある意味では、歩くこととか、外を見ることは、自分の意思ではコントロールできないわけです。景色は向こうからしかやってこないですから。
向き合う時間。自分が「あれを見たい」と思ってても風景は思うようには変わってくれない。向こうが変わるのを見るしかないわけです。だからそういう意味では自分の時間を失ってしまうことになります。
スマホやったりとかパソコンやったりしてるあいだは、新幹線のなかにたくさんいますけど、「これ、単なる移動の時間やから」っていうことで、「車内見てもしゃあないし、外見てるのしゃあないし」って。
だから、自分のやりたいことをやることが時間を失わない手段という意味では、移動中に自分のやりたいことやるわけです。しかも、どこかに移動するにしても、目的地に着くことだけに意味があるんやったら、早く着いたあとの時間を自分のやりたいことに使ったほうがいいじゃないですか。
「18きっぷ」でものすごい時間かけて行くよりも、早く着いて、そのぶん目的地での自分の行動に時間的な余裕を持ったほうがいい。だから自分の探してるものは、わかっているわけですよ。というよりも、自分のしたいことは常にわかってるわけです。
自分のしたいことがあるから何も探していない。だから、移動のあいだは、「探す」なんて無駄なことをせずに、自分のしたいことをする。
「自分が何を探してるのか」って、外を見るだとかはしない。何も見えないかもしれないし、自分の思うものが来るとはかぎってないわけですから。それで、多くの人たちは同じ所を、細い線路の上を行ったり来たりしてるだけですから、風景がそんなに変わるわけはない。多少光の加減が違ったって何したって、昨日まであった家がね、全部なくなるってことも余程のことがないとありえないわけで。
だから「退屈や」と思ってるわけです。「そこに自分が探すべきものはない」と。それよりも、スマホのニュースとか。ニュースは新しいことですからね。次々と自分の知らないことが出てくる。自分の知的好奇心はそういうニュースで配信されることのなかや、SNSとかで自分が発信したりだとかそれに対して応答のなかにこそあるわけで。
車窓の風景のように、もうあらかじめ決まっていると思っているもの(思い込んでいるもの)がただ次から次へ来るだけやと。「昨日も一緒、一昨日も一緒」みたいな。通勤の人にとっては「そんなもの見て何になる?」となる。
でもぼろ切れでできた人形は、もう何度も何度も遊んでぼろぼろになってるわけですよ。新しい人形じゃない。もう、ぼろぼろになるまで遊びつくした、もう傍から見てたら、大人から見たら「お前、もうそれ、いやっていうほど遊んだやろ」っていう、その、ぼろ切れでできたぼろぼろの人形に、平気で時間を使ってしまう。そして、大人から見たら「そんなん見たって何がある?」っていうような車窓に鼻をくっつけるぐらいまでして見てしまう。
だから、子どもは、目的地に着くことよりも、そこまでに何があるのかに関心があるんですよ。大人は、途中は関係ない。早く着けばいいんです。時々、観光として、「目的地に着く」だけじゃなくて、この線路は「ものすごい峡谷を通るんやで」とか、「ものすごい鉄橋の上を通る」とか、「あそこに無人の駅があってな」みたいに「あそこだけは、絶対見逃したらあかん」ようなピンスポットはあります。
あらかじめ自分の関心が定められてる時、もしくはアナウンスがあった時には「あ、これは見らな」って見るんですが、そうでないところに関しては興味・関心はない。
だって探さないとだめですから。自分から探さないといけないっていうことに関しては、ほとんどが徒労に終わると思っているわけです。「そんなんしても無駄やろ」。となると、列車のなかでは何もすることがないといことになります。
何もしないこと=時間の無駄、です。それが耐えられない。自分にとっては車窓を流れる風景は自分の何も呼び起こしてくれないから、自分の好きな本を読むとか音楽を聞くとかして、自分の趣味、関心のところで、この時間を無駄にしないように、生きてんちゃうのかなと思います。
それはいいとか悪いとかじゃないですよ。でも、結局乗っている間何も探していないのは確かなんです。「移動のなかに何かがある」とは思ってないわけですよ。もう、どこに行こうとしてるのかなんて、彼らは思いながら動いてないっていうことです。動いてる最中に寝てしまったりあくびをしてしまったり、退屈で仕方がないわけです。
そんなことをここでは書いてるのかなあって思います。だから、子どもが外を見てるっていう時に、何かを探してる姿と読むのは、べつにそんなに僕はおかしくないんじゃないかなって思いますね
