川瀬貴也氏の橿原神宮を「創られた伝統」とする投稿は正確か?
まいどなニュースに2月19日付で『平安神宮、橿原神宮、湊川神社は「創られた伝統」 宗教学者「伝統が発明された背景を考えることで歴史の理解が深まります」』という記事が掲載されていた。
この記事は京都府立大学教授で宗教学者の川瀬貴也氏による下記のツイートが元になっているようである。
このツイートがバズったので、それを見たライターが記事にしたそうだ。しかし、私はこの記事を読んで「これは不正確ではなかろうか」と思った。元となった川瀬教授のツイートについても然り。
もちろんこの記事に挙げられている平安神宮や橿原神宮、湊川神社が明治になって創建された神社であることは事実である。
しかし、これらの神社が、この記事にあるように「天皇の権威を高め、国家神道を普及させるため」という目的で創建されたかというと、疑問がある。まあ、湊川神社はともかくとして、橿原神宮と平安神宮についてはそう単純なものではない。というのは、橿原神宮にしても平安神宮にしても、地元有志が中心となって創建されているからである。
特に川瀬教授の「天皇家の権威を高めるために適当にこの辺りだろと地域住民をどかして創った」というのは明らかに不適切だ。
また、確かに橿原神宮には「創られた伝統」という側面があるが、平安神宮や湊川神社は事情が異なる。
そこで、川瀬教授が比較的詳しく書いている橿原神宮について取り上げ、その問題点を検証してみたいと思う。
公式サイトに見る橿原神宮の創建
橿原神宮の公式サイトを見ると、その創建については次のように記されている。
つまり国が主導したわけでなく、民間有志の動きが先にあり、国はどちらかというと受動的だったことが伺える。
『橿原神宮御祭神記並御由緒記』
ただ、公式サイトだけでははっきりしたことはわからないので、当時に様子が詳しくわかる資料がないかと探していると、国会図書館デジタルコレクションに明治39年発行の『橿原神宮御祭神記並御由緒記』という書籍があった。
著者は西内成郷といい、この書が出版された明治39年に橿原神宮の宮司に就任している。Wikipediaによれば、安政2年(1855)現在の奈良県高取町に生まれ、明治16年(1883)孝元天皇陵の陵掌に就任、以後、奈良県内十余の天皇陵の守長を務めた。明治20年(1887)には奈良県議会議員となり、橿原宮跡の保存顕彰と橿原神宮創建に尽力したという。
つまり橿原神宮創建のために動いた民間有志の代表とも言うべき人物である。
この『橿原神宮御祭神記並御由緒記』を見ると、橿原神宮の創建が川瀬教授の言うような「天皇家の権威を高めるために適当にこの辺りだろと地域住民をどかして創ったもの」ではないことがよくわかるのである。
西内成郷による橿原宮跡の探求
それによれば、明治維新後、神武天皇が即位した橿原宮跡については諸説紛々たる状態であったという。その状態を遺憾とした西内は、「古書に徴し、地誌に証し、学説に質し、古老に問ひ、或は田畑に附きて字名を探り、又は山林を分けて包囲に校へ」て、畝傍山の東麓に磐余という旧地があり、東南の麓に橿原井という旧跡があることを発見したという。
西内は十年余りをかけて考証を作成し、主務大臣に建言したり、たびたび上京してしかるべき筋に陳情を繰り返した。
そして、当時の宮内大臣、続いて侍従が現地を視察。さらにその筋からも詳細な調査があり、十分な詮議の上で「神武天皇橿原宮旧址は御確定、御裁可在せられ、不肖成郷が多年の労苦、世上に明知せらるゝに至りぬ」こととなった。
これを喜んだ西内は、橿原宮跡とされた土地のうち、自分が所有する地所約2千坪を献納している。そして、それ以外の1万六千坪は宮内省御料地として買い上げられたという。
神武天皇を祀る神社創建の請願
さらに明治22年5月、西内は地元の有志と計り、橿原宮跡に神社を建立して神武天皇と媛蹈韛五十鈴媛を祀ることを請願した。これに感銘を受けた明治天皇が京都御所の賢所と神嘉殿を下賜され、それぞれを本殿と拝殿として神社が建設された。そして翌明治23年3月竣工、4月2日に鎮座祭が行われた。
以上が『橿原神宮御祭神記並御由緒記』に記された橿原神宮創建の経緯である。
地元の民間有志が主導した橿原神宮創建
これを見るとわかるように、橿原宮跡の決定、及び橿原神宮の創建に当たっては西内成郷を中心とする地元有志が積極的に動き、国はそれに応じる形で動いている。川瀬教授が言うような「天皇家の権威を高めるために適当にこの辺りだろと地域住民をどかして創った」というのとはかなり違うのである。
現在の橿原神宮の地が神武創業の地であるというのは、確かに明治になって創られた伝統と言える。しかし、それを主導した人たちが創ろうとした伝統は「自分たちの土地こそ神武創業の地である」というものだ。
つまり直接の動機は「天皇家の権威を高めるため」ではなく、要は地域おこしである。
平安神宮の創建
これは平安神宮にも言える。
平安神宮は、平安遷都1100年を記念して行われた内国博覧会をきっかけとして創建された。博覧会の目玉として大内裏の一部が縮小復元されたのだが、それを社殿として平安京の建設者である桓武天皇を祀る神社としたものだ。
平安神宮の創建も、その元となった内国博覧会も、東京奠都で活気を失った京都の活性化を願ってのものである。国が「天皇の権威を高め、国家神道を普及させる」ために創建したとはいえない。
また、平安神宮に関して言えば、創建当時は桓武天皇を祀る新しい神社であって、そこに「創られた伝統」という要素はまるでない。100年余りの歳月を積み重ねて、「伝統」となっただけである。
神社の創建に消極的だった明治政府
そもそも明治に創建された神社(官国幣社)でも、明治天皇の思し召しとして政府が主導したものは湊川神社、建勲神社、豊国神社(当初は大阪に建てられる予定だった)、靖国神社ぐらいのものである。あとはだいたい旧藩主の建白や民間有志の請願をきっかけとして創建されている。
明治に創建された神社の由緒、あるいは国立公文書館に残る神社の創建や昇格に関わる文書を調べていくと、明治政府はそれほど新しい神社の創建には積極的ではなかったことがわかる。
川瀬教授は、他のツイートなどを見ると典型的な左翼知識人のようなので、戦前の神社神道というと戦後から見た明治初期と昭和10年代のイメージを全体に当てはめようとするのだろうが、そんな単純なものではない。
確かに川瀬教授が言うように「そのような伝統が発明された背景は何だったのか」ということまで考えることは大切だと思うが、そのためには正確な知識を前提とする必要があるだろう。
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