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【散歩道】~自然と神様と~




突然記事が書き終える頃に
消えてしまい
萎えてしまった9つの果実です。


もう同じ記事を綴るのは
果たしてできるのでしょうか…。

今後は

一旦下書きに入れて
編集する事を学ばされます。

気を取り直して再度思い返して
綴りましょう。


月曜日の夕暮れに
黒猫ノアのお散歩に出掛けました。



その日はとても
暖かく  風も冷たくはありませんてしたので

とても過ごしやすい日でした。


ノアも嬉しくて
はしゃいでいます。


その時刻は
ワンちゃん達のお散歩時間とも
重なります。


そんな時すれ違ったワンちゃんが
急にノアを見るなり

猫とわかった途端に

キャンキャンと悲しげな声で
鳴き出すのです。

まるで尻尾をアンテナの様に
ピンッと立てて

カラダまで硬直させ
その状態で跳び跳ねる姿は

なんとも愛らしい…。


「すみません!

 この子は何故か
猫ちゃん大好きなんです!」


そう言って
飼い主さんの女性は

まるで運動会の綱引きのように
両手でリードを引っ張っておりました。

悲しげな鳴き声が
遠くなるなか

ノアはクールな眼差しで
ワンちゃんを見つめて

自分は自分の時間を楽しむと
いった様な素振りで

草花の匂いを嗅いでは
思い耽っている様でした…。


そんなお散歩の中ノアの気まぐれで歩く
場所へと私も踏み込んでいきます。


きれいに清掃された丘の斜面を
行けば

舞い散る枯れ葉が残っていて


歩く度に

サクサク…と軽い

美味しい音を
奏でてくれるのです。


そして
何気に上を見上げると

木々には多くの赤や黒の実を実らせていて

それを立ち止まって
眺めていました。


ディスプレイにお裾分けしてもらおうと
幾度となく
私の頭の中で
色んな姿にカワルガワル流れる
パネルの様にみえる

その実の姿を想像し

その時間を楽しむのです。


しかし
不思議な事に気がつきました。


その実は
何故か
人の手の届かない上に
豊かに実っていて

下のほうには
全くといって良いほど実っては
いないのです。


不思議に思いつつ別の木を見上げると

伐採という言い方で良いのでしょうか。

切り落とされた枝から
新しいあおあおとしたバッタ色した
枝が

まるで筍の如く
上へ上へと伸びて成長しているのです。


普通は
枝は横にもぐんぐん広がって伸びて
いくものですが

そういった枝が切り落とされて
黒く塗られているためなのか

主となる太い枝からは

また
新しい枝達が生まれ

どんどん上へ上へと
伸びている事に
気がついたのです。


なんとも不思議
奇妙な育ち方です。






初めてわたしが此処に訪れた時は

そう
4月になったばかりでした。

桜の時期が過ぎて

その桜舞い散る
美しい季節から

新緑の季節へと移り変わりました。


私はこの場所を歩いていた時に

自転車で駆け抜ける制服の少女の一人が


「わぁー!何?此処  すごぉーい!」

前を走る友達に導かれてどうやら
来たようで
とても驚いていたのです。


その駆け抜けた道は

まるでロンドン橋渡ろうの歌の様に
木々達が手を繋ぎ
喜んでいるかの様でした。

本当に美しくて
はち切れんばかりの
新緑の喜びが伝わって来たのでした。


勿論私も少女の様に
心は踊りました。



しかし
いつからか

木々達の
枝は切り落とされて

その頃の眩しかったあるがままの
姿は見事に失われました。


切り口は
黒く塗り潰されて
無惨な姿をしていたので
何が起きたのかと


思わずお役所に電話して
ひどい状態になっていると

問い合わせしてみたくらいでした。


しかし
それは後々わかった事は

その地域による
整備がなされて
やむ終えない事に気がつくのです。


ですが伐採というのか
間伐というのか
庭師のお手入れというのか

その切り落とす人の
感性のままに切り落としているとしか思えない程に

自然の在り方からは
無惨な何もない状態にしか

私には見えなかったのです。


主観的な独り言にはなりますが

木々達からは
あの頃の様な喜びを
感じではこないと思いました。

実際
その切り落とされた木々に
気がついたのは


ある事件をきっかけとして
幾つもの執成しの祈りをしなさいと
でていった時に気がついたのです。


自然にも

影響が
でている気がしてなりませんでした。

祈って祈って
歩いて祈りました。

本当は7度グルッとまわって祈ることを
示されていますが

まだ正確にはお答え出来ずです。

ですが
お散歩しながら
車で走りながら何周かは
お祈りしてきました。


そんな
お散歩の場所での
不思議な枝を伸ばした
木に出逢い

神様を思い巡らすのです。

切り落とされた枝について…

確かに
伐採というものに関して
調べていくうちに
環境についても気がつかされました。


若木は二酸化炭素の排出量よりも
吸収量の方が多く

成長すると
排出量の方が多くなってしまうとか…

 なので、成長した木は伐採し、
若い木を植林して育てる事で
森林全体の炭酸ガスの吸収力を高めることができるのだそうです。

{ネット記事参照}






 

伐採を思い巡らし
 
間伐や徐伐…

様々な意味がある事にも
気がつかされます。


しかし
こんな住宅地の
こんなひとつの地域で

そんなにも切り落とさなければ
いけないのでしょうか…。


整えてあげることも大切なのでしょうが



この筍の様に上へ上へと枝を伸ばしているのは
私の思い違いなのでしょうか…。



そういう育ち方をする
樹木だったのでしょうか…。


もしも

もしもこれが
普通にある成長の姿では
なくて

新しい成長の仕方であるならば

なんて
知恵を持った自然の在り方なのだろうと
静かに驚かされたのです。


植物に関しての知識が無いので

それは
私の想像でしかなく
ただの
思い過ごしなのかも知れませんが

植物が
自分なりに
知恵を持って


上へ上へと伸びるのであるならば
そこに
生命力の強さを感じました。


どんな境遇にも
どんな出来事に直面しても

また
芽を出して

葉を茂らせ


上へと実を実らせていく…


その不思議な枝の育ち方に

色んな思いが駆け巡るのでした…。





そしてひとつのみことばを
思うのです。


「わたしは植え
アポロは水をそそいだ。

しかし成長させて下さるのは、
神である。」

コリント人への手紙  第一3 : 6




これは人に向けての
意味ではありましょうし

また
教会の成長
この世界に向けての
思いも含めて
語られていることでしょう。


しかし

私は

また違った視点から

人だけではなく

自然の育ち方にも
そのまま直視してみました。


再び

エペソ3章18節を思いながら…。







そう


どんなに枝が切り落とされても


見事に上へ上へと育っていく木々に

地上では

多くの困難や
患難が蔓延る中でも


主を見上げているならば
上へ上へと
実を実らせて


新しい枝を造りあげていく姿


なんとも

自然の豊かさと

そこから受け取った沈黙の力強さ


神の恵みに

ただ  ただ  言葉に表せない感情の

感謝が溢れた…そんな


散歩道の

出来事でした…。








ブルーグレィの教会で







黒でもなく

白でもない


それは人の心模様のグラデーション


不完全な人の独り言…。



感謝致します。

























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