B:はい。僕、けっこう電車好きで、小っちゃい頃から。電車って空間が好きなんですよね。もちろんスマホを見たりする時もあるし、景色も見たりする時もあるし、たまに音楽聴いたりも。その三つぐらいですよね。本持っていくとか。その限られた選択肢しかないのがまず好きで。何かまあ、景色も見たりしますけど。何が言いたいかっていうと、好きですね、電車に揺られるの、けっこう。
西川:
べつにそんなに、外ばかり見るのが素晴らしい乗り方だとは思ってないですよ。それこそ、沈思黙考するのにいいのは馬に乗ってる時といわれるわけで。自分が歩かずに馬に乗ってるあいだ、色んなことを考えられる。それから寝る前。枕の上に頭乗せてる時に、もう寝ようとしてるんですから何かせなあかんていうことないんで、その時に色んな想念が湧いてきますよね。あとはトイレね(笑)。トイレのなかも考えるのに向いてますし、電車もいいですよね。
B:『星の王子さま』を読むと、なんとなく僕は何かこう目的地を目指してっていうよりも途中経過を楽しむことも大事にしたくなりますね。
子ども、点灯夫、転轍手
西川:
はっきり覚えてませんけど、サン=テグジュペリが色んな借金を抱えて、やりたくもない新聞の特派員みたいなことやって原稿料稼いだ時代あるんです。ソビエト時代のロシアに行って、ルポルタージュいっぱい書いてるんです。そのなかにこんな話[*6]があります。
貧しい人たちが列車に乗せられて、みんな寝てる。もう疲れはててるんです。そこに幼い子どもが母親か抱かれて寝ています。その子どもについてサン=テグジュペリはこうひとり言をもらします。「これこそ音楽家の顔だ、これこそ少年モーツァルトだ、これこそみごとな生命の約束だ」と。
本当は子どもみんながもっている、そういう喜びとか好奇心とかで、世界と対峙しているはずなんやけど、生活に追われ、ぎゅうぎゅう詰めのそういう2等客車みたいな所でおとなたちは疲れはててまるで一塊の粘土のように寝ているわけです。そんな両親の間で幼い子どもが愛すべき顔で穏やかに寝ている。サン=テグジュペリはその顔をみたわけです。
子ども主義者というか、子ども至上主義者みたいなとこありますね。子どもに対する思い入れの強さはちょっと常軌を逸してるとこあるかもしれません。
この転轍手の短いところは、さらっと読んだらさらっと読んでしまうんですけど、「いや、自分はどうなのかなあ」って考えてみることも悪くないかなって思います。僕だって「歩くことはいいことや」っていってますけど、ここまで歩いてきてませんから。たまに出町柳からここまで歩いてきたりしますけど、その時は得したなと思いますよ。あと、余裕がある時。自分が豊かな時に歩いてるよね。すごく贅沢なことになってしまってます。
C:
歩いた時の感じで思い出したのが竹内レッスン[*7]ですね。演出家の竹内敏晴[*8]のワークショップに出たんですね。からだのこともやるんですけど、朗読もやるんです。朗読やる時に、本当にイメージしながら朗読する。本当にあると思うわけです。子どもたちだったら子どもたちをイメージしてないいとだめなんです。
言い方次第で、「本当にイメージしてる?」って聞かれるんですよね。そう言われながら、本当に「子どもたちは」とか「自分が」とか「何を」とかいう時に、全部イメージをしていくと読み終わったあとに何となく新鮮な気持ちになるんですよ。本当「体験した」って感じになります。
ありありとしたイメージを持つと、体験した感じになって新鮮でおもしろかったことを覚えています。何かそれと、歩くことってちょっと似てると思いました。
[*6]こんな話:サン=テグジュペリ著(堀口大學訳) 1955『人間の土地』(p259) 新潮文庫 ※原典の出版は1939年。
[*7]竹内レッスン:竹内敏晴主宰で行われていた演劇ワークショップ。
[*8]竹内敏晴:(たけうち としはる、1925年(大正14年)3月31日 - 2009年(平成21年)9月7日)東京生まれの日本の演出家。 「竹内レッスン」と呼ばれる、演劇的レッスンを基にした独自の「からだとことば」のワークショップを主宰したことで知られる。多数の著書がある。
西川:転轍手に対して王子はどんな気持ちを持ってると思います? 転轍手って、けっこう点灯夫とよく似てるんですよ。点灯夫も自分の仕事がどんな意味を持ってるのかっていうより、もう「決まりだからさ」って。でも、彼とは友だちになってもいいなって言ってるやん。これ、転轍手もそうなんですよ。思いません?
B:何か会話がちゃんと、一応なりたってますよね。噛み合わないことも多いけど。
西川:
彼は旅客のためにやってるわけでもないんですよ。機関士の手伝いをしてるわけでもない。だから、点灯夫のあの仕事と似てるといえば似てるんです。でも、そういう仕事をしている人に対して、王子というのはあんまり「大人たちって、変だな」とは言わないです。これは何ででしょう?
