あの日見た夕日。

あの日見た夕日。

第一章

夏の終わりだった。

高校三年の八月、受験勉強に追われる毎日の中で、ふとした瞬間に訪れた解放感。それは今思えば、あの日の夕陽が沈むまでの短い時間だけの幻だったのかもしれない。

「河野、今日も残るの?」

教室を出ようとしていた吉田が振り返る。窓際の席で問題集と格闘していた私は、無意識に時計を見た。午後六時を回っていた。

「あと少しだけ」

私は微笑んで答えた。吉田は「無理しないでね」と言い残して教室を出て行った。残されたのは私と、窓から流れ込む夕暮れの光だけ。

教室の窓から見える空は、オレンジ色に染まり始めていた。あと少しで日が沈む。勉強の手が止まった。私は立ち上がり、窓に近づいた。

五階の窓からは、町全体が見渡せた。古い商店街、住宅地、そして海までもが一望できる。日常の景色なのに、夕陽に照らされるとすべてが違って見える。

あの日、私が窓から身を乗り出したのは、単なる偶然だった。

階下のグラウンドで何かの音がした。見下ろすと、一人の男子生徒が立っていた。彼は私の存在に気づいていない様子で、一心不乱にカメラを構えていた。彼が撮影していたのは、まさに私が見ていたのと同じ夕陽。

その生徒の姿に見覚えがあった。写真部の神崎だ。いつも一人で校内を歩き回り、カメラを向けている変わり者。話したことはなかったが、名前だけは知っていた。

彼はしゃがみ込み、角度を変えてシャッターを切る。その真剣な横顔に、私は思わず見入ってしまった。

その時だった。

彼が突然顔を上げ、まっすぐに私を見上げた。まるで私の存在を最初から知っていたかのように。

「おい!」彼が叫んだ。「動くな!」

私は驚いて固まった。彼はカメラを私に向け、シャッターを切った。

「完璧だ!」彼が笑った。「夕陽と君が作る影が最高だったんだ」

恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。私は窓から身を引き、鞄を掴むと急いで階段を駆け下りた。彼に文句を言うつもりだった。

グラウンドに出ると、神崎はまだそこに立っていた。私の姿を見ると、彼は笑顔で手を振った。

「河野さん、だよね?」

私の名前を知っていることに驚いた。

「無断で人の写真を撮らないでよ」私は言った。

「ごめん、でも見てよ」

彼はカメラの液晶画面を私に向けた。そこには、夕陽に照らされた校舎の窓辺に立つ私の姿が映っていた。オレンジ色の光に包まれた姿は、まるで別人のようだった。夕陽と私の影が織りなす構図は、確かに美しかった。

