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自己紹介 | 改めましてはじめましてのご挨拶

みなさまこんばんは。

わたしは保護者そして乳児から児童までサポートする子育て支援事業のパラレルワーカー。埼玉県戸田市の開業17年目のベビーマッサージとサイン教室kokoneという教室の運営、無料で遊べるひろば運営、子育て支援者の相談室や育児相談、キッズラインでベビーシッター事業などをフリーランスで行っています。拠点は戸田市と西川口です。

フォロー指定くださっていた方々は、気づいてくださっていたかもしれませんが、過去の記事は固定記事1つだけ残してすべて削除しました。
拠点の再建のプロセスが描かれている参考文献として、事例報告に使うつもりで丁寧に書いていたので、とても苦しい選択でしたが、削除しました。

そして更新も停止していました。

やっと整理ができて皆様に再び自己紹介ができる状態になりました。


わたしは、ある自治体の地域子育て支援センターの専任職員として働いていました。入職当時はこれが地域子育て支援センターの現実なのかと衝撃的な状況で、子どもと保護者を安全に遊ばせる環境設定も整っておらず、職員の勤務態度も決して良いとは言えない状況でした。

当時は面接時の自治体の職員も、直属の上司も、わたくしのキャリアに期待を寄せてくれて、改革を進めやすかったので、半年を待たず拠点の主催イベントの質は向上し、予約者も増え、その変容に同僚の職員も徐々にやる気が出たようで、みるみる成長をしていきました。子どもや保護者の悪口ばかり言っていたこの職員の成長角度が高まった時、この拠点は1年以内に確実に地域で一番と呼ばれるようになると確信しました。

ものすごい勢いで追いかけてくる同僚の職員に対し、喜びと超えていく期待を感じながら、わたしも自身のスキルを上げるため、様々な学びに挑戦しました。ありとあらゆる親子にかかる講座を受講し、拠点に持ち込みトライアンドエラーを繰り返し、専任職員のスキルをさらに引き上げるため、居宅訪問保育の勉強も始め、スキマ時間に実際にシッターとして働くようになりました。

居宅訪問保育の学びは、子育て支援センターの専任職員と親和性が高く、応用できるものばかりでした。支援員としての自分の成長角度もさらに上がりました。子どもの見え方が変わり、より正確に保護者に子供の成長を伝えられる支援員となり、利用者さんからの信頼も徐々に得られるようになってきました。元々ベビー教室で延べ1万人以上の対面実績があり、育児相談1000件以上という経験をもっても、この拠点に自分が違和感なく浸透するには1年近くかかりました。

1年目は建て直しの年だったので数字はあまり期待していませんでしたが、解体&再建が順調に進んだこともあり、それなりの利用者数1.5倍。2年目を迎える直後、丁寧に積み上げた利用者様との関係がいよいよ数字となって結果が出始め、ピーク時は入職前の約2倍近くまで伸ばすことができました。

もうここまでくれば大丈夫、あとは自分じゃなくても安定飛行できる環境づくりと職員と一緒にスキルアップを目指そうと思っていた矢先、上司の様子が変わり始めます。

直前に提出した年度の振り返り報告に書いた内容に不満があったようで、わたしは出した数字の結果が余りにも大きかったので、説明が必要だと思い、2年前からの事実を報告しただけなのですが、なんとなくかみ合わなくなる感覚がありました。わたしは教室でも拠点でも頻繁に育児相談も受けますが、人の小さな変化を察するのが得意です。

なので上司の変化も見逃しませんでした。

でも、大人なので知らないふりをしていました。
年度末でしたので、復職や入園等利用者さんの揺れる心の動きに寄り添い、背中をそっと押して見送る大切な時期です。わたしも恥ずかしながらプロフェッショナルを目指しておりますので、職場でのごたごたは拠点には感情自体を持ち込まないで、とにかく利用者さんを大事に拠点に立ち続けました。

ところが、状況がさらに変化する出来事が起こります。
そのことにより、全てが崩壊しました。
ある一人の支援員の入職をきっかけに、その2か月後に退職に追い込まれました。