今の理屈でいくと、転轍手だって、要するにそういう人間性を剥奪された単なる労役です。レイバー(labor)に従事してるだけ。自分の仕事の意味もわかってない。でも、「子どもたちだけが自分が何を探しているか、分かっているんだね」って、同意を求めるような言い方するわけです。この人ならわかってくれる、みたいなかたちで、転轍手と話し合ってる。
点灯夫に対して王子が持ってた「友だちになってもいいな」っていう気持ちとこの転轍手に対する、めちゃくちゃそんな好意があからさまに書かれているわけじゃないですけれども、やっぱよく似た感じがあると僕は思います。うん。
C:王子にとっては、やっぱり「暮らしを回す」ってことが重要なのかなって思えてきました。自分の星を管理したこととか、点灯夫もいわゆる世界のなかでちゃんと仕事をしてるっていうか。転轍手にも何かそんな感じがします。世界を回すために、成り立たせるために、自分を犠牲にしてる感じがしました。
西川:
転轍手は皮肉なことも言うてますね。「汽車の旅客を選りわけているのさ」とか「旅客を乗せた汽車をおれは送り出しているのさ、右の方向へやったり、左の方向へやったりしてな」とか「あの人たちはなにも追いかけちゃいないさ」とか。ものすごい皮肉なこと言うてるわけですよ。
自分の仕事の理不尽さにある程度気づいてるわけです。点灯夫もそうでしたよね。「もう、むちゃくちゃな仕事になっているんだよ。以前は、無理のない仕事だった。朝、ガス灯の火を消して、夕方につければよかった。朝、火を消したら、あとは一日じゅう休めた。夕方、火をつけたら、あとは夜じゅう眠れたからね……」っていってますから、自分の仕事というか日々繰り返される労働に対する理不尽さみたいなものは感じているんだけど、辞めないんですよ。点灯夫も転轍手も。「自分の仕事にこれこれこういうだけの意味があって」誇りを持ってやっているみたいな大仰な言い方はしない。「おかしいな」と思いながらもやってる。
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ということはね、自分の人生、自分の時間を、誰かわからんけど、仕事というもののために失ってる人なんですよ。点灯夫も転轍手も。でも、そういう人たちに対して、生きがいもやりがいも感じずに仕事をやるなんて「まさにロバみたいな働き方じゃないか」って批判はしていません。
自分本位な仕事の意味とか他者からの正当な評価ではなく、「これは仕事だから」って多少の理不尽さを感じてても、それをちゃんときちんとこなすという人間に対する何かそこはかとない尊敬の念が王子には常にあるように思います。サン=テグジュペリにもたぶんそれがあるんだと思うんです。
これはどういうことなのか?もちろん、「労働における人間疎外について、サン=テグジュペリは全然、目を向けてない」と批判することもできます。批判することもできる。
「サン=テグジュペリは元貴族やからそんなこと言うんや」みたいな批判ですね。だから、彼は「農民の暮らしの自己実現みたいなことを抜きにした領主のために働くような仕事でも、それはそれで農民は農民なりに立派なもんや」みたいに扱ってしまう、と。
これは読みようによって評価が分かれるところだと思います。現代文明批判とかやってるわりに、点灯夫や転轍手に対して、何か寄せる……と言うか……親近感というかな。そういうものがある。この辺りはまたちょっと考えてもいいんじゃないかなと思います。単純にこう、批判だけするんじゃないんですよね。
ただし、次の章になると、ガラッと変わります。次の章までいきましょうか。
言い返さない王子さま
西川:
「こんにちは」と王子さまは言いました。
「こんにちは」と商人が答えました。
喉が渇かなくなる特効薬の錠剤を売る商人でした。一週間に一錠その錠剤を飲むと、もう、ぷっつり、水が飲みたくなくなるのです。
「どうして、そんな錠剤を売るの?」と王子さまはききました。
「大変な時間の節約になるからね」と商人は答えました。「専門家が計算をしたんだよ。一週間に五十三分も節約できるってさ」
「で、その節約した五十三分をどんなふうに使うの?」
「好きなように使うさ…」
「ぼくだったら」と王子さまは独り言を言いました。「もし五十三分使っていいんなら、ゆっくりと歩いていくのになあ、泉のほうへ……」
直前の転轍手はどちらかというと点灯夫と同じ類型に入る、つまり王子が親近感を抱くような相手として描かれてると僕は思います。でも、この商人は冒頭に出てきたビジネスマン(実業家)ですよね。ビジネスマンと類型的に同じように感じられる登場人物かなあって気がするんです。ただ、べつに商人を批判していないですね。そこらへん、若干大人になってるんでしょう。
最初のビジネスマンの時にはけっこう言い返してるでしょ。「このぼくがマフラーを所有しているとするよ……」「ぼくが火山や花を所有しているってことは火山や花に対しても役にたつんだ」ってとこですね。「けれども、あなたは星たちの役にたってはいないでしょ」っていうかたちで、有無を言わさぬようにしてバンッてやっつけちゃうわけです。
それで「おとなたちというのは、やっぱり、得体の知れないものだなあ」と言って、毒づいて出ていくわけですけど。地球で出会ったこの実業家は、ほぼ、ビジネスマンとよく似たもんなわけですけど、「好きなように使うさ」って向こうがもごもごときちんと答えられなかったとき、王子さまは独り言として「ぼくだったら」っていうわけです。もう、この類の人々に対して意見する気持ちはないんです。もう対立してないからですね。「言ってもわからん」みたいな感じかもしれないですけど。
まあ、基本は、ビジネスマンと商人は、王子とはまったく違う世界に住んでるみたいなかたちで描かれてます。ここにも、さっきの「移動なのか移送なのか」じゃないけれど、文明批判みたいなことがいっぱい書かれてますが、ポイントは「時間」。時間の節約。
