【ブルアカ】聖園ミカの《記録》
エーリッヒ・フロムの書籍を読んでいた際、ある一節でふと「聖園ミカ」が思い浮かんだ。
エデン条約編で繰り返し強調される、楽園の証明の不可能性。
「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」
その証明問題の1つは、ある種の楽園の別名を持つ「聖園ミカ」、彼女は一体何者なのかという問いではないだろうか。
彼女のあるままに見、彼女の内にある力の構造を認め、彼女を個人として見ると同時に、彼女の普遍的な人間性において見て、ここに《記録》しよう。
エデン条約編:冒頭
事の発端は犬猿の仲である「トリニティ総合学院」と「ゲヘナ学園」の和平条約が結ばれる運びになったことであった(このゲーム内の学院・学園は現実での国や自治区などの単位だと思うと良い)。この和平条約の名前こそ、題名にもなっている「エデン条約」である。
「エデン条約」の実態としては、双方から中心メンバーを募って双方以上の武力を持つ第三者集団「エデン条約機構:ETO」を形成し、トリニティとゲヘナが武力衝突をしないように睨みを利かせてもらうというものだ。もちろん、もし武力衝突が発生したら介入に入ってもらう。力を力で抑えつける、なかなかに無骨で剛腕な和平条約である。
「エデン条約」締結のいくばくか前、連邦捜査部『S.C.H.A.L.E(シャーレ)』に属する”先生”はトリニティの生徒会『ティーパーティー』に呼ばれ、”先生”は桐藤ナギサと聖園ミカに出迎えられる。
”先生”は成績の振るわない生徒たちで構成された『補習授業部』の顧問を依頼され、快諾する。しかし、「エデン条約」の締結を阻止しようとする輩が存在するらしく、途中から裏の役割として『補習授業部』内の「トリニティの裏切者」を割り出す役割を背負わされそうになる。ナギサは”先生”が顧問を快諾したせいで、関係のない生徒も退学の危機に陥ったかのように仄めかし、裏切者の特定を”先生”に押し付けようとするが、”先生”は断る。詳細は省くが、ここまでの流れだけでナギサの政治的手腕の強さが垣間見れる。
一方で『ティーパーティー』でのミカは終始おちゃらけた態度を崩さない。しかし、「トリニティ総合学院」という数ある分派をまとめた学院でのトップ3であること、またナギサに見せつけられた、政治的手腕の強い『ティーパーティー』に君臨しているということを踏まえると、この段階では、それはピエロの仮面で、本音を隠しているような態度にも見えてくる。
補習が始まってからしばらくしたのち、ミカが”先生”に接触してくる。
「トリニティの裏切者」(1章17幕~2章1幕)
『補習授業部』の合宿の最中に、ミカが”先生”に単独で接触してくる。”先生”の政治的な立ち位置(位置としては完全中立に近い)を確認したあと、ミカは情報提供と共に、”先生”に「(アリウス分校出身の)アズサを守ってほしい」を持ち掛けてくる。
しかし、この接触はかなりきな臭いものであった。
1つ。『補習授業部』のメンバーにいる白洲アズサは、トリニティと因縁のある「アリウス分校」出身であり、アズサを転校させたのはミカであるという。しかし、転校させた理由が和解の象徴になって欲しいから、ということ。表向きには聞こえが良いが、それだけだと政治的に結果に繋がらないのは明らかだろう。仮にも『ティーパーティー』のトップ3がそんなオツムの悪い選択肢を取るのだろうか。
2つ。『補習授業部』に”先生”を招待することを進めたのはミカであるらしい。和解・和平の希求を口に出しつつも、アリウスのアズサや『シャーレ』の”先生”を巻き込んで、一番状況を荒らしているのは明らかにミカである。
3つ。これが特に臭い。具体的な裏付けもない、状況証拠だけによるナギサへのヘイト向け(印象操作)だ。「エデン条約」の核心は、和平よりもゲヘナとトリニティの武力を合わせた「エデン条約機構(ETO)」を形成することにあると強調し、連邦生徒会長が行方不明でキヴォトスの権力構造が揺らいでいる今の時期に、ナギサが強大な武力である「ETO」を手腕に収めて何かを企んでいるように見えると煽ってくる。しかし、具体的な裏付けは出てこない。
