「勉強する意味」
ある友人が先日、「勉強する意味」をテーマにnoteを書いていた。
いつかどこかで僕も、「勉強する意味」については、自分なりの考えを表したいと思っていた。
今が良きタイミングだと思い、今日は「勉強する意味」について少し触れていこうと思う。
僕なりの「勉強する意味」についての結論を先に述べる。
それは、
心を広くもつため
である。
自由になるため、愛するため、優しくなるため、と言い換えることもできるだろう。
先述した友人のnoteにもあったが、幼少期に幾度となく大人から
「勉強しなさい。必ず役に立つから。」
と言われずっと疑問に思ってきた。
これが何の役に立つのか。
甚だ疑問であった。
こうも言う大人もいた。
「あの時もっと勉強しておけばなぁ」
まずは前者のセリフについて反論したい。
勉強は役に立つからするものではない。
むしろ、勉強をすぐ役立てようとしてはならないのだ。
微分積分も運動方程式も習ったところで、普段の生活に生かされることはあまりない。
マルクスの資本論を読んだことがないからといって、現代資本主義社会を生き抜くことができないこともない。
役に立たない勉強にこそ、勉強の本質があるのだと思う。
それが『心を広くもつ』ことである。
役に立たないからといって、勉強を投げ出す人は必ずと言っていいほど、酷いエゴイストである。
学問を通じ、世界の広さを知り、その深さに驚嘆しつつ、己のちっぽけさを痛感する。
その営みこそ、『心を広くもつ』ことそのものである。
勉強ができる、勉強ができない。
そんなことはまったくもって議論に値しない。
学問に触れ、世界との境界線に立ち、自己の輪郭を朧げながらに感じ取る行為こそが、勉強の美しさであり、貴さであるのだ。
勉強を拒んだ者は必ずと言っていいほど、酷いエゴイストである。
それは、世界を知らないからだ。
世界を知らないということは、自分を知らないということだ。
そういう輩は、世界が自分中心で回っていると勘違いしている。
その世界には、自由も、愛も、優しさもない。
あるのは自己中心的な欲だけである。
何を隠そう。僕は学生時代、散々勉強を疎い、そこから長い間逃げ出していた。
今考えるとあの頃の僕は、完全なるエゴイストであったと思う。
知らないことすら知らない酷いエゴイストであった。
欲しいものは全て欲していた。
何でもできると誤解していた。
私たちは勉強し続けなければならない。
心を広くもち、自由を獲得し、愛をしり、優しさを抱くことこそが、生きる喜びであるのだ。
生きるために勉強しなければならない。
「あの時もっと勉強しておけばなぁ」
という大人を僕は信用していない。
この言葉から僕は、勉強は学生がすべきもの、というニュアンスを感じ取ってしまう。
大きな誤解である。
勉強は、常にとなりにあるものであり、一生を通じて交流していく存在である。
何も勉強は、黒板の文字をノートに書き写したり、問題集を解いたりすることではない。
絵画に触れ、本を読み、音楽に耳を傾けることも立派な勉強である。
現代の学歴社会に身を投じてしまうと、勉強の価値を見誤ってしまうことがあるだろう。
「いい大学へ行って大企業へ就職するため」
「幸せな家庭を築くためにもお金を稼がなければならない」
「勉強しないと飯を食っていけない」
そんなことをいう大人が多い。
ここで再度はっきりしておこう。
勉強の価値は、そのような次元には存在しない尊いものである。
これらを全否定しようとは思わないし、勉強することで副次的に繋がってくることはある。
ただ、役に立つからといって勉強をしてはならない。
役に立てようとしなくていいのだ。
そこに勉強の寛大さがあるのだ。