それと専門家批判も入ってますかね。「喉が渇かなくなる特効薬の錠剤」ね。これに似たもん、いっぱい売ってますよね笑。飲み食いしても脂肪がつかないお茶とかね、いっぱいある。食べても血糖値が上がらないとかね。
E:昔「24時間働けますか」ってのもありましたね。
西川:ほんとですね。「1週間に53分節約できる」ってことですけど、「1時間早く着くことができる」と多少のお金を出してでも僕たちは電車に乗るわけですよ。錠剤を買うのと同じようにして。お金を出して、早く着く。商人に「好きなように使うさ……」って言われてるんやけど、王子は独り言で「僕はゆっくりその目的地に近づく」と言ってるわけですよね。
53分と喉の渇き
B:53分には意味があるんですかね。
西川:さあ、これわかりませんね。
B:ぼく計算してみたんですけど、割り切れないですね。
参加者一同:素数…。
西川:素数か。
B:何か意味があるのかな…。ちゃんと考えて置いてるような気もしますね。
西川:それは、絶対あると思いますね。サン=テグジュペリだから。1週間に53分ていうのは、要するに1週間で割り切れないから、計算して出されたものじゃないということじゃないでしょうか。
E:ああ、なるほど。
西川:53分は「1日×何分×7で…」っていうふうにはならないから。
E:ということは、この直前に「専門家が計算した」っていうのも、実はいい加減なものや、って言いたいのかも。
西川:そうそうそう(笑)。
B:こういう…ことをするんですね。
参加者一同:(笑)
西川:そうそう。すばらしいね。そこに気がついた。
B:この会で鍛えられてます(笑)。こういうトラップで、いちいち引っかかるんですよね…。
西川:そこを読み取れるかどうかを『星の王子さま』は常に試してきますね。
F:1週間に1錠飲むんですね、この人。
西川:でも、お水を飲む回数っていうのがあって。ね。1週間のうちに減るだけの水を飲む回数というのがあるはずなんですよ。「a回減りました」って、でも、aの倍数にはなってないですよね。だから、計算できなくなるんですよ。
E:なるほど。
西川:
これはうしろの伏線にもなってるんですよ。「喉が渇かなくなる特効薬」「ぷっつり、水が飲みたくなくなるのです」ってところ。これがこのあとの話の伏線になります。だって、134ページに「水は心にもよいものだよ…」ってありますから。
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飛行士と王子とは、飲み水がなくなって、砂漠のなかを水を求めて歩きはじめるわけです。喉が渇いてしまって、水が飲みたくて仕方がない。で、そういうことは不便でしょ、ってこの商人は言ってるわけですよ。だから、これを飲めば、もう喉の渇きを感じずに水もぷっつり飲みたくなくなるっていう、夢のような薬ですよと宣伝している。
このあとの話では王子に対して、飛行士は「君も喉が渇くの?」っていうふうに王子にきいてますね。だって、初めて会った時、砂漠で出会ってるのに疲れた様子もないしお腹が減ってる様子もないし。ものすごい超人的な王子として現れてきたから、「喉が渇いてもう死ぬんだ」って飛行士が言っても、王子には関係のないことみたいな感じだった。でも、「いや、僕だって喉が渇いてる」っていうかたちで、二人で水を探しにいくっていうことになるんです。
さて、水というものの意味です。「なくせるものならなくしたほうがいい」って、この商人なり、錠剤を開発した人間は思ってるわけです。だって、喉の渇きって、「要するに人間にとって苦痛でしょ」っていうことですよ。だから「喉が渇かなくなったら、わざわざ水を探したり水を飲むっていうような時間に自分の人生使わなくていいじゃないか」っていうことなんです。
でも王子さまは「いやいや、そうじゃない。喉が渇くっていうことも大事やし、水を探すって、水っていうものは心にもいいものだ」ということで、一緒に水を汲み上げることが、王子にとってキツネとの出会いと双璧をなすぐらい大事なことになります。
王子は友だち探しに地球にやってきたわけですが、『星の王子さま』はその成就の物語になんです。キツネと、それからパイロットと一緒に出会って、パイロットから水を飲ませてもらうっていうことがね。
この部分は前振りになっている。そう考えると、この商人の話は何か取ってつけたようなものにも見えます。ただ、最初にも言いましたけど、『星の王子さま』のそれぞれの文章は最後まで読んで、それからもういっぺん返ってくる時に違った意味が出てくる。使い捨ての物語の進行じゃないんですよ。「物語のスタートがあって、こうこうこうで、こうなりました」と常に次の話を直線的に持ってくるためにやってるだけではない。
だから、転轍手の話も、錠剤の話も、うしろまで読んでみると、意味がまたグッと厚みを帯びてきます。最初のヒツジの絵云々のところも、たぶんそうなんですよ。なので、最後まで読んでもういっぺん振り返ってみると、厚みが増してきます。螺旋的に理解を進めるような。
そのあいだに「スッと読み飛ばすなよ」っていうかたちの罠があちこちにかけられてます。まあそういうスタイルかなと思います。
抜苦与楽
西川:
「独り言を言いました」ってところ。ここはどう思いますか。ビジネスマンのときとは確実に変化があります。ガッガッて噛みついてません。
何なんでしょう? 最初の小さな惑星巡りやってる時は、ものすごく大人批判がピシッピシッと、こう、決まってたでしょ。ところがもうここではそういうのがあまりないんです。どういうふうに読むのかというのをもうちょっと考えてみてもええかなあと思います。ぼく、欄外に「モモの時間どろぼう」[*9]って書いてるんですけど、これどういうことだったのかな。
C:時間どろぼうは、たしか、町の人みんなに時間を節約させて、時間を貯蓄するんですよ。
西川:どういう話でしたか?