ミカの目的は推測しやすい。「アズサ(アリウス)+”先生”(シャーレ)」対「ナギサ」の対立構造の誘発。そしておそらく、何らかの形で「ナギサ」の失脚からの『ティーパーティー』の掌握。この段階で抱いたミカの実像は「虎視眈々と権力の座を狙うジョーカー」もしくは「本当にオツムの悪い金持ちのボンボン」のどちらかである。
ただし、逆に気になる点がある。ミカの政治的手腕の拙さだ。簡単に裏の裏があるのではないかと想定してしまう。”先生”ならこれくらい気づくよね?と試されているようにも読める。
政治的立ち回りにおいて本当の目的を知られることは急所を晒すことに近い。なぜなら交渉で掛け金を際限なく吊り上げられてしまうから。本当に達成したことが、相手から見て全然重要じゃないように見えるのがベストである。ナギサはその点圧倒的に上手い。彼女は内心『補習授業部』の犠牲はできれば最小限にしたいと思っているだろうとは推測できる。が、それがどれくらい彼女にとって大事なのかは”先生”には一切わからない立ち回りをしている(もちろん実際に全然重要視してない可能性もあるが、実はヒフミへの思いが特に強かったことが後に暴露される)。絶対に合格されないために答案用紙を吹き飛ばす程度に徹底するナギサと比べると、ミカの立ち回りは徹底してないように見え、”あどけなさ”が残っているように感じる。
本当の「トリニティの裏切者」(2章17/18幕)
『補習授業部』第3次特別学力試験当日、アリウスはナギサの襲撃を決行する。しかし、アリウスの襲撃隊がナギサにたどり着く前に『補習授業部』が先手を打つ形でナギサを襲撃し、身柄を確保する。ナギサの身柄を守るため、また試験会場を封鎖している正義実行委員を動かすために。
しかしながら、目論見は外れ、正義実行委員が動くことはなかった。代わりになぜかわざわざ黒幕のミカが現れる。正義実行委員はミカが『ティーパーティー』の権限で止めていたのだ。
その後、『補習授業部』とミカの問答が行われ、最終的にはハナコの切り札である『シスターウッド』の介入で事態は収束する。問答で気になった点をピックアップしよう。
ミカの動機について
簡潔にまとめると「権力が目的ではない。ゲヘナが嫌いだから。だからゲヘナとの和平条約など反吐が出る」。特徴的なのは、理由がとても表面的だということ。ゲヘナに具体的に自分や身内が何をされた等はない。どこかで聞いたことのある理由。トリニティしぐさ(ゲヘナが嫌い)である。また良好な関係である幼馴染のヘイローを壊す理由と釣り合うようにとても見えない。
『シスターウッド』の介入後の、判断について
理性的に考えれば降参しかない戦力差であるとハナコを介して状況が説明されているにも関わらず(後に吹っ掛けだったことは判明する)、ミカは何も考えずに戦闘を続ける。そこに勝てる勝てないの見込みや損得などの理性的な判断はない。
セイア関連の言動の意味深さ
ミカ曰く、セイア襲撃はミカの命令であるが、ミカはセイローの破壊(死)は意図していなかったと言う。破壊されてしまったことに対しては「ここまで事態が大きくなったきっかけ」であり、そのせいで「色んなことがどうしようもなくなっちゃった」という。
またセイローが破壊されたのは嘘であるとわかった途端『シスターウッド』に対抗していたミカは糸が切れたように降参する。
ミカはその後、トリニティの監獄に幽閉された。私たちに残るのは、上記に示したような、黒幕の言動に対する違和感である。
「裏切者」からの乖離(3章)
シナリオの順番は前後するが、3章ではセイアの能力を用いて、ミカに対する違和感への解答がメタ視点で読者とセイアにのみに開示される。
※”先生”には開示されていないように思える
3章16/17幕 いくつかの欠片たち/憎しみの正体
