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【小説実験】ちゃいろ

 右手が薄暗い。
 枯れた草が鬱蒼としている。その奥に見え隠れする土手を越えると高速道路が走っているのだとわかる。車の音は聞こえず地図を見たわけでもない。けれども高速道路が走っていると、わかるのだ。
 むき出しの土を歩いている。茶色く乾くむき出しの土。むき出しの土は亀の甲羅を割ったら出てくる。
 鬱蒼と生える草と自分との間に高いフェンスがある。遮られているのだ。むき出した土を伝ってひとつながりなのに遮られている。それは運命なのかもしれないじゃあないか。
 とにかく薄暗い。夕暮れ? 夕暮れ? 唐突に思ってあたりを見回すと、しかし夕暮れ特有の粗い粒子は景色の中に一つもない。ほら、あるだろう。暗い場所を撮ったときに出現するざらっとした粗い粒。ああいうものがなにひとつない。すっきり透きとおっている。だから夕暮れではないのだ。日蝕だろうか。いや、日蝕ならばもっと光があるはずだ。夜だろうか。いや、夜というのはもっと闇だ、もっとぬるりとした闇だ。これはまるで水にといた茶色い水彩絵の具のようだ。茶色い水彩絵の具の中にいるのだ。だから、透きとおっていて、暗いのだ。
 茶色いその景色をアルバイトの面接に向けて歩いてゆく。遠くにビルが見える。面接のビル。こちらへ丸く張り出している。天へ伸びている。遠いのに大きいではないか。視野の全部がビルではないか。そして、おそらくはもしかしたらと言える程度のささいなあおみを張り出した丸みに帯びている。それは茶色い景色に現れた唯一の生命力だった。あおい生命? あおい生命などあるのだろうか? あおと言えば空であり海ではないか。静けさであり冷たさではないか。それは命ではなく場所ではないか。あおみ自身きっとそんな疑問を自らに問いながら永遠にビルに棲み続けるに違いない。
 こちらへ倒れかかるような大きいビルは遠くいつまでたっても近づくことはなく、どこまでも歩き続けなければならないのかもしれないと憂鬱になった。土を蹴る親指はしびれ、一歩持ち上げる足は重い。また一歩持ち上げ、やはり重い。地面は乾いて、置いた足の裏から土煙が立ちのぼる。ぼふ、ぼふ、と、踏むたびに煙はあてもなく足元に揺れて迷う。風がないのだ。風がないからだ。土煙は世界が吐き続ける息のように足元から漏れ出た。風はどこへ行ったのだろう、風は、風は。風は吐息を吹き払うべきなのに。
 ビルは大きいけれど、中はさびれていた。黄ばんだ壁が灰色のしみをうかべて、すぐに折れ曲がった。当然見通しは悪く、何度も折れ曲がればもはや自分がどこからきたのかわからない。通路は狭く、両側に並ぶテナントはどれも小さくてすべてシャッターが降りていた。どのシャッターも壁のしみと同じ灰色だった。そして説明書きひとつなかった。どこにも説明というものがなかった。何かを内側に守っているのだろうか、ここは何かの巣なのだろうか、という疑問さえ受け付けず、すべてを閉ざしていた。
 目あての部屋に入ったら正面に恰幅のよい年配の男が焦げ茶色の長机の向こうに座っていた。眉尻を下げ困ったような顔つきをして、ささ、どうぞどうぞとぽつんと置かれたパイプいすに促した。座ってみると男はていねいに後ろに流した黒光りする少ない髪の毛をさらにていねいに後ろへなでる。頭の動きに合わせて額の汗がまるでお互いひそひそ話でもするように光った。
「とおいところをどうもすみませんでした」と男は言い始めた。
「なにぶんこのようなところでしてまったくながらきていただくひとにはごめいわくをおかけしているようなぐあいで」
 男は口を大きく動かして一語一語をくっきり出していた。しかしそのありさまは、当てても当ててもはまらないジグソーパズルのようにきりのない努力だった。
「まずまあおいでいただけたかぎりはそれそうおうのれいでおでむかえをといつもかんがえているわけですがこちらとしましてもひとでというものがございまして」
 男はいったん区切って上着の内ポケットをごそごそとまさぐりハンカチを取り出すと両手の親指と人指し指で端を掴んでパッと広げた。たらんと布が垂れて、正確な正方形が現れた。手品師のように裏表を確かめるとそのままの位置で器用に元の通りに折りたたみ右手に持って額に光る汗をトントンと叩いた。それと全く同時に、左手で長机をトントンとノックした。そしてハンカチをていねいに内ポケットへしまい込むと眉尻を下げた困り顔のまま話を再開した。