C:時間どろぼうが「意味のないことやめて、これだけしたら将来の時間を貯金できますよ」って人々を説得して効率化をすすめるんです。浮いた時間は銀行に貯蓄して、あとで使えるとか言って。
E:そうそう。時間銀行みたいなものに時間を預けさせる。だから要するに超効率的…なことしかみんなできなくなるってことですよね。
西川:ああ。それで、でも、その時間は時間どろぼうに取っていかれるわけ?
C:そうですね。実は時間どろぼうは人びとの節約した時間を使って生きているから、人びとの生そのもの希薄になっていって、どんどん焦って息苦しくなっていくっていう。
西川:なるほどね。まあ、そういうので書いたのかな。その頃は『モモ』読んでて、関心したんでしょうね。
[*9]モモの時間どろぼう:『モモ』。ドイツの作家ミヒャエル・エンデによる児童文学作品。1973年刊。1974年にドイツ児童文学賞を受賞した。各国で翻訳されている。特に日本では根強い人気があり、日本での発行部数は本国ドイツに次ぐ。- wikipedia
参加者一同:(笑)
西川:
それと「喉が渇かなくなる特効薬」ってところに『無痛文明論』[*10]て書いてありますね。著者は森岡正博[*11]ですよね。分厚い本です。阪大の臨床哲学にいた時にみんなで読んだことがありました。
要するに、痛みとか苦しみを、抜苦与楽(ばっくよらく)じゃないけども、「苦しみを抜くことが大事だと言うけど、本当にすべての苦しみ、苦痛、苦悩を抜き去ることが、果たしてどうなのか」っていう。僕は論についていけなくなっちゃって、最後まで読めずに途中であきらめてしまいましたけど。確か、与楽の話がなかった。
抜苦与楽は、仏教だと、苦を抜いて楽を与えることがセットにならないとだめなんですよ。抜苦だけではなく、苦を抜いて楽を与える。苦を抜いたら、自動的に楽、安楽なのかっていうと、そうではない。僕たちこういうかたちで、無痛文明論的な欲望はいっぱい持ってると思いますね。
[*10]『無痛文明論』:森岡正博著、2003年10月13日トランスビュー出版より刊行。
[*11]森岡正博:(もりおか まさひろ、1958年9月25日 - )日本の哲学者。早稲田大学人間科学部教授。生と死を総合的に探求する生命学を提唱。2006年より「生命の哲学」という新しい哲学ジャンルを提唱している。代表的な著作は『無痛文明論』『感じない男』など。-wikipedia
まあ、「苦」はともかく「便利」にはなりたいと思うじゃないですか。平田オリザ[*12]さんがよく言ってたのは、「テレビの厚さが薄くなったからって何が変わったんですか」って。「たらいで洗ってたのが電気洗濯機になったことは、主婦をそういった家事労働から開放する画期的な意味があったんですけれども、テレビがブラウン管から液晶になったからって、何がどうなったんですか」って。
[*12]平田オリザ:(1962年11月8日 - )日本の劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、こまばアゴラ劇場支配人。戯曲の代表作に『東京ノート』『ソウル市民』三部作など。
B:居住空間が広がった?
参加者一同:(笑)
西川:でも、テレビの存在感が薄くなった。
B:内容は変わりません(笑)。
西川:ぼくはテレビないからわかないですけど。
E:今はね、インターネットだから時間なんて関係ないですからね。いつだって観れますから。
西川:まあ、便利になったし、待つ苦痛は……待つことが苦痛であれば、不便だっていうことであれば、確かにその不便さは消えたんですけどね。
B:うん。何か大きなものが、ぽっかりなくなりましたね。
A:今、僕たち、何を待ちます? 何も待たないでしょ。だって、病院の診察だって待たせたら怒られるし、銀行だってあんまり待たへん。今やったらネットとかで見れるでしょ。
西川:僕は娘の返事を待ってますよ。あの子は場面緘黙(ばめんかんもく)かなと心配になるくらい、僕にはものを言わない。母親とはしゃべるけど。強烈ですよ。1日しゃべらないから。
B:すごいですね。拒否されてるんですか。
西川:拒否されてる……。
B:待ってるんですね。何か。
西川:うーん。それでも僕は自分の時間をむだにしながら、相手の機嫌をとってるんですけど。
B:それはもう、これにつながる話なんじゃないですか(笑)。しかし、西川さんの実生活と西川さんに読み解いてもらう星の王子さまの教えと距離ありますねえ。
西川:うん。かけ離れてるからこそ、僕は「ああ…」と思うわけですよ。僕が王子があれば、これを読む必要はないんで。僕、だから砂連尾さん[*13]に言ってるんですけど、「砂連尾さん、『星の王子さま』読まなくていいですよ」って。
A:砂連尾さんは「(星の)王子さまだから」(笑)。
西川:うん(笑)。あの、変なところも含めて全部。
[*13]砂連尾さん:砂連尾理(じゃれお おさむ)1965年生まれ、振付家、ダンサー。立教大学 現代心理学部・映像身体学科 特任教授。近年はソロ活動を展開し、舞台作品だけでなく障がいを持つ人や老人との作品制作やワークショップを手がけたり、ジャンルの越境、文脈を横断する活動を行っている。
哲学は役に立つ?①
B:たまに思うんですけど、哲学って実体験に落とし込まなくていいんですか。
西川:「実体験に落とし込む」…、それは応用哲学的やね。哲学の原理を自分の生きる指針にするというか、規則にするというか。
B:はい。
西川:それはビジネス書というかハウツー本的発想というか。『松下幸之助の哲学』[*14]とかさ。