「エデン条約」調停式会場がアリウスに襲撃され、ナギサも含む首脳陣が欠けたトリニティが混乱に陥っている中、『ティーパーティー』内の一部派閥が幽閉中のミカを担ぎ上げ、ゲヘナに宣戦布告をしようと企む。しかし、ミカは「確かにゲヘナは嫌いだが、自分で憎んで自分で殴りに行け」「気分じゃない」と言って神輿に乗るのを断る。その後『ティーパーティー』の生徒からリンチを受け始めるが、コハルと先生が駆け付け、事なきを得る。先生の前でミカは「どうしてこうなったのかな……」と涙ながらに吐露し、セイアの能力でセイア襲撃前後のミカの心境がセイアと読者に開示される。
セイアはミカのこの心の動き(心的防衛)を「合理化」と言っているが、間違ってはいないが、少し捉え損ねているように見える。(実際4章でのセイアの言動を見れば、切羽詰まっていたとはいえ、ミカには行ってはいけない対応をしている)
”私”の見立ては下記である。
ミカは外的偶然に合わせて「<私>は何者か」という解を変えてしまった。自分とは何者かという答えを”それ”としてしまった。”それ”らしい<私>の仮面を被ってしまった。素朴にアリウスと和解がしたいと思っていたミカであったが、自分が下した命令の結果、セイアのヘイローの破壊という結果(外的偶然)が発生し、それに合わせて彼女は自身を【<私>は「トリニティの裏切者」である】と断定し、自分で自分を騙している。この状態の彼女の行動原理は「トリニティの裏切者」として/らしく振る舞うことになる。
「(……ああ、そうだ。)」というミカの内面の言葉は、この変更が彼女の中で了解完了したタイミングを指す。
16/17幕のやり取りは、ミカが【<私>は「トリニティの裏切者」である】という立場を死守していたが、最終的に「トリニティの裏切者」であるという立ち位置が弱くなった話と言える。
なぜ神輿に乗るのを断ったのか。ミカは『ティーパーティー』を襲撃した者という立ち位置として、ゲヘナと和平しようとするナギサを裏切る立ち位置にいるために、ゲヘナ嫌い(和平反対)である必要があるから、嫌いなのである。またゲヘナと実際に喧嘩してトリニティの利となれば「トリニティの裏切者」ではなくなる。『ティーパーティー』の生徒たちと「ゲヘナ嫌い」であるための理由が異なるのだ。故に「気分がのらない」。また『ティーパーティー』の生徒にリンチされることで「トリニティの裏切者」という立ち位置を維持しているのが見えないだろうか。
またこのやり取りの後、ミカは涙ながら「どうして、こうなったのか」「こんなバカでごめん」と内心を吐露し、【<私>は「トリニティの裏切者」である】という命題はミカの中で癒着が弱くなった。それは冒頭と章締めの、ミカとナギサとのやり取りの対比ではっきりとわかる(3章で他にミカの内心が変わる話はない)。冒頭は頑なに「裏切者」の位置を譲らないミカだったが、章締めは母子関係のような「甘え」たやり取りを行っており、もはや「裏切者」の立ち位置は見当たらない。
なぜ16/17幕のやり取りで「トリニティの裏切者」の癒着が弱くなったのか。ゲヘナ嫌いであるのにゲヘナを殴りに行くのに気分がのらない自身への違和感や、おそらくラカンの言うところの「弁証法的反転」によるものと思われる。噛み砕いて言うと、自分で発言したロジックが自分に返ってきたから。『ティーパーティー』の生徒たちからの提案を断るために「自分で憎んで自分で殴りに行け」という趣旨の内容を述べたミカだが、今回の騒動で自身が挙げた動機である(和平反対のための)「ゲヘナ嫌い」は明らかにミカ自身の憎しみではない。この違和感や自己矛盾が「トリニティの裏切者」という言葉をミカから離したのだろう。
※23/2/7追記
1/24・25に「エデン条約編」の後日談にあたる最終編が追加された。その内容を鑑みると、一番の要因は、トリニティ生であり、ドンパチやりあったこともあるコハルがミカを助けたこと=「トリニティの裏切者」として扱わなかったことのようだ。ミカからコハルへの情動的結びつきを見ると良い。
※追記ここまで