「これ、写真展に出していい?」彼が尋ねた。

「写真展?」

「文化祭の。写真部の展示があるんだ」

断るつもりだった。けれど、彼の目の真剣さと、カメラに映る幻想的な風景に、私は言葉を失った。

「考えておく」

そう言って踵を返した時、彼が私の名を呼んだ。

「河野さん!明日も、同じ時間にここに来てくれないか?」

振り返ると、彼は夕陽に照らされ、輪郭だけが浮かび上がっていた。

「なんで?」

「この光、このアングル、全部が完璧なんだ。もっと撮らせて欲しい」

断る理由はなかった。明日も勉強するつもりだったし、数分だけなら時間を割けるだろう。

「わかった。でも短い時間だけよ」

彼はにっこりと笑った。「ありがとう!明日も最高の夕陽が見られるといいな」

私は軽く頷き、校舎へと戻った。

あの時は知らなかった。あの日から始まる物語が、私の人生をどれほど変えることになるのかを。

夏の終わりの夕陽が沈むまでの、あの短い時間が、私の世界の色を変えていくことになるとは。

第二章

翌日、私は約束通り放課後も教室に残った。

いつもと同じように問題集を開き、ペンを走らせる。だが、時折チラチラと窓の外を見てしまう自分がいた。六時近くになると、勉強に集中できなくなった。

神崎は来るのだろうか。

時計の針が六時を指した時、私は窓辺に立っていた。昨日と同じように、空はオレンジ色に染まり始めていた。グラウンドを見下ろすと、既に彼の姿があった。

私は深呼吸をし、階段を下りた。

「来てくれたんだ」

グラウンドに出ると、神崎は嬉しそうに言った。昨日よりも少し緊張した表情に見えた。

「約束したから」

私は素っ気なく答えた。神崎はカメラを構えながら、私に指示を出し始めた。

「あそこに立ってくれる?昨日と同じ感じで」

彼の指示に従い、私はグラウンドの端に立った。夕陽が私の背後から差し込み、長い影を地面に落としている。

「完璧だ」

彼はシャッターを何度も切った。しばらくして「今度は校舎の壁の前に」と言われ、私は言われるがままに移動した。

シャッターの音だけが響く静かな時間。不思議と居心地が悪くはなかった。

撮影が一段落すると、彼は私にカメラの画面を見せてくれた。夕陽に照らされた私の姿は、昨日同様に幻想的だった。

「河野さんって、写真映りいいね」

「そう?普通だと思うけど」

「いや、本当に。光の受け方が絶妙なんだ」

彼は熱心に写真の説明をし始めた。構図や光の入り方、影の付き方など、私には専門的すぎて半分も理解できなかったが、彼の情熱は伝わってきた。

「神崎くんは、いつからカメラに興味があるの?」

私が尋ねると、彼は少し照れたような表情になった。

「小学生の頃からかな。父親が趣味でカメラを持っていて、それを見よう見まねで使っていたんだ」

「へえ、長いんだね」

「うん。でも本格的に始めたのは高校に入ってから」

会話をしながら、気づけば夕陽はほとんど沈んでいた。空は赤からグラデーションで紫へと変わり始めていた。

「もう暗くなってきたね」

私が言うと、彼はハッとしたように時計を見た。

「本当だ。ごめん、時間取らせちゃったね」

「大丈夫。明日も勉強するつもりだから」

私はそう言って、踵を返した。

「明日も来てもいい?」

彼の声に、私は立ち止まった。振り返ると、彼は少し不安そうな顔で私を見ていた。

考える必要はなかった。

「いいよ」

私の返事に、彼の顔がパッと明るくなった。

「ありがとう!明日も六時ね」

帰り道、私は自分の行動に少し驚いていた。受験生の私が、勉強時間を削ってまで写真のモデルをするなんて。母が知ったら何と言うだろう。

けれど、あの夕陽に照らされる時間が、不思議と心地良かった。日常から少しだけ逸脱した特別な時間。

それから毎日、私たちは夕暮れ時にグラウンドで落ち合うようになった。最初は数分だけのつもりだったのに、気づけば一時間近く話していることもあった。

神崎は写真の話だけでなく、自分の将来の夢や、好きな映画、音楽の話をしてくれた。私も少しずつ、受験の不安や、大学で学びたいことを話すようになった。

九月に入り、夏休みが終わっても、私たちの夕暮れの時間は続いた。教室で勉強を終えると、自然と窓の外を見る。そこには必ず、カメラを手にした彼の姿があった。

ある日、彼は突然言った。

「河野さん、君に見せたい場所があるんだ」

「どこ?」

「学校から少し離れたところ。そこからの夕陽が本当に綺麗なんだ」

警戒心が芽生えた。けれど、一ヶ月近く一緒に過ごした彼を、私は信頼していた。

「いいよ。でも早く帰らないといけないから」

彼は嬉しそうに頷いた。

