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【短編小説】 青年と黒

 午後20時。扉の「close」とオシャレに書かれた看板を静かに裏返した。そして映された文字は「open」となる。これはシンプルなフォントにしている。扉の上に書かれた少し大きい看板は「Bar Spilled Feeling」が書かれているだけで、道路の反対側にある街路灯のおかげでその文字がようやく見えるかどうかだ。
 都会の路地裏にあるこのBarは1920年代のアメリカにあったspeakeasyを彷彿とさせる。宣伝は最初の開業広告(開業しました、と当時誰からもフォローされていないSNSアカウントで宣伝しただけ)以来していないし、店前景観は全く手を入れてない。唯一の宣伝である店前看板でさえ役に立っていない。
 アンティーク風の重々しい扉を開けると、目の前には7つのカウンターチェアしかない暗いバー、が現れる。この店は私一人でやってるのでそこまで席を設けられないのと、私が大人数が嫌いだからである。店内が暗い理由もそういうことだ。
 何だかすぐに潰れそうなこのBarは私が副業で始めて2年が経過している。そう、不思議なことに毎日誰かしらは来るのだ。この雰囲気が好きな客が来るのだから、意外とこういう店が流行ってもいいかもしれない(してほしくないけど)。
 一日一人でいい。私に合いそうな人とお話がしたかった、それがこの店を経営をしようと決意した1つの理由である。

 基本Barというのは、"勝手に席につかない"とか"他の客の会話に横入りしない"、"政治・宗教などセンシティブな話題はやめる"など、暗黙のルールがあるが、私の店では勝手に座っていいし、他の客の会話に横入りしていいし、政治・宗教の話をしてもらっても構わない。来てもらった方にいい気分で帰ってもらいたいというのがこの店のコンセプトであるので、ルールなんて作っていない。なんせ、speakeasyな店ってマスターが思ってる地点でモラルとかどうでもいい。
 ということで、この1年間はBarというより社会人の井戸端会議になってる。まあ、会議と言っても私とお客さん一人か二人とが話すだけであるが。
 あ、メニューは数種類あるし、ワインもある。それも結構リーズナブルな値段で(って自負しているだけ)提供している。

 この日の初めてのお客さんは看板をopenにして54分後にくる。お客さんの行動までだいたい予想できるようになったのは2年もこの店を経営できているからである。しかし、それまで暇である。
 …キッチンぐらいは綺麗にしとくか。
 シンクの横にたたんで置いてある雑巾を持って、水道のレバーをあげて、水で濡らした。少し冷たい水は何とも言えないいつもの感覚になってしまった。レバーを下げ、雑巾を絞る。水が溢れる。もう一回絞る。また水が溢れる。もう一回絞る。今度は溢れる水が少なくなっていた。もう一回絞る。もう水が溢れなくなっていた。
 雑巾を正方形に近づけて、今日使うキッチンを拭く。このキッチンも2年使っていて、包丁でつけたのかわからない傷が少し目立つようになっていた。しかし、たった2年、あと十数年、いや、あと数十年。まだまだ頑張ってもらいたいと思い、少し念入りに拭く。柔らかい照明の光が白になるまで。
 そろそろ拭き飽きたと思い、もう一回水道のレバーをあげる。疲れた手がその水を喜んでいるようだった。

 しかし、拭き掃除だけでは時間を持て余す。あと48分。高校だったら約授業1時間分。何をしよう。本を読む?いや、今読んでる本はもうちょっとゆっくり読みたいから、一回やめよう。もういっそ、ワイン飲もうかな。いや、これは客のためであり、自分が嗜むものではない。はあ、本当にやることがない。また違うところを拭き掃除しようかな。

 ギィ…

 この音はドアが開く音。そう判断した私はすぐに顔をドアに向けた。この時間に来客は寝耳に水だ。視界に映ったのは、未成年に見えそうな青年だった。大学生だろうか、道に迷ったのか。いや違う。初来店の客だ。
 初来店の客なんて約半年ぶりだろうか。なんで、この場所に来れたんだ?