まるで切り取り報道のようにパワハラ呼ばれされ、上司には聞こえるように嫌味を言われ、無視をされ、縦社会の公立保育園の中で生きていくためには仕方ないと思いますが、他の保育士はわたしと目も合わせず口をきかなくなりました。自治体から業務改善命令のようなものも出ました。その時に伝えたのは、何をどう説明しても言い訳になるので、内容は分かりましたと飲み込みました。

わたしに出た業務改善は、自分の支援力を下げなさいという指示でした。手遊び、絵本、拠点での会話、育児相談、全てにおいて「先輩ママ」という素人程度のスキルで十分だと言われました。

実際の現場は、子育て経験者という実績だけでは、支援員は務まりません。わたしは常勤の専任職員は専門職と思っておりますし、相応の知識がないと務まらないと思っています。

知識としては子どもの成長過程は大前提で、親の会話に耳を傾け、傾聴力を問われ、不安や迷いを自らの力で解を見つけ出す手伝いをする。外国籍の人もいれば、高齢出産の人も20代初旬で出産する母親もいます。その方々との会話を日々継続していくためには、質問力も問われます。母親のキャリア相談もとても多く、子どもの発達相談も頻繁です。

これらの全てについて、保護者と一緒に考え、よりよい答えを導き出す手伝いが出来なくなることになりました。間接的に退職勧告と同じだと思いました。

これ以上もめてしまうと、利用者さんに迷惑がかかるかもしれないと思い、グッと我慢をしてその場を終わりにしました。

上司はこの日を境に、少しずつ関係性を戻そうとしていましたが、本心は透けて見えます。相手の心の動きを理解し、適切な助言をするための勉強は何十年も時間をかけて学び、アップデートしています。さらにもともと持っている感覚が人より鋭い特性があり、だからわかるんです、小さな心の揺れや動きが。

心から信頼していた上司だっただけに、出来事のショックが大きすぎて、さらには入職当時から誰もがおかしいと思っていたモラハラの嘘つき支援員を守り叱責される日々が続き、ダメージが大きすぎて、もう無理だと思いました。

ハラスメント受けたのはわたしです。

わたしはうそつきが大嫌いです。
だから自分もうそをつきません。


4月から6月上旬当い短い期間で身体も心もすり減り、気が付けば体重が3キロも減ってました。

退職届を出し、翌日から体調不良で休もうと思っていましたが、わたしにはどうしてもこの拠点でやっておかなければならないことがありました。

それは

利用者さんとお別れをすることです。

退職理由はともかくとしても、自分の言葉でちゃんとひざを突き合わせ挨拶をする。せめて会えた人だけでも・・・。

自分が全てを飲み込めば、ここに残ることはできたのだけど、それはみんなの支援をしたり、共助に導いたりすることはできなくなり、ただ座っているだけのましこ支援員。そんな情けない自分でいるならば、福利厚生を担保されている会計年度をやりたい人はそれでもいいのかもしれませんが、わたしは地域子育て支援センターの専任職員になりたくて、前職を退職しています。自分の本気の実践援助力を解放した時、子育て支援の解とは何なのか、それを知りたくて、給料が半分になってでも挑戦したかったからです。

利用者さんにはガマンと努力不足でごめんなさいと謝りました。
一緒に泣いてくれた利用者さんもいました。

拠点に置いて行ってしまった方々のことを思うと、本当に胸が苦しく、退職してもうすぐ1カ月が経つのですが、1日も忘れた日はありません。

そして必ず迎えにいくと誓いを立て、ある大きな決断をしました。

それはまた次回書き残したいと思います。


最後になりましたが、わたしは現在も顔の見える保育者として、地域で子育ての初動に関わる事業をしておりますので、実名で配信しています。もしかすると関係者の方々の目に触れるかもしれません。お目汚し大変失礼いたします。

実名と屋号を対価にしています。真実は一つ、事実は一つしかないことだけはお伝えさせていただきたいと思います。

わたしのことを知る人、知らない人、読んでくれたみなさまがどのように思ってくださるかわかりませんが、気持ちの整理も兼ねて、こちらに記録に残しておきたいと思います。

このnoteでは、今後は一部リニューアルして、福祉にかかる現職で感じた出来事を中心に新たな切り口で関わり始めた子育て支援にかかるお話や、居宅訪問保育の事などについて書いて行こうと思います。

ましこ

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