「いやあほんじつおいでいただきましてまずはおれいをもうしあげねばなりません。すでにもうおさっしのこととはぞんじますがアルバイトというものはいつまでたってもたりないものなのです。といいますのはとうしゃのばあいまったくこのビルディングがなによりもものもうすのでございましてそのビルディングばかりがまったくこのようなぐあいだからでございます」
 男は言葉を区切って天井を見上げ、何かを探すようにキョロキョロと見回した。だからその間に訊くことにした。
「それで、どんな待遇なのでしょうか?」
 男は天井を見回しながら言った。
「そうですたいぐうです」
 そしてこちらを向いてもう一度言った。
「そうですたいぐうです」
 両肘を長机に突いて指を組み、ぐいっとこちらに乗り出した。椅子なのか机なのかあるいはそれ以外なのか、わからない何かからギイイイッと悲鳴じみた音が聞こえた。男の顔が妙に大きくなった。
「そうなのですたいぐうというものがなによりだいじなことはまったくかわりばえしません、このビルディングがいくらものもうしたとしても」
 八の字型の眉の下に目鼻口がぎゅっと集まっていた。そのまわりの額と頬と顎がやたらに広い。額にはまた汗がにじんでいた。
「そうですね、待遇は大切だと思います」
 その言葉を聞いた途端男は顔を引いて椅子の背に大きくもたれかかった。ボタンを留めた背広にも膨らんでいるとよくわかる大きな腹の上に組んだままの両手を乗せると天井のひとつところをじっと見はじめた。
 次の言葉を待ってみる。パイプいすにぽつんと座っているのだから焦げ茶色の長机の向こうから次の言葉がやってくるはずだった。しかし男はいつまでたっても話を始める気配がない。天井の一か所を見たまま動きもしなくなった。男の姿はまるで茶色い水彩絵の具に貼り付いた立体標本だった。
 これで終わりなのだ、これで終わりなのだと確信をし、申し伝えた。
「ほかに行くところもありますので、こちらはこれくらいで」
「それはこまります」
 まさしく困ったというふうに眉間に皺を寄せて男は上を向いたまま話し始めた。眉と眉との間に濃い影を伴う皺目が四つできていた。
「まんがいちということもございますのでぜひそのあたりはおきをつけいただかないと」
 そしてまた内ポケットからハンカチを取り出しこちらに見せつけるように両手の親指と人差し指でぱらり広げると裏、表、とひっくりかえしてから器用に折りたたんで右手に持ち汗ばむ額をトントントントンと四回叩いた。まったく同時に左手で長机をドンドンドンドンと叩いた。
「それはこまります」
 そう言いながらボタンの留められたままの上着を左手でそっと広げ、決してなくしてはならないとでもいうように丁寧に慎重に内ポケットへハンカチをしまい入れた。そしてこちらをむいた。
「おたくさまにおかれましてはややもするとかなりかぼそくぽきりとおれてしまうこともありうべきことですので」
 男は長机にもう一度両肘を突き指を組んでさっきと同じように身を乗り出した。続けて身を引き、両手を膝の上にしまうとまた天井を見上げて一か所を見続けた。その間にキイイイイイッと甲高い鳴き声がさっきよりも長く出た。イイイイッと鳴き続けるさなか思い出したようにこちらを見、長机に両肘を突いてまた身を乗り出した。男の顔がこちらに大きくせり出した。
「ではこれにて。終わりといたしましょう」
 そう言ってぽつんとしたパイプいすから立ち上がると、男の後ろから、人がこちらを見ていた。瞳が丸く黒々としていた。その瞳の中心から毛羽だった紐が生えてきて床まで垂れ下がった。二つの瞳から二つの紐を垂らしながらこちらに顔をむけていた。
 ビルのそとは同じようにかぜがなく、茶色のまま薄ぐらかった。ビルを背にボフボフボフとつち煙を立てながらもと来たみちをあるいた。うっそうとすすけ切った草のかたまりがかたわらにあって、そのむこうにはこうそくどうろがはしっている。うしろからかっぷくのよいおとこがちゃいろいえのぐのなかをひらおよぎしながらついてきた。
「それはこまりますそれはこまります」
 そうしておとこにきちんとこたえることにしたよ。
「いいえいいえこれからさきにもきっといいことがまっているにちがいありませんのでほかにいくところもございますので」「それはこまります」「いいえいいえこれから……
                              <了>

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