ミカの内心は「<私>は〇〇である」と自分で断定した命題を誰かにも言ってもらって安心したい気持ちと、それを否定されたいという気持ちが競り合っている/た。このアンビバレントな気持ちは、自分でリンチされる方向に話を持って行きながら、コハルに止めてもらったときの反応や、ミカの味方だと断言してくれた先生に幽閉中に会うことを頑なに断る態度に現れている。彼女のこれまでの各種言動の違和感は、あくまで彼女が「トリニティの裏切者」として/らしく振る舞っていたということと、それを「否定されたい」という気持ちの持ち主から来ている。
ミカの中の見えないミカ――仮想的に想定される、それらしい<私>の仮面を被っていないミカ――としての発言はゲームシナリオ上は暗転画面で示されていると断言して問題ない。
3章3幕 ポストモーテム(3)
問題が一点ある。
ミカの内面の解は、メタ視点からセイアと読者にもたらされたが、作中の登場人物たちはどうやって辿りつけるのかという問題である。
何者でもなく仮面を被っていないミカに、登場人物たちは”違和感”としてしか出会えない。主義主張の薄っぺらさ、物事の徹底のしなささ(黒幕が前線に出てくる。政治的手腕の拙さ)、理性的な判断の欠如(『シスターウッド』との戦闘続行と、その後セイア生存を知った後の即降参)など。このような”違和感”としてしか出会えない存在は、あくまで仮定としてしか存在を考えることができず「無意識の主体」と呼ばれる。
ハナコは3章の冒頭から、この違和感の内容をもって、幽閉中のミカを問い詰めている(この問答はかなり的を得ている)。しかし、ミカに「で、何が言いたいの?」「私は裏切者で人殺し。ただそれだけ」とあしらわれてしまう。
これがブルアカの示す「楽園の証明の不可能性」の1つである。仮説を立てることも難しければ、仮に立てれたとしても、それを認めさせることはできない。ミカが単独接触してきたときに、このような心性であると仮説を立てられただろうか(自分はできなかった。ある意味で騙されたとも言える)。またメタ視点での回答をミカやその他の人物を説得できるだろうか。
ミカと「トリニティの裏切者」の癒着は幾分か離れた。
だが、既に行ってしまったことは消えない。彼女が平素持っていた<私>はもう戻ってこない。4章はミカの<私>の横滑りと多重化、そして救済の話である。
救済(4章)
「檻の中のお姫様」
「エデン条約」調停式襲撃事件の後日、トリニティにて、今回の事件についてミカの聴聞会が開かれる運びとなる。ミカに対する世論は悪化しており、自身の属する「パテル分派」からは追放され、『ティーパーティー』の資格剥奪も決定済みであり、持ち物を勝手に燃やされる私刑などもまかり通ってしまっている状態であった。もはやトリニティに彼女の居場所があるようには見えない状況である。ナギサ曰くミカは聴聞会を欠席するつもりであるらしく、欠席すれば「退学」という結果になることは間違いないという。”先生”はミカを説得すべく監獄へ向かう。
訪れた際、監獄は礼拝の時間であり、キリエ(憐みの賛歌)が流れていた。
ミカに聴聞会の欠席について尋ねると、ナギサとセイアが私を擁護すればさらに立場が悪くなり心労にもなるため、これ以上立場や体調を悪くしたくないということから、またセイアに許されていない以上、断罪されるのも仕方がないから欠席するという。
見かねた”先生”はセイアと仲を持つことと、3人で聴聞会に出席することを約束する。この時獲得したミカの<私>は「檻の中のお姫様」である。
「魔女」「(不幸の原因)=疫病神」「幸せを望む者」
”先生”はセイアと話をつけ、セイアはミカを呼びつけるが、ミカが訪れるまでの間に、夢の中でゲマトリアの会議を覗き見してしまう。会議内容を知り、切羽詰まったセイアはミカに対して、ミカを「(不幸の原因)」の位置に落とす言葉をかけてしまった後、意識昏倒してしまう。
ミカはセイアに許される流れになると思っていたところ、アリウスの件を詰問され、さらにセイアは意識を失い、その責任を周りから言及される状況から「檻の中のお姫様」でいられなくなる。
またさらなる「(不幸の原因)」の存在/位置としてサオリを思い浮かべた際に、ミカを形容する言葉として「魔女」という声が投げかけられる。この言葉を<私>としたミカは「魔女」らしく/として行動し、復讐すべく脱獄する。