 この音はドアが開く音。そう判断した私はすぐに顔をドアに向けた。しかし、この時間に来客は寝耳に水だ。視界に映ったのは、未成年に見えそうな青年だった。大学生だろうか、道に迷ったのか。いや違う。初来店の客だ。
 初来店の客なんて約半年ぶりだろうか。なんで、この場所に来れたんだ?
口コミで来れたとしても、中々勇気のある客だ。それも大学生とはまた珍しい。常連客の大半は40代から50代後半の客が多い。大丈夫だろうか。若者に合った話題についていけるだろうか。不安である。

 青年はドアの前に立ったままだ。ああそうか。礼儀のある人でよかった。
 「どうぞ。ご自由におかけください。」
 一期一会。そうかもしれないと思って、優しい声が出てしまった。青年は、ありがとうございます、と少し沈み気味の声で言った。
 腰を低くしたまま、入り口から3番目の席に座った。記憶の限り、そこに座る常連客はいない。そこに客が座ったのは初めてかもしれない。
 「何かご注文は?」
 実際に私はBarに行ったことがないのだが、バーテンダーが言う言葉ではないと思う。しかし、何を頼むかは気になるところだった。
 そして青年は口を開く。
 「ギブソンでお願いします。」
 「…承知しました。」
 渋いな。この感じは初めてのBarではない。
 青年は顔は俯き、少し泣きそうな顔をしている。こういう時は話を聞くと相場は決まっている。ただ、初来店の客にいきなりプライベートな内容に触れるのは失礼な気がして、その場を静かに終えてしまった。

 気づくと、ギブソンを作り終えていた。仕事は義務であると考えている私は、義務はあっという間に終えてしまっているものだと思っている。慣れた技術、慣れた工程、慣れた雰囲気、全てが相まって時間を短く感じてしまっている。
 「ギブソンでございます。」
 「ありがとうございます。」
 青年はカクテルグラスを丁寧に受けとったが、どうも顔が浮いていない。そして、ギブソンを口に近づける。ああ、口に喉にギブソンが通っていく。喉が3回鳴らして、グラスを置いた。グラスの丁度半分ぐらいで飲むのをやめていた。そして、青年から口が開いた。

 「マスターさん。人それぞれの個性は何で表したら一番いいと思いますか」

 なかなか面白い質問だ。確かに青年の年齢層の人々はこういう悩みを多く持つ時期である。なんせ、私もその内の1人だった。一生という中で、この10年間である程度の人生の道が形成されている、そういっても過言ではない。
 この手の質問には流石に慣れている。2年間お客の話を聞いてたんだから。
 「うーん。まあ無難なのは色かな。だって、色は薄くしたり濃くしたり混ぜたりできるから、意外と簡単に個性を表せれるよ。」
 すると、青年は納得の回答が来て、少し微笑んでいる。
 「ですよね。僕もそう思います。色々考えたんですけど、やっぱり色というのがとても繊細なんですよね。なんだろう一段階の薄さや濃さがちょっと味を出してるというか、なんというか。ともかく、美しいのですよ。」
 「ほう。それでどうかされたんですか?」
 少し先が気になってしまった。ここに何か生産性が生まれる話があるのだろうか。だいたいこういう話は面白くないと思っていたが、この青年が話すとなぜか興味深くなってしまう。
 少年が言葉を発する。

 「人間は何色になるのが一番なんでしょうか。」

 おそらく深い意味ではない、そう信じたい。一番なんてものを決めるとその色にしか目が向かないし、その色になろうとして、中途半端で終わった時の色がすごく汚く感じる。だから、色に一番なんて決めるものではないと昔から思っている。
 青年は言葉を続ける。
 「色っていうのは一番その人の人間性を問われると思うんですよ。例えば、赤だったら情熱的だなあ、水色だったら爽やかそうだなあとか。まあ、人によって色のイメージが違うっていうのもありますけど、自分の価値観を信じる場合、何色になるのが一番なんだろうなあ、と最近思ったんですよ。でも、無色であることは自分にとっては、この世に存在していないみたいな感じで嫌なんですよ。」
 わかる。でも、一番なるべき色なんてない。それでも、青年を応援したいがために一番の色を決めないといけない。
 自分はそんな人生を歩まなかった。色とか人生の道の作り方とかどうでもよかった。そう、流れのままに生きていくと決めたのは、10歳のときだった。今思えば、自分はアダルトチルドレンだったかもしれない。こういう若者が考えそうなことを10歳の時にはどうでもいいと割り切っていた。中学、高校の時は恋愛はしてたものの、それが青春なんて考えたことがなかった。人間は子孫繁栄のために恋愛をしてるんじゃないの、とずっと思っていた。
 「マスター。いい色ありませんか。」
 そうだ。色だ。自分語りを心の中でしてる場合ではない。
 うーん。なんだろう。あ。良い色がある。だから、私の店は暗いんだ。

