忘れられない言葉
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年々涙もろくなってて。
ふとした時に「あー、あれ辛かったんだよなあ」と思ったり。
「あー、あれ、あの言葉、めちゃくちゃ嬉しかったんだよなあ」と思ったり。
大好きなドラマシリーズに感極まったり。
とんでもなく悔しい思いが、堪え切れず溢れたり。
最近なんかは、ドラマ「最愛」の吉高由里子が泣くシーンに自分を投影したりして。
よく涙します。
本当に、涙腺が緩い。
すぐ出る上に、すぐには止まらない。
今日も最近のことについて「うわ、あの言葉、めちゃくちゃ嬉しかったんだよな…」と時差で(実に1週間後に)思い出し、ひとりホロホロしてたんですけどね、(ここまでくるとちょっとキモい)、
もっと昔。6年前。
この頃からひとり落ち着ける空間にいるとホッとして涙が出る癖があったんですけど。6年前なんて中学生と高校生の間なので、それこそ多感な時期だったんですけども。
ずっと心に大切にしてある言葉があります。今も、生き続けている言葉。
中学時代の恩師からもらった言葉でした。
と言っても、私の恩師は当時、今の私よりもちょっと上くらいの年齢の人でした。
個別指導塾のアルバイトのお兄さん。
同じくバスケットボールが好きなことから意気投合し、
担当の数学に留まらず、国語に英語に理科。
化学を専攻している理系大学生でした。
もちろんバスケットボールも。
技術や練習法に留まらず、チームを率いるメソッド(当時部活の主将に抜擢され、彼も主将経験者でした。)やコンディショニング法(彼も私も同じ箇所に慢性的な怪我を抱えていました)まで。
時には、同級生とのいざこざ(入学したての時、私は一時的にいじめの対象になりました)やお互いの恋バナまで。なんでも話しました。なんでも、話せました。
3年間、付きっきりで指導して下さり、私が母校の高校に合格したのは間違いなく彼との二人三脚があったからだと言えます。
大学進学後、彼も仕事で上京してきていたためご飯に連れて行ってもらいました。その際、人生相談も。相変わらず教え子として親身になってくれる、生徒想いな恩師。
今の私があるのは、この恩師がいたからと言っても過言ではありません。
頭の上がらない師匠でありながら、血のつながらない兄のような、いえ、当時の私にとっては父のような存在でした。
そんな恩師は、受験生になった私にひとことも口頭で「がんばれ」と言いませんでした。
滑り止めの私学の問題の難しさが平常心を失わせて、いつも通りの力を出せなかった時。
不安で、母校の過去問も解けなくなってしまい。
本番目前にして、スランプに陥りそうだった時でした。
私立受験の前日、強張った顔で
「頑張ってくる。」
と言った私に、先生はこう言ってくれました。
「もう頑張ってる人に、
俺は『頑張れ』って言わないよ。」
背負い込んでいた重圧を縛る肩紐が、
スルスルとほどけていった感覚を
今でも忘れません。
3年間。
毎週の授業も、練習試合のあとの授業も、
いじめが苦しくてつい泣いてしまった授業も。
松葉杖をこさえていった時も、
香ばしい模試結果を持っていった時も。
春季も夏季も冬季講習も、自習時間も。
いつ何時も見守ってくれていた恩師からの
承認と信頼は、15才の確かな自信になりました。
もうたくさん頑張ってきてるんだから、あとは自分を信じるだけだ、と。
どんな「頑張れ」よりも嬉しかったです。
恩師は私が、気持ちの持ちようで試験結果が揺らぐタイプというのも承知済みだったみたいです。無事に、私学も本命も合格しました。
この経験をしてからは、「頑張れ」という言葉に慎重になったくらいです。
「もうこの人、頑張ってるかもしれないよな…」と、見えない努力の存在を意識するようにもなりました。
1番手軽な応援の言葉なので、使わないわけにもいきませんけれど、
いかんせん
「 『頑』なに『張る』 」
ですよ。はち切れちゃいそうで怖い。
本領発揮にはリラックスが必要であることも学びました。
伴走者であった恩師が、「あの瞬間の私」のためだけに紡いでくれた言葉であると考えると、この言葉は当時の私の勲章でもあります。ありきたりな言葉かもしれない。それでも、あの瞬間にあの言葉を紡いでくれた恩師には、本当に頭が上がりません。
今も私は、
「頑張れ」に代わる励ましの言葉を
模索し続けています。
ああ、また涙出そう。寝ます。
(2023/02/18)
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