【麭・麭・給・給】幽谷 霧子【G.R.A.D.考察/感想】
ソシャゲには2つの契機があると思っている。1つ目は始めるきっかけで、2つ目は継続的に続ける動機をなるきっかけ。シャニマスでは、なんらかのシナリオが2つ目のきっかけになった方が多いのではないかと思う。私にとってはそのシナリオは霧子のG.R.A.D.だった。
G.R.A.D.はgradation(グラデーション)を意識した略語になっており、続くLandingPoint(着地地点)のシナリオへと至る途中の、個人の変化を描くシナリオに位置する。
特に霧子のG.R.A.D.およびそれに続くPSSR【琴・禽・空・華】のシナリオは――ある方がおっしゃる通り――それ以前の、霧子を通して見える「世界」を描写するコミュから、霧子がこの「世界」とどう付き合って生きていくかを描写するコミュへとシフトした内容となっている。
しかし、物語として単純にあらすじ化してしまえば、何も変化が起きていないシナリオに見える。霧子の中で「アイドルとしての道」と「医者の道」の両方の青写真が描かれはじめるが、どちらの道と決心することなく、ただひたすら判断を先送りにしていくだけ。「私が決めないから……」とどこか無理したい気持ちもある霧子と、「プロデューサ――本楽は道をつけてあげるべき存在――としては失格だけど」と言いながら、霧子の内的な何かを待ち続けるP。そこには「霧子にとって一番良い事は何か」というPの思いがあるように見える。
初見の印象をよく覚えている。道を決めきれない霧子に私は昔の自分を見ているようだと感じた。私の場合は私の中で煮詰まらないまま時間が過ぎ、選択らしからぬ選択がなされてしまったが、Pはひたすら時間を稼いで霧子が”来る”のを待とうとする。そんな霧子を前にして私は同時に、そして必然的にP側にも思い入れせざるを得なかった。きっと霧子を前にして時間を稼ごうとするP自身も、過去の自分自身を霧子に重ねていたのではないかと思える。このコミュは霧子が後悔することがないように、というPの強い思いに溢れている。
ねずみさんととりさん
G.R.A.D.では、冒頭にある『ねずみさんととりさん』の寓話が霧子の頭の中で反芻される様子が描かれる。霧子は――自身の状況と照らし合わせて――寓話において自身がどの位置かを探そうと繰り返す。また重要な位置を占めるのがパンのメタファーであり、Pが最後にこれを書き変えるのが、Pの主張の多くを担っているように見える。
『ねずみさんととりさん』の寓話では、固いパンと薄いパンにはありつけつつも、ふかふかのパンを食べたい「ねずみさん」と、お腹を空かせて動けず、なんでもいいから食べ物を食べたい「とりさん」が登場する。そして、二匹の前にふかふかのパンを持つ「いぬさん」が現れる。「いぬさん」はパンをくれると言ってくれるが、「あいにくと1つしかないんだ」「ふたりのうち、どちらがパンをもらうのにふさわしいんだい?」と言ったところで、寓話は終わる。
この寓話への答えとして、Pも霧子も半分こが良いという。霧子として、その理由は「どっちにも貰いたい理由があるから(貰うべき)」。しかし、その理屈は逆に言えば「もし貰いたい理由がなければ貰うべきではない」と言っているのと同じだ。
ごうごうひびく/パン/相談
霧子は2つの偶然に出会う。霧子は足を怪我して自暴自棄になったアイドルに遭遇する。彼女はその怪我のために、オーディションに参加できなくなっていた。またちょうどその時期、霧子は学校の先生から医学部受験を見据えた模試(もし=IF)を勧められていたのだった。
霧子は状況を鑑みて、自身は「ねずみさん」で、足の怪我をした彼女を「とりさん」に見立てる。ただ霧子という「ねずみさん」は、怪我をしたアイドルのように何か不足しているところがあるようには感じられず、ふかふかのパンをもらう理由はあるように思えない。「ただ……パンを食べたいだけの人」だと。
霧子は「とりさん」の位置ではない。「ねずみさん」と同じでもない。だとしたら私(霧子)はどの位置なのだろうか。私(霧子)の考えられうる位置は残っている「いぬさん」の位置しかない。そして、お医者さんになれば(怪我をしたアイドルに)パンを与えられそうだ。
霧子はユキノシタさんに「模試を受けること」「もしかしたら医者になれるかも」とこぼす。その様子をたまたま聞いていたPは、霧子に話を聞かせてほしいと申し出る。
お日さま~決勝後
Pは霧子の話を聞き、丁寧にロジックをなぞっていく。霧子が今の状態を『ねずみさんととりさん』の寓話になぞらえていること。怪我をしたアイドルが「とりさん」で、霧子がまず自身を「ねずみさん」の位置と想定しているだろうこと。しかし、霧子が「医者になれるかも」とこぼしていたことから、Pからは「ねずみさん」ではなく、「いぬさん」になりたいように見える。Pは「いぬさん……たとえば、医者になりたいのか」と霧子に聞くが、霧子は「なれるかどうか、なりたいかどうかわからない」と答える。
またPは「ねずみさん」ではなく「いぬさん」の位置を見出している理由として、「霧子にはパンをもらう理由がないのか」と問うても霧子はまた「わからない。ないんじゃないか、って思えて」と答える。
