
私のSoundScape/東京駅とオザケン
何か昔のことを思い出す時、風景と共にその当時聴いていた音楽も頭の中で流れ出す。そういうことってないだろうか。
私は大学生だった頃のことを思い出す時、バイトしていた東京駅の風景と、その当時よく聞いていたオザケンの曲が頭に浮かぶ。
大学生の頃、私は東京駅の地下街にあるお土産店でアルバイトをしていた。
閉店までの夜のシフトに入っていたから、店を閉めた後もレジ締めとか掃除とか色々やることが多く、離れた場所にある更衣室で着替えて帰るころには終電ギリギリになることもザラにあった。
更衣室に行くには、八重洲の地下街からわざわざ地上にいったん上がり、新幹線乗り場を通り過ぎたところまで歩く必要があった。そして着替え終わると、また下に降りて地下鉄の乗り場までと結構な距離を歩いた。
終電前の時間にもなると、地下街の店のシャッターは全部降りて、人もほとんどおらず閑散としていた。
昼間は観光客でごった返している地下街と地上をつなぐ階段には、どこから現れたのか寝床をつくっているホームレスの人がいて(警備の人に見つからないのだろうか…)、新幹線乗り場の前では、下の部分がモップになっている機械が無表情な掃除のおじさんを乗せて、ピカピカと電飾を光らせ音楽を鳴らしながら広い通りを滑らかに移動している…というのがバイト終わりのいつもの風景だった。
私はその風景を横目に音楽を聴きながら帰り道を歩いた。プレイリストは小沢健二。全然世代じゃないけど当時ハマってよく聴いていた。
特に天気読みという曲がお気に入りで、地下鉄の乗り場に着くまで何回もリピートした。
その歌詞のどれもが、新しくって鮮やかで惹きつけられる何かがあった。
中でも印象的だったのはこのフレーズ。
君のいっつも切り過ぎの前髪のような
変な気持ちだって
どうにかなってゆく
妙に具体的なそのフレーズが、勉強や何かの活動に打ち込んでいるわけでもなく、かと言って大学生らしく遊び倒すわけでもなく、無駄に自意識だけを拗らせて毎日悶々としているような、何もかも中途半端で冴えない大学生だった私の胸にドンピシャで刺さった。
いっつも切りすぎの前髪のような変な気持ち
そう、私の気持ちはまさにそんな感じ。あの時抱えていたよくわからない感情に名前をつけてもらったみたいだった。
そして曲を聴いてこのフレーズが出てくるたび、いつか私のこの変な気持ちもどうにかなる時が来るだろうか、と自問していた。
時が経ち、変な気持ちはどうにかなったかと言うと、多分今もどうにもなってない。
だけど大学生の時に感じていた「 切りすぎの前髪」みたいな種類の変な気持ちはもう感じていない気がする。オザケンの曲は今でも好きだけど、大学生の時ほどは心に刺さらなくなってしまった。
多分それは、人生の”すごく”若い時期をもう通り過ぎてしまったからだと思う。
今同じシチュエーションになったとしても、あの時と同じ気持ちを感じることはもうないだろう。感情にも賞味期限があって、ある時期を過ぎれば二度と感じられなくなるのかもしれない。
大学生の頃に戻りたいとは全く思わないけど、あの頃の感情はこれから永遠に感じることはないのだと思うと無性に悲しくなる。
どんな感情であれ、今感じられるうちにちゃんと感じておこう。
今これを書きながら、そう思った。
小沢健二/天気読み