「魔女」は本来幅を持つ言葉ではあるが、ミカの言動からして、このシナリオにおいては間違いなくゲマトリアのベアトリーチェ(の思想)を指している。つまり、憎しみの主体――「我憎む。故に我あり」である。「魔女」がベアトリーチェを指している限りにおいて【<私>は「魔女」である】は【<私>は「憎む者」である】と言い換えて問題ないだろう。うみねこは一般知識じゃないと思うんだけどな。
またミカはサオリは憎む対象であると同時に、自分と同じく「(不幸の原因)」という位置でもあると見出している。脱獄後、ミカはアリウスの入り口付近でアリウススクワッドと対面するが、その際、無視されてちょっと疎外感を感じているのはそのためだ。
「憎む者」であるためには、憎む相手(の存在)が必要であるが、具体的に特定の誰かである必然性はない。相手さえいれば良い。それが誰であるかは「憎む者」であるためには関係がない。ミカが後ほど言うように憎悪を向ける対象としては「誰でもよかった」のである。しかし、憎悪の相手としてサオリが選ばれたのは、サオリは【<私>は「(不幸の原因)」である】という立ち位置がミカと同じであり、同じ立ち位置なのに私(ミカ)だけが被害を蒙るのは”不公平”であり、おかしい。サオリが選ばれたのは、このように「不公平だから憎む」という憎む理由を持てる相手だからである。
ミカはアリウススクワッドと一戦交えた際に、”先生”がアリウススクワッドと一緒に行動しているのを知る。その後ミカはアリウスの生徒からアリウススクワッドはアリウスから捨てられ、追われる存在になったと知らされる。セイアから”先生”がアリウススクワッドに狙われていると聞いていたが、実実際には”先生”がアリウススクワッドを助けている状態になっていることがわかってしまう。ミカは「アリウススクワッドから先生を助ける」という建前/位置さえ失ってしまう。
ミカがすがれるのは「魔女」「(不幸の原因)」という言葉/位置だけである。
その後、アリウススクワッドとミカが再戦するが、”先生”側のアリウススクワッドが勝利する。”先生”はミカを止めようとするが、ミカはその場で泣き崩れ、ミカの口からミカ自身を形容する言葉があふれ出てくる。「悪い子」「嫌われ役」「問題児」「トリニティの裏切者」「みんなの敵」「魔女」「悪党」「人殺し」……。私にはもう”こんなもの”しかない、と。
しかし、もしアリウススクワッドを許せば「私は……何者でもなくなってしまう……」「私には、何の意味も残らない……」「わたしは、どうしたらいいの……」と逡巡の後、ミカは再度サオリに憎悪を向けて復讐することを宣言する。
「魔女」=「憎む者」であるためには、憎む相手(の存在)が必要である。憎む対象がいない「憎む者」は存在し得ない。故にサオリたちを許し、憎む相手がいなくなってしまば「憎む者」である<私>はいなくなってしまう。ミカは<私>(<私>は何者かという問いへの答え)を保つためには憎む相手が必要であり、憎む相手(の存在)を保つには、『同じ「(不幸の原因)」という立ち位置なのに不公平だ』というロジックに頼るしかない。故にミカは<私>を保つために、サオリの不公平を正すべく行動する。
その後、ミカはアリウススクワッドを二分して、ミカとサオリのタイマンに持ち込む。ただミカはサオリと向かい合っただけで「目標達成、みたいな?」の気分に浸るという。
言うまでもなく、ミカの<私>を保つロジックは袋小路なのだ。ミカは最終的に不公平を正すことはできないだろう。なぜなら不公平を正すことが完了すれば、憎む相手はいなくなってしまうのだから。憎む相手がいなれくなれば「憎む者」である<私>もいなくなってしまう。故にミカは一番望むことはただ
そうしてグダグダと会話を続ける。戦闘の火蓋を切ったのはサオリの方だ。
しかしながらサオリの方が破れ、サオリは辞世の言葉としてアズサと自身の関係を語る。サオリは自身が「(不幸の原因)」であることを了解し、また「(不幸の原因)」を「疫病神」と名付ける(名付けたからこそ換喩的に動きだし、置き換われるようになる)。しかし、アズサとの関係の中で自身について書き加える(あるいは書き変える)。私は「(不幸の原因)」であると同時に、そしてそれ故に「幸せを望む者」「慈悲を望む者」であると。