C:自己啓発本みたいな。
B:ああ、そう。自己啓発本になっちゃうんですか、結局。
[*14]『松下幸之助の哲学』:松岡幸之助著、PHP研究所より2009年4月1日刊行
E:二元論的になりますよね。理念と実践とを二つにわけたうえで、それに落とし込まなきゃいけない。
B:たとえば、簡単に読み解くと「効率的なものよりもそこの過程をもっとゆっくり楽しみたいのに」という哲学にすごく感銘受けたなら、「ちょっと携帯電話やめようかな」とか「もうちょっと田舎に住んでゆっくり過ごしてみようかな」と実践に落とし込むのが、わりと僕のなかの正解やったりするんですけど……。
西川:じわじわと影響はされてるかもしれませんけど、もうここまで生きてくるとそう簡単には変えませんよ(笑)。
B:じゃあ「“わかる”ってことはどういうことになんねやろ」って思いました。
西川:
「知行合一(ちこうごういつ)」って言葉ありますよね。「知るっていうことは行いが変わることだ」「行いが変わってないあいだは、知ってると思い込んでるだけでじつは知っていない」って。だから「善悪を知りながら悪をなすことは不可能や」みたいな議論。でもそれに対して「いやいや、それは違う」って。それは哲学史上でも解決ついてないです(笑)。
B:そうなんですね(笑)。
西川:
どちらでも論は成立します。だから、もう最後は、趣味というか、性格の問題だと思います。ウィリアム・ジェイムズ[*15]も言ってますけど、「明るい哲学」と「暗い哲学」「それはどちらかになるかは、生まれつきのもんや」みたいな。めちゃくちゃな言い方やなと思いますけど。
『宗教的経験の諸相』[*16]っていう本があります。そのなかでもウイリアム・ジェイムズがそんなこと言ってます。「半分そうやな」と僕も思いますね。やっぱり、たとえば、一つの事柄「神はいない」といっても、それがショーペンハウエル[*17]のような思想になる場合もあれば、ニーチェみたいな思想になる場合もあるわけです。
めちゃくちゃ厭世的で、人間嫌いで、っていう。でも、もう片一方では「人間を超えて超人になれ」みたいなものすごい哲学になったりするわけです。これは、たぶん、もう論理の話じゃないと思いますよ。だから、いくら様々な哲学者の本を読んだところで、結局決めるのは自分自身です。自分の何かわけのわからんところですね。
[*15]ウイリアム・ジェイムズ:(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)はアメリカ合衆国の哲学者、心理学者。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及ぶ。心理学の父である。日本の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も、影響を受けていることが知られている。後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』など、様々な影響をもたらしている。-wikipediaより
[*16]『宗教的経験の諸相』:ウィリアム・ジェイムズ 著 , 桝田 啓三郎 訳、1969年10月16日に岩波文庫より刊行。"
[*17]ショーペン・ハウエル:(独: Arthur Schopenhauer、1788年2月22日 - 1860年9月21日)ドイツの哲学者。主著に『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)。
B:たとえば、お遍路ってけっこう肉体使うじゃないですか。あれでわかることは、何かを得るための方法の一つかなと思ったりもするんですよね。たとえば、こうやって本読むことで、自分の生活に落とし込むこともできるかもしれないし。って思ってしまうんですよね。
西川:
今日、僕は『異邦人』読んでますけど、ムルソー[*18]になったら大変ですよね。「太陽のせいだ」言うて、バンバンバン殺したからね。でも、だからといって自分がそう生きるかどうかはべつですよね。少なくとも自分の確固たる自信はなくなります。「俺が正しい」とかね。「人殺しはみんな、ろくでもないやつや」みたいな考え方はとりあえず保留にするわけです。エポケー[*19]じゃないですけど、「あ、まだ自分はわかってないな」って。
それこそソクラテス[*20]じゃないですけど、自分が知ってた思ったことを「いやじつはよくわかってないな」っていうぐらいのね。「無知の知」じゃなくて「不知の自覚」って、納富[*21]さんという人なんか言ってますね。
「無知の知」って言ったら、人間には知ることができないみたいな、不可知論みたいになってしまう。それも一つの立場ですけど。「考えてみると、まだ自分はちゃんと知ってないな」ということを、なんとなく知覚して「だから知りたい」っていうような。
[*18]ムルソー:アルベール・カミュ(1913年11月7日 - 1960年1月4日、フランスの小説家、劇作家、哲学者)によって第二次世界大戦中に刊行された小説『異邦人』の主人公。
[*19]エポケー:原語はギリシア語で,「判断中止」の意。古代ギリシアの懐疑論者たちの用語。何一つ確実にして決定的な判断を下すことはできないという懐疑論の立場から,判断を下すことを控える態度をいう。この態度は近世になりデカルトの「方法的懐疑」において,哲学の方法論として積極的な意義が見出された。 E.フッサールはデカルトの精神をくみながら,現象学的方法として,自然的態度によって生じる判断をかっこに入れて排去することを説き,これを現象学的判断中止 phänomenologische Epocheといった。- 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[*20]ソクラテス:ソークラテース、紀元前469年頃 - 紀元前399年)は、古代ギリシアの哲学者である。
