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05 知るということ
高校生の頃、倫理という授業がありました。
担当している先生は 哲学を専攻されていたそうです。
包み込むような優しさと凛とした厳しさを持つ方でした。
高校の授業は 教科書はガイダンス程度な先生が
多く、倫理の授業もそうでした。
恐らく 思想史についてを学ぶ段になって
先生は数冊の本を選択され、それを機械的に
課題図書として生徒ひとりひとりに割り振っていきました。
私は「ソクラテスの弁明」が課題図書でした。
「無知の知」ですね。
「私は私が知らないということを知っている」
現代風に言えば非常にめんどうくさい人とも
言えるでしょう。
でも、私もこれは自分を戒めるのに今でもよく
思い返すようにしています。
先週、参加しているSNSのグループの集まりがありました。
それは、得意分野についてプレゼンを行う会でした。
一人の方が 空手についてプレゼンを行ったのですが
「実際に蹴られたり、殴られたりするという鍛錬を
行っていると、無抵抗の人が蹴られたり殴られたり
するという話は体感が伴うので、聞くのがつらくなる」
と発言されました。
「逃げろとか簡単に言うけれど、おまえ殴られてみろ
と真剣に思う。」とも。
体感を伴わなずに 知っているということ
体感を通して 知っているということ
そこには 本当に大きな差がある
それを伝えたかったように私は受け取りました。
その夜 熊本県を大きな地震が襲いました。
私は関西に住んでいますが
阪神淡路大震災の時も大きな被害のでなかった
地域に住んでいました。
私の震災の体感を伴う経験は
就寝中にやってきた大きな揺れと
その揺れている時間を長く感じたこと
廊下で響いた照明がぶつかり合う音
出勤しようとバス停に行き
そこで大きな余震がやってきて
立っていられなかったこと
映像や紙ではなく
直接 目にした破壊のあと
個人の生活はなにも
変わりませんでした。
家を家族をいつも見ていた風景を
突然失って 奪われて
今を過ごしている方々の
体感を 私は知らない
私は知らないんだということを知っている
そこから始めよう
生きようと
生き続けようと
みんながそう思えますように