霧子の答えをまとめると下記になる。
1:パンをもらいたい理由があるかわからない。
2:なりたいかどうかわからない。
3:なれるかどうかわからない。
道の選択を迫られている霧子。しかし、霧子の見出す「医者の道」という青写真には「ある」という確信が一切ない。霧子の心の中には「これだ!」と思えるものがない。ただ「わからない」の上に、偶然それらしき道がぼんやりと浮かび上がっているだけの状態だということ。
霧子の「わからない」は確かな答えだと私は思う。細かく見よう。
1:パンをもらいたい理由があるかわからない。
この時点でパンがメタファー的に指し示している対象は、霧子にはあって怪我をしたアイドルにはないものであり、特に健康な身体、経済的状況(飲み食いや生活に困っていないこと)や人的資源状況(Pや先生のバックアップ)などを包括的に指しているように見える。
また後に霧子は「医者の道」という青写真が描けているにも関わらず、決めきれないことを”贅沢”と表現していた。全体的に言うとパンは「自分で道を歩める幸運さ」というニュアンスが強いように見える。
しかし、霧子は私にはパンをもらう理由が「ない」とはっきりとは言えなかった(「ないように思えて」)。現状一見怪我をしたアイドルとの対比から、不足がないように見えるから「ない」ように見えるだけ。はっきりと「ない」とは言えないのはきっと霧子の中で何か足りない部分があるように感じているからではないだろうか。
私が思うに、霧子が足りないと感じているものは、自分がこの道を進みたいと思える気持ちではないだろうか。しかし、――厄介なことに――霧子の中でその気持ちは「あるべきなのにないのか」または「なくても良いものなのか」がわからないのだと思う。
つまり、「霧子にはパンをもらう理由がないのか」に対して、霧子が「わかりません」と答えたのは、霧子は「ない」ものを感じており、それは「この道を進みたいと思える気持ち」であるが、それがあるべきなのにないのか、そもそもなくても良いものなのかがまずわからない。だから「わからない」という答え止まりになったのだと思う。
2:なりたいかどうかわからない。
霧子が「医者という道」を見出したのは外的偶然にすぎない。もしあのアイドルに邂逅してなかったり、もし先生が医学部受験を勧めなかったりしていた場合、霧子はその道を思い描いただろうか。
またはこうも仮定できる。あのアイドルの障害が外科的治療ではなく、投薬的治療が求められる類のものだったり、もし先生が製薬研究職が視界に入る受験先を勧めてきたりした場合、霧子は「医者の道」ではなく、「制薬研究職の道」を思い描いたのではないだろうか。
霧子が「医者という道」を見出したのは、ある種の事故でしかない。偶然が重なれば、運命に見える。ただし、偶然的に浮かびかがったこの道は果たして本当に霧子が「なりたい」道と言えるのだろうか。ただ偶然的に「なることが求められている」ように見えるだけ道が。
※他のコミュで霧子の両親が医者だと判明するが、これも1つの外的偶有的条件に過ぎない。もし両親が製薬研究職だったら?というだけだ。他の条件より束縛力は強いだろうが。
3:なれるかどうかわからない。
ここの「なれる」は「医者やアイドルという職業につけるか」という意味より、「パンを十分に与えれるようになれるか」という意味が強いように見える。
アイドルのオーディションにしても、医学部受験にしても、そこは競争はつきものになる。霧子が後ろ髪を引かれているのは、競争に勝ち、公平さを破り、背負って生きることに対しての責任感がのしかかっているからだろう。私は誰かのパイを奪って生きている。それに値するだけのことをちゃんと成し遂げなければいけない。
またその道が見えたとしても、結果的に責任を果たせないならば、なるべきではないように思える。しかし、実際に責任を果たせるかどうかはなってみないとわからないのは当たり前だ。そして、どの道(医者、アイドル、またはその他)に進むかという選択は「実際に責任が果たせるか」の観点からも判断しないといけないだろう。(コミュ中では、メタファー的に光合成の「作用スペクトル」で例えられているように見える)
これまでの霧子の内的ロジックをまとめると下記になる。
私にはパンをもらう理由があるかわからない。でも、怪我をしたアイドルとの対比から「ない」ように見える。理由がない場合は「ねずみさん」の位置ではない。とすれば私の位置は残りの「いぬさん」の位置になるだろう。そして、「いぬさん」としては、例えば「医者の道」が見えるが、医者になりたいかどうかわからない。内的に「〇〇になりたい」という理由は持ち合わせていない。でも、外的条件から、いずれかの道を歩むことを求められているように見える。しかしながら、なったとしても、パンを与えるほどになれるかどうかわからない。でも、そこで責任を果たすことが求められているように感じる。しかし、具体的にどの道が責任を果たせる道なのか、わからない。