[*21]納富:納富信留(のうとみ のぶる、1965年3月15日[1] - )日本の哲学者、西洋古典学者。東京大学大学院人文社会系研究科教授、元国際プラトン学会会長。日本学術会議会員。専門は西洋古代哲学、西洋古典学。- wikipediaより
哲学は役に立つ?②
西川:だから、哲学では、「自分をしばっているものは何なのか」とか、「しばられるっていうことは、本当に不自由か」とか、そんなふうにいわゆる通常の問題解決的な「みんなが『うん』と納得するような問いの立て方」をしないんですよ。むしろ「その問いの立て方で本当にいいのか」って。
B:そういう感じになってくるんですか(笑)。
西川:うん。
B:「問いの問い」みたいになってくる。
西川:そうそう。答えよりも、いかに問いを正しく立てることのほうが、まあまあ重要だって色んな哲学入門書には書かれてますよね。
E:生きるためで言えば、ソクラテスには全然役にたたなかったですよね? 哲学を徹底した結果、殺されましたからね。
西川:
そうですね。うん(笑)。
だから(笑)、子どもが哲学に熱あげかけたら「やめとけ」っていうのが正しい親のあり方かもしれないです。僕も、息子に「哲学せい」とは言いませんもんね(笑)。「してしもたら、しゃあないな」みたいな感じだと思います。「できることなら、はしかのようにちょっとしばらくのあいだ熱出して治ってくれて、もう一生かかれへんほうがええのにな」みたいな。
しかし、「哲学をばかにすることが、真に哲学することだ」みたいな言葉もあって。哲学者ってほんまに言葉達者だから、何言われても言い返しますよ(笑)。二千数百年の歴史持ってますからね。
B:言われて、ふと思ったんですけど、たとえば、目的じゃなくて途中経過を大事にしてる感じが「いいな」と思った僕が、それを「目的」に「携帯電話なくす」ってなると、それもイケズな問いやけど、「じゃあ、それが目的じゃないですか」っていう。「途中経過、何や」っていう話にもなるのかなあ。すごい、いじわるな学問ですね…。
西川:いや、だから嫌われるんですよ。
B:あ、そうか。
西川:しかも好かれることを望んでないですよ。オルテガ[*22]はそういうことも書いてますけど。「哲学は決してアクセサリーにはならない」って。うん。「人が羨むような哲学っていうのは、にせものだ」って。
B:うーん。なるほど。だから、結局、そういう目的、結果をなんとなく求めたら、また哲学じゃなくなるっていうことなんですね。
[*22]オルテガ:ホセ・オルテガ・イ・ガセット(西: José Ortega y Gasset、発音: [xoˈse oɾˈteɣa i ɣaˈset]、1883年5月9日 - 1955年10月18日)スペインの哲学者。主著に『ドン・キホーテをめぐる思索』(Meditaciones del Quijote、1914年)、『大衆の反逆』(La rebelión de las masas、1929年)がある。W・ジェームズに触発された実用主義的形而上学により構成され、フッサールの実在論的現象学の方法を用いた「生の哲学」を展開し、(ハイデッガーに先駆けて展開された)原始実存主義や、ディルタイ、クローチェとも比較される歴史主義などといった彼の諸思想の基礎となった。- wikipediaより
西川:
ただ、日本の場合は明治とか大正の教養主義で、「哲学やってなきゃインテリじゃない」という風潮があったので。哲学っていうだけで知的スノビズム[*23]っていうかな、勲章になるようなイメージがあるんですよ。
それはまあ、日本の風俗が生んだ事柄で、本当の哲学の罪ではないですね。まあ、欧米なんかもっと強烈で、哲学やってたら命がけですよ。日本の場合は命がけじゃない。
E:ソクラテスも現場で戦ってた相手がいたわけです。ソフィスト[*24]。その時、社会的に役にたつことを教えるのが仕事、みたいな相手がいたわけですから。その人たちと戦ってるわけですよね。
[*23]スノビズム:俗物根性。見栄(みえ)っ張り、拝金主義、上品ぶりなど、肩書や物欲に支配され、それをもつ人に卑屈になり、もたぬ人を軽蔑(けいべつ)する態度。育ちや学歴をひけらかすこともいう。-日本大百科全書(ニッポニカ)
[*24]ソフィスト:ギリシア語ではソフィステスで,原義は〈知者〉〈達人〉。sophistはその英語形。前5世紀中葉からギリシア世界に出現した職業的教師で,報酬を得て富裕市民の子弟に弁論術などの諸学芸を教授した。プロタゴラス,ゴルギアス,ヒッピアス,プロディコスらが有名。とりわけソクラテス,プラトンのソフィスト非難があずかって,〈詭弁家〉との悪評が後世まで残るが,知識の普及者,言語批判の先駆者としての意義は大きく,ほぼ同時代の中国の諸子百家に比せられる。-百科事典マイペディア
西川:
いや、ソクラテスってあぶない人ですよね。もう、片っ端かソフィストのところ行って、みんなの前で恥かかせるんですから。ものすごい、アンチでやるんじゃなくて、「教えてくれますか」って行くんですよ。