放課後、私たちは一緒に学校を出た。初めて校外で二人きりになる緊張感があった。彼が案内してくれたのは、学校から歩いて十五分ほどの小高い丘だった。

丘の上に立つと、街全体が見渡せた。そして海。夕陽が海に沈む瞬間が目の前に広がっていた。

「ここからの景色、どう?」

彼が尋ねた。言葉が出なかった。ただただ、美しかった。

「神崎くん、カメラ貸して」

彼は驚いた顔をしたが、素直にカメラを手渡した。私は海に沈みかける夕陽を撮った。そして、カメラを彼の方に向けた。

「え?俺を撮るの?」

「うん。いつも私ばかり撮ってるから、今日は私が撮る番」

彼は照れながらも、夕陽をバックに立った。シャッターを切る。

「ねえ、一緒に写らない?」

私の提案に、彼は驚いたような顔をした。しかし、すぐに笑顔になった。

「自撮りする?」

「うん」

彼が私の隣に並び、カメラを前に掲げた。夕陽を背に、私たちは微笑んだ。シャッターの音がした。

あの日の写真は、今でも私の宝物だ。

夏の終わりに始まった、夕陽の物語。それは私の青春の、かけがえのない一ページとなった。

第三章

文化祭は十月の最初の週末に開催された。

写真部の展示は体育館の一角にあった。神崎は前日、私を呼び出してこう言った。

「明日、必ず写真部の展示に来てよ。特別な場所を用意したから」

私は少し緊張しながら頷いた。彼が私の写真をどのように展示するのか、少し不安だった。大勢の人に見られることに、恥ずかしさも感じていた。

文化祭当日、私はクラスの喫茶店の手伝いをしていた。ようやく交代の時間になり、足早に体育館へ向かった。

写真部の展示スペースは、予想以上に多くの人で賑わっていた。壁一面に大きな写真が飾られ、部員たちが来場者に説明をしている。

神崎の姿を探していると、彼が私に気づき手を振った。

「来てくれたんだ!」

彼は嬉しそうに私の手を取り、展示の奥へと案内した。

「こっちだよ」

案内された先には、一つの白い壁があった。そこには、「あの日見た夕日」というタイトルが掲げられていた。

私の目が大きく見開いた。

壁一面に、この二か月間で撮影された私の写真が飾られていた。校舎の窓辺に佇む姿、グラウンドで夕陽を見つめる後ろ姿、丘の上で海に沈む太陽をバックに微笑む顔。

全て、私が知っている私とは違って見えた。夕陽に照らされた姿は、まるで別世界の人のように神秘的で、どこか儚げだった。

中央には最も大きな写真が飾られていた。丘の上で撮った、私と神崎の自撮り写真。二人とも照れながらも、確かな笑顔を浮かべていた。

「これが…私?」

言葉が出なかった。神崎は少し緊張した様子で、私の反応を窺っていた。

「どう…かな?」

「信じられない…こんなに綺麗に撮れるなんて」

私は正直に答えた。隣にいた女の子が小声で「モデルさん?」と友達に囁くのが聞こえた。

恥ずかしさと同時に、不思議な誇らしさも感じた。

「ねえ、これ見て」

神崎が写真の下に置かれた小さなノートを指さした。来場者の感想を書くノートだった。

「綺麗」「まるで絵画みたい」「光の捉え方が素晴らしい」「モデルの女の子が素敵」

様々な感想が書かれていた。私の頬が熱くなった。

「みんな、河野さんの写真が一番人気なんだ」

神崎が誇らしげに言った。

「嘘…」

「本当だよ。写真部の顧問の先生も絶賛してたんだ」

彼の言葉に、私は照れくさくなった。けれど、確かな喜びも感じていた。

「ありがとう、神崎くん。こんな素敵な写真を撮ってくれて」

「いや、こちらこそ。河野さんがモデルになってくれたおかげだよ」

私たちは微笑み合った。その時、彼の友人が声をかけてきた。

「神崎、審査員の先生が来るぞ!説明してやれよ」

「あ、ごめん。ちょっと行ってくるね」

彼は慌てて友人についていった。私は一人、写真の前に立ち尽くした。

夕陽に照らされた自分自身を見つめながら、私は考えていた。

あの日、窓から身を乗り出さなければ、彼に声をかけられることもなかった。あの日、写真を撮られて怒りに任せて駆け下りなければ、こんな時間は生まれなかった。

人生は、ほんの些細な偶然で大きく変わることがある。

展示の隅に、小さな写真が一枚飾られていた。最初の日、私が知らないうちに撮られた一枚。窓から身を乗り出し、夕陽を見つめる私の姿。

その下には、神崎の直筆で短い文章が添えられていた。

「あの日、君が窓から身を乗り出した瞬間、僕の世界は変わった。夕陽に照らされた君の姿は、まるで別世界からの訪問者のようだった。勇気を出して声をかけた僕に、君は応えてくれた。この二か月間の夕暮れの時間は、僕の宝物だ。」