「サオリ」を通じてミカは「幸せを望む者」という<私>を取り戻す。
そして、「憎む者」として、サオリに「もう絶対に幸せになれない=再起不能」という痛みを与えれば、ミカも公平な痛みを蒙るべき立ち位置なのだから再起不能になる。「幸せを望む者」としては、ミカ自身の再起不能は避けるべきである。故にミカは「憎む者」と「幸せを望む者」の二つの位置から拮抗し、「憎む者」としてミカはサオリへの復讐を停止する。
その後、”先生”が二人の前にやってきて、やり直す機会は何度でもあると言い、ミカは「魔女」ではなく、多くの言葉を使って、ただの「不良生徒」だとミカを告げる。
話を聞かせてほしい、とまで告げるのは、人は話すことで<私>を作っていくから。話すことは昇華の1つである。
「」
(先生の立ち振る舞いに)業を煮やしたベアトリーチェは、儀式を始め、バルバラ聖女を含めた聖徒会を先生たちに対して向かわせる。ミカはアリウススクワッドの代わりにバルバラに立ち向かうことを決める。きっとバルバラ聖女を含めた聖徒会を抑えることができるのはミカしかいなさそうだとミカは予感したのだろう。
聖徒会と衝突前、ミカは聖歌隊室を見つける。
「多くの人を騙し、絶望に陥れたあなたでも……」
「最後の最後に、誰かを救うことができたなら……」
「苦痛だらけのあなたの人生も、それだけで報われる……」
「……そう、思ったのでしょう?」
ミカは「(自身の)幸せを望む者」である。「サオリ」はミカである。ミカは「サオリの幸せを望む者」である。ミカは、もう一人の私たちである「サオリ」の幸せを祈り、助ける。
ミカが「サオリ」がアツコを助け、救済されることを祈り、赦し、その行方を見送る者と自分を位置づけたタイミング。ミカが「祝福が、あらんことを――」と述べ、壊れていると思われた蓄音機からキリエが流れ出す。
「聖テレジアの法悦」を彷彿させる。享楽の場。何者でもない者が至る場所。
「サオリ」がアツコを助けることで救済される道筋、その未来への流れの中で、私自身が不可欠のピースとして組み込まれている。そう確信できること。私が生まれてきた意味、私が何者なのかという問い、それに対して、私がこのために”いる”、生まれてきたと確信できる場面。この状況こそが(神々からの)慈悲である。そこに今まで散々横滑りしてきた<私>は要らない。私はただ”ある”のみ。自分を見つけられず、ただただ<私>らしいものにひっぱられ続けていたミカ。ここで彼女は答えを感じ、救われたのである。
神々がいるから救済があるのではない。救済があれば神々がいるように感じるのだ。故に”4章”はミカ(やサオリ)の救済の物語をもってして「忘れられた神々のためのキリエ」なのである。またミカの救済によって「魔女」は舞台装置(救済に至るまでの道具)に格下げられた。
※「ミカの救済」はミカが救われたことと、ミカが救ったことの双方を指す。それは1つの出来事の両面にすぎない。
「不良生徒」or「お姫様」:「大切な人」
ミカの元に、”先生”が駆け付ける。「!?」or「……わーお。」蛇足じゃね? あと大人のカードがあることをミカが知ってたら、ミカは享楽の場に至らなかったかもしれない
最後に問いに戻ろう。「聖園ミカ」は一体何者なのか。《記録》としての答えは「」である。ただし不安定ではある。彼女は迷える子羊であり、普遍的な人間性においては誰もが皆同じであるといえるだろう。
蛇足
・「大人」・”先生”とは
ブルアカでは「大人」は少なく、特殊な存在として扱っている。「大人」とは(結果が伴うかはどうかは別として)一つの信念ある幻想を指し示して引っ張っていく存在の定義であるように見える。この意味では、特に3章のヒフミは「大人」であったように見える。また”先生”とは導き手であり、特に「Agnus dei(神の子羊)=キリスト」に沿った位置付けなのだろう。