「でも、こうじゃないですか」とか「いや、あ、でもこうじゃないですか」とかいって。「え、いや、え、結局、さっき、言ってることが矛盾してません?」みたいな感じで詰めるわけです。「じゃあ、ソクラテス、あなたが教え…」「いや、僕はわからないから聞いてるんです。『あなた、知ってる』ってみんなが言ってますし、さっき自分で知ってるって言ってたじゃないですか」みたいな。真綿で首をしめるようなことをするわけですから、それは嫌われるよ。
C:『刑事コロンボ』みたいですね。
西川:本当。
参加者一同:(笑)
哲学は役に立つ?③
E:
でもまあ、嫌われてはいても、やっぱりその周りに魅力を感じる若者とかも集まってきたりして、社会的な勢力を作ってしまうから、それで訴えられたりとかするわけですよね。アリストパネス[*25]が書いてる『雲』[*26]ってなかに、借金をしてるのをごまかしたいから、その技術を教えてもらいにソクラテスのところに来る人の話がありましたね(笑)。
西川:だから社会にとっては常に異物ですよ。欧米の歴史のなかで、キリスト教的な倫理にあった時に、無神論だとかアンチクリストっていってる人たちは、みんな、亡命しまくってるもん。デカルト[*27]にしたって。もう、みんな。
[*25]アリストパネス:古代アテナイの喜劇詩人、風刺詩人である。アリストファネス、あるいはアリストパネース、アリストファネースと長母音でも表記される。なお現在のギリシア語ではアリストファニスのように発音される。代表作はソクラテスに仮託する形でソフィストを風刺した『雲』、デマゴーグのクレオンを痛烈に面罵した『騎士』、アイスキュロスとエウリピデスの詩曲を材に採り、パロディーなどを織り交ぜて優れた文芸批評に仕上げた『蛙』など。- wikipedia
[*26]『雲』:古代ギリシアのアリストパネスによるギリシア喜劇。ソフィストたちを風刺した。実在の哲学者ソクラテスが登場する。オリジナル作品は紀元前423年の大ディオニューシア祭で上演されたが、最下位の3等で終わった。優勝はクラティノスの『酒壺(ピューティネー)』、2等はアメイプシアスの『コンノス』だった。その後、数年以内に手が加えられて改作され、現在の形になったが、上演されることはなかった。- wikipedia
[*27]デカルト:フランスの哲学者、数学者。3月31日、中部フランスのトゥレーヌ地方のラ・エイ生まれ。
B:そんなにやばいもんなんですか。
西川:
やばかったんですよ。今はそれこそ哲学にそれだけの根性がないから、「昔の人の言うてることをまとめてみました」とか、「哲学史まとめてみました」とか、「役にたつ哲学です」とか、「クリティカルシンキングのために哲学から学びましょう」とか、「役にたちますよ!」っていうようなね、うん。
社会にすり寄って、「人文のほうの教養ですよ!」みたいな感じでやってるから。その結果が講壇哲学です。学内で大学教授になる哲学者のあり方っていうのは、カント以降ですから。それまではそうじゃない。もう、バリバリの異端者で、火炙りにされたりだとか、殺されたりとかばっかりですよ。
だから、哲学者になるっていったら、もう、親も兄弟もみんな泣いてたでしょうね。まあ、今も泣いていいと思うんやけどね(笑)。でも、それだけ、真剣に哲学やった人が日本にどれだけいるかっていうと、そんなにいないような気がします。主義主張のために死んだ日本人は多いけど、哲学やっている限りは主義主張を持てないから。にもかかわらず、世間のやつから嫌われるっていうね。
E:まあ、実際、影響力あったんでしょうね。あとは、ソクラテスの場合宗教的な背景もあったみたいです。
西川:異端審問にかけられることは、中世の頃とか近世の始めの頃だと、それは即座に、そこで生きていけないということを意味してますからね。
B:近代以降はあるんですか。そうやって、処刑になるような哲学者。
西川:
たとえば、レッドパージ[*28]かな。でも、あれは哲学を処分してんのかどうかわかりませんけどね。まあでも、今、哲学的なことは、やっぱりみんなイデオロギー化してると思いますね。有名な人はやっぱり、それなりの主義主張がある人が有名になって、哲学史上に残ってますよね。
普通の人たちがずっと悩みながらモジョモジョやってるのが本来の哲学なのかもしれないけど、それは社会のおもてには出てこないで、「あいつ、病気や」とか、「あいつ、おかしい」とか言われてたんじゃないですかね?
本当に哲学やってると病気にされかねないからね。「いや、わからないです、生きてるっていうことの意味が。どうしてもわからない」みたいなこと言ってたら(笑)。
B:ちょっと、強烈っちゃあ強烈…。
西川:
だから、大学っていう、そういうアカデミズムのなかで、こう、生きる場所を作ってしまったとたんに、哲学の本来の反社会性みたいなものは、どこか薄められたんだと思います。まあ、アートもそうかな。
そういった社会の辺縁、異質な人間たちの異質な言説っていうのが、どんどんどんどん、こう、吸い取られていってしまう。今はそういう社会ですよ。多少の差異は、あらかじめ飲み込むように、そういうシステムが構築されてて。かえってそれが逃げようのない管理みたいなことになってしまっている気がします。
まあ、今日はこんなところで、終わりましょうか。
[*28]レッドパージ:(英: red purge)連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。これにより1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。