読み終えた私の目には、涙が浮かんでいた。

その時、背後から声がした。

「河野」

振り返ると、神崎が立っていた。部活の友人たちに囲まれ、少し照れくさそうな表情をしていた。

「みんなに紹介したいんだ。僕のモデル…いや、特別な友達」

友人たちは好奇心いっぱいの目で私を見ていた。私は神崎の隣に立ち、軽く頭を下げた。

「河野です。よろしく」

友人たちと話す中で、私は知った。神崎がどれほど私の写真を撮ることに情熱を注いでいたか。毎日の放課後を心待ちにしていたことを。

文化祭の帰り道、私たちは二人で歩いていた。夕暮れ時、空はいつものようにオレンジ色に染まっていた。

「今日はありがとう」

神崎が言った。

「私こそ。素敵な写真をありがとう」

「文化祭が終わったら、写真全部あげるよ」

「本当に?嬉しい」

私たちは並んで歩きながら、夕陽を見つめた。

「ねえ、河野さん」

彼が突然立ち止まった。私も足を止め、彼を見た。

「なあに?」

「これからも…」

彼は言葉を詰まらせた。顔が少し赤くなっている。

「何?」

「これからも、夕陽、一緒に見ない?文化祭が終わっても」

私は微笑んだ。

「もちろん」

彼の顔がパッと明るくなった。

「本当?」

「うん。だって私たちは、あの日見た夕日で繋がったんだから」

私たちは再び歩き出した。肩がわずかに触れ合う距離で。

夕陽はゆっくりと沈んでいった。けれど、私たちの物語は、まだ始まったばかりだった。

エピローグ

五年後。

大学を卒業した私は、出版社に就職していた。編集部で働き始めて二年目。毎日忙しく過ごしている。

「河野さん、この写真集のレイアウトチェックお願いします」

先輩から渡された資料に目を通す。写真集の企画だ。

「わかりました」

私が担当する写真集は、新進気鋭のカメラマンによる「夕暮れの風景」をテーマにしたものだった。

レイアウトをチェックしながら、私は思い出していた。

あの日々を。高校三年の夏から秋にかけて、毎日夕陽を見ていた日々を。

神崎とは、大学も別々になった。彼は写真の道を志し、私は文学の道へ進んだ。卒業後も、彼はフリーのカメラマンとして活動していると聞いていた。

たまにSNSで彼の写真を見かける。相変わらず、光の捉え方が素晴らしい写真ばかりだ。

あの頃撮ってもらった写真は、今でも私の部屋に飾ってある。特に、丘の上で撮った自撮り写真は、額に入れて大切にしている。

仕事を終え、オフィスを出ると、空はちょうど夕暮れ時だった。

東京の街並みは、高校時代の地元とは全く違う。けれど、夕陽の色だけは変わらない。

ふと、駅前の書店のウィンドウに目が留まった。

そこには、見覚えのある写真集が飾られていた。

「あの日見た夕日 ー 神崎健太 写真集」

私の足は勝手に書店の中へと向かっていた。

写真集を手に取る。表紙は、あの丘から見た夕陽。ページをめくると、懐かしい景色が広がっていた。

そして、巻末に書かれた作者のメッセージ。

「五年前、偶然出会った一人の少女と過ごした夕暮れの時間。彼女がいなければ、私はカメラマンになる決意も、この写真集も存在しなかっただろう。あの夏の夕陽は、今でも私の原点だ。」

涙が頬を伝った。

レジで写真集を買い、外に出ると、空は深い紫色に変わり始めていた。

スマートフォンを取り出し、久しぶりに彼の番号に電話をかけた。

「もしもし?」

懐かしい声が聞こえた。

「神崎くん、私だよ。河野」

電話の向こうで、一瞬の沈黙があった。

「河野さん…久しぶり」

彼の声には、驚きと喜びが混じっていた。

「写真集、見つけたよ。素晴らしかった」

「え?もう見てくれたの?」

「うん。明日、時間ある?」

「あるよ」

「じゃあ、また夕陽、見に行かない?」

彼は少し笑った。

「どこで?」

「東京タワーなんてどう?あそこからの夕陽、綺麗だって聞くよ」

「いいね。六時に待ち合わせしよう」

「うん、六時ね」

電話を切り、私は空を見上げた。

あの日見た夕日から五年。

私たちの物語は、新しい夕陽と共に、また始まろうとしていた。

(終)

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