 「黒、なんてどうでしょうか。」

 青年は私の顔見たまま、「はい?」と言っていた。思わぬ回答に目を丸くしたらしい。
 「すみません。本当によくわからないです。なんか落ち着いた色じゃないんですか。藤紫とか水色とか。」
 「わかりますよ、その考え。落ち着いた色にしたいのはほとんどの人間の希望です。しかし、誰も黒にはなりたくないですよね?」
 青年は頷き、
 「そうですね。黒という色は何だか暗いし、日本の色の風習としては犯罪者にも使われるのであまり黒になりたいというのはないですね」と。
 当然だ。日本の文化がそう示唆してしまってる以上覆しようがない。
 「そうです。しかし、例えば、絵の具で黒色絵の具がなかった時、どうやって黒を作りますか?」
 「えーっと、いろんな色を混ぜまくって作りますね。」
 「そうなんですよ。いろんな色が混ざってできるのが黒です。情熱的な赤、爽やかな水色、草食系の緑とか他の色もそうですが、この世にありふれている考え一つ一つに色があると思ってください。心が傷つくようなことを言われたり、普通に生きててもストレスになることがあったり、時には褒められたり。それらにも色があり混ざり合うと最終的には“自分だけの黒”が形成されていくと思うんです。」
 言い終わった瞬間、言い切ったと良い気持ちになれた。それは青年が本当に心を変えたような表情をしたからでもあると思う。でもそれよりも、即興的に考えたものが自分の中でも良いものであったからかなと。
 でも、しばらくして首をかしげた青年は話を続ける。
 「しかし、光の色の場合はどうですか。黒色の光は作れないはずです。」
 「黒はそもそも光を必要としない地点で独立している。他の色を作ろうとしようとすると技術が必要としている。作り方が存在しないただ一つの色なんだよ、黒は。」

 しばらく沈黙が続いた。経った分数は数えたくなかった。私は次の客のためにグラス等を拭いていたが、内心は青年に何か間違ったことを言ってしまったのか不安であった。しかし、会話の流れ的に私が話すのも間違っていたし一回放置することにした。
 すると、青年はいきなりグラスを持って飲みかけだったギブソンを一気に飲み干した。
 そして口が開いた。
 「ありがとうございます。僕は自分が一番綺麗だと思う黒になります。何かこだわった色になるのは間違っていたんだって今気づきました。確かに黒以外の色は維持をすることがとてもきついです。しかし、黒色なら何だか…、とても幸せに生きることができると思いました。こんなしょうもない話に付き合ってくださり、ありがとうございます。」
 青年は立ち上がり、5000円を置いて走って扉に向かった。ギブソン一杯だけなら5000円もしない。
 「お客様、おつりは…」
 青年は笑顔だった。
 「いらないです。マスターへのお礼です。マスターみたいな心が綺麗な人初めてお会いしました。また来ます。」
 流石に止めようとしたが、青年はそれより速く扉を開けて出て行った。
 ギィ…バタンッ
 暗い世界へ踏み込んでいった。これから美しい黒へ磨きをかける青年に私からは何も手を加えない。ありのままに生きてほしい。
 時計を見ると次の客が来るまで、5分もなかった。私は青年のグラスを片付けを行った。

 暗いのが好きな理由がわかった気がする。ここには色々な黒がある。
 いつもより2分早くドアが開いた。この客も黒を磨いているのだろう。私はその手伝いをしているかもしれない。言葉だけでもいいんだ。
 勝手に口が開いた。
 「こんばんは。」
 開いたドアから見えた夜は路地裏を黒で染めそうだった。


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