霧子は「わからない」の上に「ように見える」で立てた砂上の答えを立てて、状況を把握しようとしている。
『お日さま』以降(敗者復活戦や決勝戦、後日談など)のコミュでは、話の論点が散らばっている印象を受ける。それは霧子が「わからない」の上に「ように見える」で立てた、この砂上の答えをいつの間にか前提にして話を進めていたり、ある「わからない」に立ち戻ったりしているから。それは霧子の中で本来まだ答えが出ていない問いだからこそ。
霧子は自身の「わからない」を無視して、外部の観察や責任感から得られたそれっぽい答えを前提に、自分の人生の道を考えてしまっている。この霧子の状態を見て、Pは「わかるまで全部やってみよう」と霧子を後押しする。霧子は気付いてないが、Pの言う全部は霧子の持っている「わからない」全部へ解答を出すことだ。
Pは霧子にとって「アイドルの道」への偶有的要素にならない。どの道へ進むかを限定せずに、ただ「わからない」と向かい合うことを求める。G.R.A.D.のオーディション優勝後もその態度は変わらない。
Pの「全部やってみよう」に後押しされて、霧子は「医者の道」の方も「アイドルの道」の方も走り続ける。そして、その中で霧子は1つの答えを見つける。
霧子の「わからない」は頭で考えただけでは答えの出ない類の問いだ。だから彼女は「わからない」という壁に必然的にぶつかった。答えの出せない問いは、問い続け、解を出すために行動すること自体が解である。その過程で「ある」は見つかる(かもしれない)。この「ある」を作り出そうとする行動は、お日さまの下で走る霧子という風景に沿って、光合成という言葉でメタファー的に示されているように見える。
ふかふかでほかほかしたもの
G.R.A.D.のオーディション優勝後、Pはあの怪我をしたアイドルの手術が完了したこと、彼女がG.R.A.D.オーディションに来ており、霧子が優勝するの見て感動していたらしいことを霧子に伝える。そして、「アイドルだってパンを作れる」と述べたうえで、体が治っても希望――心を引っ張るものがなければ「その後も頑張れるかどうかはわからない」と霧子に告げる。
この言葉を受けて、霧子は自身が責任を果たすことができたと安堵する。それは「ある」という実績になったから。
ただこの話でPは1つの書き換えを行っており、霧子の根底にあった「わからない」への答えを示唆していた。Pが書き変えたのはパンのメタファー。パンは怪我をしたアイドルが霧子を見て受け取ったものであり、この道を進みたいと思える希望という気持ち。霧子の中で、その気持ちは「あるべきなのにないのか」または「なくても良いものなのか」がわからなかったが、それは「やっぱり受け取らないといけないもの」、「霧子に足りてないもの」だ、とPは書き変え、霧子はパンをもらわないといけないと言う。そして、霧子の「ある」が見つかるまで、ちゃんと探し続けようと言い続ける。「迷っていいんだ、霧子」。
またこの最後の話では、Pが自己言及をしているように見える部分がある。
Pは一般的なプロデュース活動から見れば、霧子が「わからない」と向き合うことに相当入れ込んでいるように見える。これはG.R.A.D.ではわかりにくいが、実質続きのコミュである【琴・禽・空・華】で顕著に見られる。
個人的に共感するため想像できるのだが、このPも過去「わからない」に向き合わず、「ある」を見つけられずに後悔した経験がある人ではないだろうか。だからこそ霧子が向き合うことにとても執着しているように見える。霧子が「わからない」と向き合い、「ある」を見つけること。それがプロデューサーという「いぬさん」が与えたいパンなのだろう。
感想、【琴・禽・空・華】、そして……
今更言うまでもないが、私も過去「わからない」と向き合わず、霧子が流されそうになった方向に流され、「ある」を見つけることに執着しなかった。だからこそ、このコミュに心抉られたのだと思う。過去のことは若干後悔はしているが、今はもうこのような道だったのだろうとは思っている。
このコミュは一言で言うと、進路希望調査票には「わからない」なら「わからない」と書くべき。ただし、「わからない」と向かい続けること。「ある」を見つけるまで走り続けることがまず最初の答えだ、ということだろう。外部からの条件だけで道は決めるべきじゃない。
後日談の【琴・禽・空・華】は霧子らしい空気感のコミュで、さらに外部の状況が答えを出すことを霧子に求めてこようとも、Pとの関係性(Pが霧子のことを思って/祈ってくれている関係)から、霧子がこの「わからない」を――あるいは、この「わからない」も含む霧子の全部、気持ちのままを――決して手放さないことを決心する様が示されていたように思う。
ただし、一点懸念点がある。最終的に「ある」は本当に見つけることができるのだろうか。見つからずに終わってしまう可能性があるのでは。
もしかすると、その答えとしては、G.R.A.D.の、とあるルートが示唆的かもしれない。
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